あの子が、私の背を追い越したのはいつだっただろう。
いじめるとすぐに泣くくせに、いつだって私の後を追っかけ回してたおちびさん。いつの間にか、生意気な口を利くようになっちゃって。私よりも色々な経験をして、世界中で暴れ回って。
初めて喋った言葉が、パパでもママでもなく、「ねーたま」だったなんて、きっと覚えてもいないんだろうけど。私は、とってもとっても嬉しかったのよ。




ある晴れた寂しい朝





秀才家系の菊正宗でも、不世出の神童だともてはやされていた弟が、やけに思い詰めた表情をしたのを初めて見たのは、こんなうららかな春の日だった。

私が学校から帰っても、いつものように「お姉ちゃま、チェスやろうよ」なんてまとわりついても来ない。

「…ママ、入舎式で何かあったの?」
私の質問に、ママは「さあ?」と首を傾げた。
何もないはずはなかった。あの清四郎が、膝を抱えて壁と見つめ合っているんだもの。
でもそれを気にもせず、ママは鼻歌を歌いながら、お祝いの支度をしていた。
一緒に行ったお隣の野梨子ちゃんに訊いた方が早いかしら、と思いながらも、私は様子を窺っていた。

珍しく早く帰ったパパと4人揃って食卓を囲む。
だけど、やっぱり弟は唇を引き結び、何かを考え込んでいた。
「幼稚舎はどうだった、清四郎。友達はできそうか?」
その時、清四郎が目を上げ、いきなり言った。
「親父」
「ちょっと、あんた。パパに何て口利く…」
「姉貴は黙っててよ。親父、僕、勉強だけ出来ても駄目だってわかったんだ。強くなりたい」
ぽかんと口を開ける私達の前で、清四郎は両手をついて頭を下げた。
「僕に、武道を習わせて下さい」

オロオロするママの隣で、パパは大きな声を上げて笑った。
「わかった。じゃあ、最高のお師匠さんを探してやる」
本ばかり読んでいたひ弱な弟を変える何かが、その日にあったことは確かだった。理由を問うこともせず、パパは息子の要望を聞き入れた。
「そのかわり、途中で逃げ出したら勘当だぞ。チビ」
清四郎は「はい。わかりました」と言ってまた頭を下げ、小さく「僕はチビじゃありませんが」と付け足した。

その日、私はお姉ちゃまから姉貴に格下げになった。


野梨子ちゃんから、事の顛末を聞いたのは、それからしばらく後のこと。
大切な幼なじみ一人守れなかったことが、よほど悔しかったのだろう。
誰よりも高いプライドを、よりによって女の子に粉々に粉砕されたなんて、情けなくてパパやママに言えなかったのも仕方ない。
まあ、いずれにしても、男として奮起したのはいいことだ。


弟の変化は、見た目ではそれほどわからなかった。
毎朝4時に起きて東村寺の道場に通うようになったけれど、朝食の時間には家に戻って、いつものように通園する。それは小学部に上がっても、中等部に上がっても、一日も欠かさず続いた。
正直、3日ともたないだろうと思っていたママと私は驚いたけれど、パパは「そうか」と言うだけだった。
外見は相変わらず品行方正な優等生。学校では、武道を嗜んでいることすら、公言していないようだった。その理由はわからなかったけれど、かなり年上でなければ彼と話題を合わせることは難しかったから、同級生には友人と呼べるほどの存在がいなかったのかもしれない。

あの日以来、私にまとわりついてくることは全くと言っていいほどなくなった。
鬱陶しいとか面倒だとか、ずっとそう思っていたのに。それはそれで腹立たしいというか、かわいくないというか。
一度、「清四郎。久しぶりにチェスの相手してあげようか。囲碁でもいいわよ」と声をかけたら、 「…暇なの?姉貴」と返された。
もう二度と遊んでやらないわよ!と叫ぶ私に、笑いながら「今日はESP研究会だから、夕飯はいらないって、お袋に言っといて」と手を振って出て行った。

その時、後ろ姿を見上げている自分に気づいて、私は少しだけ寂しくなった。



清四郎は、私の友人との議論も対等―――どころか、いともあっさりと論破してしまうような、小生意気な奴で、パパは「頭でっかち」の行く末をちょっぴり心配なんかしていた。
でも、同級生と“有閑倶楽部”とやらを結成した頃から、少しだけ年相応の表情を見せるようになった。因縁の対決相手だった剣菱財閥のじゃじゃ馬令嬢ともすっかり仲良くなっていたのは意外だったけれど。

「あんたのことだから、まだ根に持ってるのかと思ってたわ」
そう言った私に、ちょっと驚いたような顔をして、清四郎は笑った。
「別に…。むしろ感謝してるくらいですよ。悠理と出会ったことで、僕は変われたんですから」
また少し背の伸びた弟は、いともあっさりと言ってのけ、肩を竦めて見せた。

口ではそう言いながら、試験だ何だと理由をつけては、出来の悪い彼女をしごいて面白がっている様子を見て、形を変えてネチネチと仕返しするなんてまだまだガキね。と、私はずっと思っていた。
それが大きな思い違いだったと知ったのは、彼がある決意をして、それが破れた時のことだった。



「姉貴、すみませんでしたね。剣菱と親族になりそびれてしまいました」
ひと月ぶりに家に戻った弟は、少し窶れているように見えた。
悠理ちゃんとの縁談に舞い上がっていた私達に、翳りのある表情で笑った。疲れているとか、バツが悪いとか、なんだかそういう言葉では片付けられない何かを、私はその時ようやく感じたのだった。

一人息子の決断に反対こそしなかったものの、戻って来てくれたことに、両親は安堵しているようだった。ママはいそいそとお茶を出し、パパは不機嫌な声で「世間は甘くないと思い知ったか」なんてお説教をしつつ、口元を弛ませていた。
適当に相槌を返しながら、清四郎はじっと一点を見つめていた。

そして、私は気付いてしまったのだ。
15年前、幼かった弟が見せた表情と同じだ、ということに。


私の生意気でかわいい弟は、自分でもそれと知らぬうちに、苦しい恋に落ちていたのだ。
自らのプライドをずたずたにする、唯一無二の存在。
強くて、奔放で、男を頼りにせずとも生きていける人。
彼女に必要とされるために、彼はここまでがむしゃらに頑張って来たのかもしれない。


だけど、教えてあげなかった。
生まれた時から、顔も性格も私にそっくりだと言われていた弟が、自分の気持ちを他人に指摘されて、素直に納得するはずなどなかったから。
―――というのは多分嘘だ。
剣菱の身代を手に入れるため、と信じていた方がなんだか奴に似合う気がしたのだ。
愛だの、恋だの、なんて陳腐な理由であの清四郎が結婚することが、私は嫌だったのかもしれない。



* * *



「和子ちゃん、お支度できた?」
ママの声に我に返ると、はーいと返事をして私は立ち上がった。
鏡を覗き、こっそりと目元を拭う。

今日は、あの子の晴れの日。
涙は似合わない。


結局、私からの助言なんかなくたって、あの子はちゃんと自分の気持ちに気付いてしまった。
ちょっとだけ遠回りはしたけれど、二度目の婚約が破談になることはなかった。
だって、二人は互いを必要としていたんだもの。初めて会った、あの春の日からずっと。


あの子に泣かされる日が来るなんて、思ってもみなかった。
しかも、順番が違うじゃない。
私よりも先に結婚するなんて、本当に生意気なんだから。
でも。
悔しいけど、おめでとうって言ってあげなくちゃ。

愛する人と、どうか幸せに。
今度こそ、その手を離さないでね。


私の、かわいい弟へ。




Fin

 

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