第十話
菊正宗の家に戻った翌日も、その翌日も、僕は学校どころか買い物にも行かず、一歩も外に出ずに、ずっと部屋に引き篭もっていた。 そして、三日目。 とうとう、鬼より恐ろしい義母・百合子夫人が、乗り込んできた。 日中は僕ひとりである。居留守を決め込むわけにも行かず、座敷に案内すると、百合子夫人は、開口一番、喧嘩でもしたの?と、まるで切りつけるような口調で言った。 僕は小さく、しかし、はっきりと、頭を左右に振った。 「喧嘩ではありません。でも僕は、悠理さんと離婚するつもりでここに戻りました。」 ぴく、と夫人の眉が動いた。 「貴方、悠理と別れて、ただで済むと思っているの?」 「そんなことは思ってもいません。一生、滅私奉公でもして、悠理さんに償いをする覚悟はできています。」 投げ遣りな言い方だったかもしれないが、それも仕方なかった。悠理に愛されていないと分かっただけでもショックだったのに、息子にまでそっぽを向かれたのだ。もう、人生なんてどうでもいいと、半ば自棄になっていた。 夫人は、深々と息を吐くと、小さく頭を振った。 「貴方が出ていってから、悠理はずっと泣いているのよ。何があったのか、きちんと説明してちょうだい。」 僕は、膝の上で握っていた拳に、ぐっと力を籠めた。 「・・・悠理さんが、僕を愛していないことに、気づいたからです。」 「そんなはずはないでしょう。現に、今も悠理は貴方を想って泣いているのよ。」 「いいえ、そうです。悠理さんが僕と結婚したのは、単に初めての相手だったからで、愛していたからではありません。今、泣いているというのも、生まれて初めて異性に振られたショックからでしょう。彼女のことだから、好物を腹いっぱい食べれば、すぐに立ち直りますよ。」 そう―― 悠理は、僕を愛していたから結婚したのではない。 初体験の相手だから、身体の相性が良いから、何となく関係を続けてきただけなのだ。 僕は、夫人に向かって、深々と頭を下げた。 「愛されてもいないのに、これ以上の結婚生活を続けるのは、無理です。責任はきちんと取りますから、悠理さんと別れることをお許しください。」 夫人は、諦めたかのように深い溜息を吐くと、何も言わずに帰っていった。 そして、僕は、誰もいない座敷で、じっと座ったまま、長い時間を過ごした。 日中は、家にひとりきりだ。傍に悠理がいるのに慣れていたので、寂しさを感じないといえば、嘘になる。でも、誰もいないことに安堵する自分も、確かに存在した。 自室に戻って、ズボンの中を覗いてみる。 今日も息子は項垂れたままである。悠理と100年目の結婚記念日を祝おうと誓った日から、息子が「やあ!」と元気に挨拶をすることは、なかった。 マッサージを施しても、湯と水を交互にかけて刺激を与えても、スッポンエキスやヤツメウナギのカプセルを呑んでも、無駄だった。 当然だ。機能障害の原因は、悠理に愛されていないと知ったショックである。機能性勃起障害は、心理的要因を取り除いたとしても、完治するとは限らない。そのため、僕自身も、息子の雄姿を見なくなってから、確実に元気を失っていた。 男というものは、かくに弱い生き物なのか。 身をもってそれを知ったとしても、今の僕には、それを打破する気力すらなかった。 とん、とん、とん。 誰かが階段を登ってくる。 姉が戻ったのかと思ったが、足音は、僕の部屋の前で止まった。 「せいしろ・・・いる?」 躊躇いがちな声を聞いて、僕は飛び上がった。 「ゆう・・・」 僕が返事をする前に、ドアが開いて、悠理が顔を出した。 呆然とする僕に、瞳いっぱいに涙を溜めた悠理が、飛びついてきた。 三日ぶりに嗅いだ甘い匂いに、胸がいっぱいになる。 「・・・清四郎の馬鹿・・・!!」 悠理はぼろぼろと大粒の涙を零しながら、僕に食って掛かった。 「寂しくて、死んじゃいそうだったんだぞ!清四郎に嫌われたと思ったら、苦しくて、息もできなかったんだぞ!」 力任せに揺さぶられても、抵抗する気も起きない。 「・・・どうして、ここに・・・?」 悠理は、ぐす、と鼻を啜ってから、小さな声で答えた。 「・・・和子姉ちゃんが、鍵を、くれたから・・・」 僕の手に、悠理の涙が滴る。その感触に、何故か、酷い罪悪感を覚えた。 愛してもいないのに僕と結婚して、僕を傷つけたのは、悠理だ。 そんな女に、どうして罪悪感など抱かねばならないのだろう? 答は簡単だ。 僕が、身体に異常を来たすほど、悠理を深く愛しているからだ。 悠理は、溢れる涙を拭こうともせず、僕の瞳をじっと見つめた。 「それと・・・母ちゃんが、教えてくれたんだ・・・あ、あたいが、清四郎を愛していないから、清四郎は出て行っちゃったって・・・」 悠理の口から「愛していない」という言葉が出ただけで、痛みのあまり、胸が潰れるかと思った。これ以上、悠理の口から真実を聞くのが耐えられなくて、僕は、必死の思いで言葉を搾り出した。 「・・・悠理が気にする必要はありません。愛されていると勘違いしていた僕が悪いんです。」 「・・・違うもん・・・」 悠理が僕の胸に顔を埋めてきた。シャツに涙が滲みて、僕の胸を濡らす。 「・・・ちゃんと、清四郎が好きだもん・・・」 心臓が、ずくん、と疼いた。 「悠理・・・気を使わなくても良いのですよ。」 「使ってなんかない!」 僕の胸元で、ふわふわの猫っ毛が左右に揺れた。 「あたい、清四郎のこと好きだもん・・・本当に、好きだもん。」 僕は動揺し、悠理を引き剥がそうとしたが、彼女は渾身の力でしがみついており、決して離れようとしない。 「はじめての相手だし、身体の相性が抜群だから、好きだと勘違いしているだけですよ!」 「あたいが好きなのは、清四郎とのエッチじゃなくて、清四郎自身だ!エッチしていないときだって、ちゃんと清四郎が好きだもん!」 僕の背中に回った華奢な手に、ぎゅ、と力が篭もった。 「でも・・・言っていたじゃないですか。初体験のとき、僕が好きだから寝たわけではないと。それに、他の男と寝ていたら、きっとその男と結婚していたと・・・僕と結婚するより、他の男と結婚したほうが、楽しい生活が送られたかもしれないと、そう話していたのを、ちゃんと聞きましたよ。」 悠理が、きっ、と僕を睨んだ。その瞬間、睫毛に溜まっていた涙が、ほろり、と落ちた。 「・・・あたい、馬鹿だもん・・・」 「は?」 悠理が馬鹿なくらい、重々承知している。僕がそう言おうとしたとき、悠理が叫んだ。 「馬鹿だから、仕方ないじゃないか!エッチしたあとで、清四郎が好きだって気づいたんだもん!ずっとずっと好きだったって、エッチしてからようやく気づいたんだもん!」 ふたたび、悠理の瞳が大洪水を起こした。 「清四郎と一緒にいると、凄く幸せだけど、清四郎から嫌われたら、って考えたら、夜も眠れないくらい怖くて、胸が苦しくなるんだ。他の男と結婚していたら、嫌われても怖くないだろうから、気楽に楽しく過ごせるって・・・だから、だから・・・」 ひっく、と、大きくしゃくり上げ、悠理は呟いた。 「・・・これ以上、清四郎と離れていたら、苦しくて死んじゃうよ・・・」 僕に抱きついて、ひんひんと泣く悠理を見下ろしながら、混乱した頭を必死に整理する。答はすぐに導き出せたが、それでも確かめずにはおられなかった。 「悠理・・・悠理は、ずっと僕のことを・・・?」 ふわふわの髪が、大きく頷く。 「交際の申し込みも、プロポーズもしていないのに、それでも良いのですか?」 それまで背中にあった手が、僕の首に巻きついた。 「・・・清四郎の身体が、あたいのこと好きだ、って、いつも言ってくれているから、プロポーズなんかいらないもん。」 ああ―― なんてことだ。 悠理は、最初から僕を愛していてくれたのに、僕は、それを知ろうともしなかった。 言葉にしなくても、僕の想いを感じ取ってくれていたのに、分かろうともしなかった。 ふ、と、互いの視線が絡んだ。 磁石が引き合うかのごとく、ごく自然に、くちびるが重なる。 深く深く吐息を絡めている間に、僕の背中を抱いていた手が、素肌に忍び込んでいた。 「ちょ・・・駄目です・・・!僕は、今・・・」 流石に、息子が勃たないとは、口に出して言えなかった。 「・・・今・・・その、ちょっと不調で・・・悠理を、抱けないんです。」 羞恥と口惜しさで、悠理の顔が直視できない。 しかし、悠理には意味が伝わらなかったのか、行動はさらにエスカレートした。小さな手がズボンの金具をさっと外し、下着の中に滑り込んでくる。 「悠理・・・!」 「あたいは、エッチしたいわけじゃない。ただ、清四郎を感じたいだけなんだ。」 その言葉を聞いた瞬間、頭をハンマーで殴られたかのような衝撃に襲われた。 「・・・せいしろ・・・大好き・・・」 悠理の零した最後の涙が、僕の頬に滴った。 相手を感じるためだけに、触れ合う。 僕は、今まで数多くの女性を抱いてきたが、そんな感情を抱いたことは一度もなかった。 僕が呆然としている間に、シャツは肌蹴させられ、ズボンの前も大きく広げられていた。 相手を感じたくて触れあうのなら、性交に拘る必要はない。 心の底からそう思った僕は、ごく自然に、悠理の身体に触れていた。 くちびるを重ね、素肌に手を這わせ、感じる場所を刺激しあう。 それだけで、脳髄が蕩けそうな快感が湧き上がる。 悠理が愛しくて、ただ、愛しくて、このままひとつに溶けてしまいたかった。 最後に、触れれば消えてしまいそうなキスを交わしたあと、僕たちはそっと抱き合った。 悠理の髪を撫でながら、彼女の耳元にくちびるを寄せる。 「悠理・・・時計の針を、半年前に戻してください。」 「・・・?」 無垢な瞳が、僕を映す。 「僕たちがつき合いはじめる直前・・・はじめてのキスを交わした、あのときまで時計を戻して、聞いてください。」 僕は、悠理を見つめたまま、微笑んだ。 「―― 貴女が好きです。僕と、つき合ってくれませんか?」 悠理は、一瞬、きょとん、としてから、微笑んだ。 「うん、いいよ。」 輝くような笑みに、僕も、微笑みを返す。 「それでは、次は時計の針を、十日前に。」 頷く悠理の左手を、そっと取る。 「悠理―― 僕と、結婚してください。」 左手の薬指にキスを落として、悠理の顔を見つめながら、首を傾げてみせる。 「・・・返事は?」 「もちろんOKに決まってるじゃん!」 悠理はそう叫ぶと、押し倒さんばかりの勢いで、僕に飛びついてきた。 「せーしろー!大好きっ!!」 不意打ちを喰らってバランスを崩したところに、悠理が圧し掛かってくる。 「百年後の結婚記念日まで、一緒にいようね!ずっとずっと、一緒だよ!」 幸せに輝く笑顔を見た、刹那。 数日ぶりの感覚が、下半身に走った。 「おお!」 「うわあ〜!」 息子の雄姿に、僕たちは感嘆の声を上げた。 「すごーい!めちゃくちゃ元気だし、握ったカンジ、いつもより大きいよ!」 悠理が、妖しげな目つきで僕を見上げ、にやり、と笑った。 「ねえ、清四郎・・・」 肉食獣を思わせる瞳に囚われ、背筋に甘い痺れが走る。 「ここは、やはり?」 「うん!やっぱり!」 すべてを言わなくても、互いの瞳が、雄弁に語っていた。 僕たちは熱いキスを交わすと、身も、心も、ひとつになって、溶け合った。 僕と悠理の、本当に甘い生活は、こうしてはじまった。 そして、周囲を巻き込みながらも、ずっと続いていくだろう。 100年目の記念日を迎える、その日まで―― きっと。 「とりあえず、離れていた間の三日分ねっ!」 「・・・僕を早死にさせるつもりですか?」 ―― END ――
この物語の影の主役である、愛すべき息子よ! いつまでも元気でいてね! 清四郎と悠理の幸福は、君にかかっている!! |
背景:壁紙工房ジグラット様