小春日和

by 千尋様

 

どこまでも高く高く、空は深いまま、青く透き通っていた。青空に滲むように溶け込んでいる白い雲は緩やかに流れ、地上に降り注ぐ午後の日差しは、至る所に陽だまりを作りながら、優しく周囲を包み込んでいる。

 

 「静かだぁ・・・・

 

 聖プレジデント学園の校舎の屋上の片隅に座り込んで、悠理は空を見上げた。

昼休みで生徒達が騒いでいるざわめきが、高い場所にいる所為か、とても遠く聞こえる。

 ゆったりと空を飛ぶ鳶が、一瞬、悠理の上に影を落として飛び去っていった。

 

 そのまま上を見上げたままの姿勢で、悠理はフェンスに凭れ掛かった。

 背中にあたっている金属の、無機質で硬い感触と、足元のコンクリートから伝わる陽だまりの暖かさが、身体に心地良い。時折吹いて来る風も、かえって冷たくて気持ちが良いくらいだ。

 

 そんな穏やかな空気を肌に感じながら、悠理は、考えるともなく、一人の少年の姿を想い浮かべていた。

 何かしら事あるごとに、「剣菱さん」と、頻繁に彼女を構ってくるその少年の

顔が、彼女の脳裏に浮かぶ。ふと気付くといつも、その少年の事を気にしている自分がそこにいる。

 

 ぼんやりとした意識の中で、悠理は少年の名前を呟いた。

 

 ――― キクマサムネセイシロウ ―――

 

 何気なく心の中で呟いたつもりのその名前は、微かに音をともなって、悠理の口から零れ落ちていく。無意識のまま、彼の名を呼んでいた事を自覚して、悠理は大きく目を見開いた。

 

 「なんでまた、よりによってあいつなんだよ!!」

 

 あいつは、友達でも何でもない、ただの顔見知り以外の何者でもないヤツなのに。

 なのに、どうしてこんなにも、あいつの事を思っている自分がいるのだろう。

 

 あいつは、いつもの自分であれば、まず絶対に馴れ合おうとは思わないタイプなのに。

 なのに、何故こんなにも、あいつの事が気になって仕方がないのだろう。

 

 あいつが、何かと口を挟んでくる事を煩わしいと思うのに、あいつを無視して立ち去れない。

 あいつが何も言ってこない日もあるけれど、あいつが来ない日は、なんだか少し淋しい気がしてしまう。

 

 それは一体、何故なのか。

 どうして、あいつの事が頭から離れていかないのか。

 

 わからない。

 全然、わからない。

 

 悠理はすっかり混乱していた。

 

 流れていた雲はいつしか消え去り、冴え渡った青色だけが、空一杯に高く拡がっている。

 ゆったりと吹く風が、悠理の頬を撫でて通り過ぎていく。

 遠くの方で、屋上の入口の扉の軋む鈍い音が、微かに響き渡った。

 

 今まで心に思い描いた事、そのすべてを、身体の外へと振り落とそうとするかのように、悠理は大きく頭を振った。

 

「ああっ!! もう!! わっかんねぇっ!!」

 「分からないって、何が?」

 

 何の前触れもなく、いきなり耳に飛び込んできたその声に、悠理は肩を震わせた。そのまま反射的に、声が聞こえてきた方向へと身体を振り向けると、たった今、悠理が頭の中から追い出した筈のあいつ ―― 菊正宗清四郎が、悠理の左肩を正面にして歩いて来る。

 顔を赤く染めて瞳を見開いたまま、悠理は、目前に立った清四郎を指差した。

 

 「おっ、おまえ、いつからそこにいたんだよっ!!」

 「・・・剣菱さんが『分からない』って叫んでた辺りから」

 

 悠理の左隣から人二人分程度の距離を置いて、清四郎はフェンスに軽く身体を預けた。片手に持っていた黒いファイルを小脇に抱え直して、清四郎が斜め右下へと視線を流す。

 

 「すまなかったね。何だかキミを驚かせてしまったみたいだ」

 悠理が、目線だけを斜め左上にあげた。

 「驚くに決まってるだろっ、いきなり返事が返ってきたら!! ここにいるのはずっとあたい一人だけだと思ってたんだぞ!!」

 「ごめん。屋上に上がって来て、数分も立たないうちに叫び声が聞こえてきたから、つい・・・。・・・邪魔だった?」

 ほんのりと頬を染めたまま、悠理は一つ息をついた。

 

 「・・・いいよ。別に」

 「そう。―― で、剣菱さんは一体、何が分からないの?」

 薄い笑みを浮かべて、清四郎がそう問いかけると、悠理はその場に座ったまま、身体ごと右側を向いた。

 「おおおまえには関係ない。聞くな」

 悠理の、赤く色付いた耳と緊張した背中を、清四郎は見つめた。一瞬沈黙した後、深い息を一つ吐く。

 「ああ。そう。じゃあ、これ以上は聞かないでおく事にするよ」

 

 清四郎はその場に立ったまま、小脇に抱えていたファイルを左手で持った。静かにファイルを開き、それに挟んであったボールペンを右手にする。

 そうして、そのまま清四郎は、ファイルの中身に目を通し始めた。

 

 背後から時折耳に聞こえてくる、ボールペンを走らせる音に意識を捕られながら、悠理はただ黙って、その場に座っている。緩やかに風が吹いて、胸のリボンが揺れる。澄んだ青空の下、緊張させたままの背中で、悠理は清四郎の気配を感じ取っていた。

 

 そして、屋上に差し込む日差しがフェンスに反射して光り、陽だまりをさらに明るくする頃。昼休みの終わりを告げるチャイムが、厳かに鳴り響き渡っていった。

 

 校庭から聞こえていた生徒達の騒ぐ声が、徐々に校舎の内へと消えていく中、背中に感じる気配は一向に変わる様子がないまま、悠理の近くにあった。

 悠理は、ずっと背中を向けていた方向へ身体を反転させた。下を向き、ファイルの中身に目を通している清四郎に、悠理はゆっくりと声をかける。

 

 「―― おい」

 

 「―― 何か?」

 

 悠理に視線をやる事もなく、ファイルに視線を注いだまま、清四郎が応えた。

 「チャイム。鳴り終わったぞ」

 「そうだね」

 たった一言の返事を返して、清四郎は平然と、ファイルに閉じられた紙の上にペンを走らせている。

 

 「・・・行かなくて・・・いいのか?」

 「どこに」

 

 その直後。悠理が、勢いよく立ち上がった。

 「おまえのクラスにだ!! ジュギョウがあるだろ!!」

 ボールペンをファイルに挟み込んで閉じながら、清四郎が悠理へ視線を流す。

 「ああ。それだったら、授業には出ないから構わない」

 「かまうだろ!? ちゃんと出ろよ!! おまえがジュギョウをサボっちゃマズイだろ!!」

 顔を上げ、悠理と向き合おうとしていた清四郎の瞳が丸くなる。

 

 「・・・剣菱さんがそれを言うんだ?」

 

 ほんの一瞬、真顔で悠理を見つめた後、一呼吸おいて、清四郎が口端だけをあげて微笑した。

 

 「どうせキミだってサボるつもりなんだろう? 午後の授業」

 悠理が頬を火照らせる。

 「あああたいはいいんだ!! サボっても」

 軽い声を短く漏らして、清四郎が肩を揺らす。

 「駄目でしょう、剣菱さん。授業にはちゃんと出席しないと」

 「おっ、おまえにだけは言われたくないわ!! このネコかぶり!!」

  清四郎が苦笑する。

 

 「否定はしない」

 

 小声を立てて笑うのを堪えるように、清四郎は口元に手を添えた。

 

 「―― 剣菱さん」

 

 荒い呼吸に合わせて上下する、悠理の肩の動きが止まった。

 

 「何だよ」

 「キミから話しかけてくるなんて、珍しいね」

 「え?」

 清四郎へ視線を投げる悠理の眉頭がほんの少し寄っている。それを気にする様子もなく、清四郎は口元を緩ませたまま、応じる。

 「剣菱さん、いつもは僕とあまり話したがらないでしょう? ・・・それなのに、剣菱さん、今日はまともに僕と会話してくれてるから」

 悠理が再び声を荒げた。

 「おまえの気のせいだ!!」

 軽い笑みを湛え続けていた清四郎の口元が引き締まる。

 「それって・・・。剣菱さんは僕との会話を嫌じゃないと思ってる、っていう意味?」

 ゆっくりと左右の口端を引き上げて、嬉しそうに清四郎が笑った。

 

 その刹那から、悠理は、自身の胸の鼓動が速くなっていくのを感じ取っていた。今にも口から飛び出そうな勢いで脈打つ心の所為で、悠理の顔は再び薄紅色に色付く。

 「そっ、そんな意味じゃない!!」

 

 そんな意味じゃない。

 

 本当はずっと、こいつと話がしたかった。

 こいつと話せることを、本音では嬉しく思ってた。

 こいつの事を煩わしいと思いながらも、どこかで話しかけて欲しいと願っている自分がいた。

 

 だから、「話したがらない」の返事は「おまえの気のせい」。

 

 そう。おまえと係わるのが嫌だ、とか、そんな意味じゃないんだ。

 

 ほんのり赤く染まった顔を隠そうと、悠理は清四郎から視線を逸らす。

 

 「おおおまえとちゃんと会話した覚えなんかまったくない、って意味だ!!」

 

 悠理の本音のすべてを見透かしたように、清四郎が薄く微笑する。

 「そう。なら、そういう事にしておいてあげるよ」

 「何でそうなるんだよ!! 違うって、言ってるのに!!」

 清四郎を振り返り、必死になって反論する悠理の目には、いつしか薄く涙が浮かんでいる。

 「ほら、今だってちゃんと会話が成立してる」

 片方の眉と口端だけを少しあげて、清四郎は悠理に笑って見せる。

 

 「っ・・・!! おっ、おまえなんか大嫌いだあああっ!!」

 

 踵を返して、悠理は、扉のある方向へ向かって勢いよく一歩を踏み出した。目の前に迫った扉に手をかけて、悠理は屋上から校内へと入っていく。

 後ろ手で扉を閉める時、小声を立てて笑う微かな声を、悠理は聞いた気がした。

 

 午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り始める中、悠理は胸を押さえたまま、扉に背中を這わせるようにして、その場に座り込んだ。

 

  

 

 END  

 


―― 以上。季節は初冬十一月の、菊正宗君が笑い剣菱さんが叫ぶ、小春日和の 穏やかな午後の一コマでした(笑)。

 拙作にお付き合いくださいましてありがとうございます。千尋です。

さて、フロさまのサイトの辺境で何気に数を増やしつつある(笑)拙作の中坊話 。

 これらのSSはそれぞれ別次元の話として書いているので、連作シリーズという訳ではありません。

ですが、拙作の中坊話第一弾の眠り姫SSが中二の秋、第二弾の四葉探しSSが中一の春、そして第三弾の小春日和が中二の初冬と、特に計算して決めたわけでもないのに、私、見事に設定の時系列を分けて書いておりました(爆)。

…… どうやら私の中では、菊正宗君は中一の夏〜中二の夏のあいだに、素直じゃない性格を育てていったことになってる模様です ……

 背景:空色地図

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