青い珊瑚礁
BY hachi 様
ここは南国。八重山諸島の南に位置する、西表島である。
東京湾とは比べ物にはならないほど青い海と、どこまでも済んだ空。温帯には生息しない植物が鬱蒼として島を覆い、海では色とりどりの熱帯魚が悠々と泳ぐ、大自然が作り出したパラダイス。そして、季節が夏とくれば、ドラキュラでもない限り、心が躍り出すに違いない。
ただし。
二人が訪れたのは、暦が九月に入って、暫く経過してからだった。
全国的に夏と認知される期間に訪れなかったのには、理由がある。夏休みの間は、ずっと倶楽部の連中とツルんで遊んでいたからだ。遠くは北欧、近場だと伊豆、さらに近所ならば仲間たちの家と、それこそ一日の間も空けずに連中の顔を見ていたのだから、よくも飽きなかったものだと、自分でも感心してしまう。
恋人だけの時間も大切と思うが、仲間と一緒に過ごす時間も同じく大事だし、何よりも楽しい。彼女も同じ気持ちでいるし、まあ良いか・・・などと思っているうちに、夏休みが終わっていた。よくよく考えてみたら、二人がつき合い出してから初めて迎えた夏だというのに、だ。
だから―― 終わりかけているとはいえ、夏の間に二人きりの思い出を作ろうと、清四郎は彼女と二人きりで南海の楽園へと旅立ったのだ。
金曜の放課後、学生服のまま羽田から石垣島に飛び、最終の定期船で島に渡った。
薄暮の海は穏やかで、水平線の彼方にはダリが描いたような雲が浮かんでいる。あっけらかんとした盛夏の趣はないが、それでも旅情を掻き立てるには、充分だった。
二人きりでの初旅行に、彼女は素直に戸惑い、正直に照れていた。それでも嬉しそうに笑う姿が可愛くて、こちらまで嬉しくなった。金曜の夜から日曜の夕方までの、たった二日間の小旅行である。だからというわけでもないが、一秒でも長く、彼女との思い出を作りたかった。
―― と、思っていたにも関わらず。
移動中、ずっとはしゃいでいたせいか、可愛い恋人はお子様時間のうちに寝てしまった。実際に精神年齢は小学生並みだから、きっと遠足を待つ子供のように、昨夜はあまり寝ていなかったのだろう。
指を咥えて彼女の寝顔を眺めるなんて、当初の予定に含まれていなかった。清四郎も不貞寝よろしく隣のベッドに転がったら、睡魔に秒殺されてしまい、恋人に揺り起こされたときには翌朝になっていた。
これは一生の不覚である。蕩けそうなほど甘い一夜を過ごすはずが、健全かつ健康的な朝を迎えてしまったなんて。それだけでも忌々しいのに、カーテンの向こうはまだ薄桃色で、朝焼けも迎えていなかった。
旅行のときくらい遅くまでベッドと仲良くしていたい。だが、彼女は早々と元気モードに切り替わっていて、まどろむ清四郎の頬を突付いたり、逆に引っ張ったりと、好き放題にしている。とてもじゃないが、二度寝できる状態ではない。仕方なく、本当に仕方なく、清四郎はベッドから這い出した。
「なあなあ、海に行こうぜ!海!」
こちらの返事を聞く前に、水着を掴んでバスルームに飛び込んでいる。朝っぱらから彼女がはしゃぐのも無理はない。このペンションは、階段をたった二十段ほど下っただけで、海に飛び込める。しかも、ただの海水浴場ではない。小さな入り江の底は、珊瑚の群生地になっていて、ゴーグルひとつあれば、すぐに竜宮城の気分が味わえるのだ。
日本海溝並みに落ち込んでいた気分も、バスルームから出てきた彼女を見た途端に、富士山頂を軽く越えた。南国の海を思わせる、コバルトブルーのビキニ。彼女の溌剌とした魅力を引き立てるだけでなく、しなやかな肢体をよりいっそう美しく見せていた。
清四郎は眩しいものでも見るように眼を細め、頭のてっぺんからつま先まで彼女を眺めた。
「スケベっ!何を見てんだよ!?」
視線に気づいて、慌ててバスタオルで身体を覆おうとする彼女を、素早く抱きしめる。反抗される前に頬へくちづけて、耳元でそっと囁いた。
「やっぱり可愛いな、と思いまして。」
飛んできた張り手を避け、もう一度、可愛いですよ、と褒める。すると彼女はトマトよりも赤くなり、馬鹿、と叫んで外へ飛び出してしまった。
清四郎は肩を竦めてから、くすりと笑った。
やれやれ、照れているのは分かりますけど、もう少し男心を解してくれても罰は当たらないでしょうにね。
「海だーっ!!!」
先ほどまで照れていたのが嘘のよう。砂浜へ降り立つよりも早く、身体に巻いていたバスタオルを投げ捨てて、裸足のまま海へと駆け出した。清四郎は一瞬だけその後姿に見蕩れたが、すぐ正気に返って叫んだ。
「裸足じゃ危ないですよ!ちゃんとマリンブーツを履きなさい!それに、もうクラゲが出ますから―― 」
こちらが言い終わる前に、彼女は海に飛び込んでいた。危険はクラゲだけではない。見た目は美しいが、底は尖った岩礁と珊瑚で埋め尽くされている。下も確かめずにダイブなどしたら、結果は眼に見えている。慌てて後を追ったが、時既に遅かった。
「いってええええええ!!」
年頃の娘のものとは思えぬ、色気の欠片もない悲鳴が周囲にこだました。彼女は海の中から左手をこちらに差し出して、ふぇぇん、と泣き声を上げた。
「クラゲ、刺されたぁ。」
出された左手を診ると、甲の少し上が、細長く五センチほど赤く腫れていた。思ったよりも軽傷で安堵したが、優しい顔を見せたらまた無茶をするはずだ。痛いよう、と泣き声を上げる彼女に、当然です、と冷たい言葉を浴びせる。
「これがハブクラゲだったらどうするつもりです?運が悪かったら、そのままショック死していましたよ。この時期に泳ぐなら、ラッシュガードくらい着てください。」
傷口を海水でそっと洗い、残った刺胞をピンセットで丁寧に取り除いてから、抗ヒスタミン軟膏を塗る。
「お前さ、何で海にまで薬のセットを持ってきてんだ?」
まさか彼女がクラゲに刺されることを想定していたとは、お預けになっている甘い一夜を過ごすためにも、口が裂けたって言えない。
「寝惚けていたから、間違えて持ってきたんですよ。」
そこで騙され―― 否、すぐに信じてくれるのが、彼女の良いところである。
「こらっ!」
無事に治療が済み、清四郎がバッグからラッシュガードやブーツを出している隙に、またもや裸足のまま海に飛び込んだ。早朝の誰も居ない海を独り占めできるのが、嬉しくて仕方ないらしい。両手で掬った海水を空に向かって放っては、きゃっきゃと笑い声を立てている。その姿があまりにも綺麗で、清四郎は思わず息を呑んだ。
散った飛沫に朝日が反射し、彼女の瑞々しい肢体を輝かせる。
濡れた髪も、白い背中も、細い首筋も、いつも見ているはずなのに、はじめて見るような気がした。
彼女がこちらを振り返り、大きく手を振った。
「清四郎も早く来いよ!」
じゃじゃ馬の人魚姫に向かって、清四郎も手を振る。彼女のためのブーツとゴーグルを手にして、いよいよ海に入ろうとした、そのとき。
「ふぎゃあああああっ!!」
次は何なんですか、次は。
彼女はこちらに向かって両手を伸ばし、また、ふぇぇん、と泣き声を上げた。
「ウニ、踏んだぁ。」
右足の踵に、黒っぽい棘が七本ばかり刺さっていた。
「ウニなんか、嫌いだあ。もう二度と食べないぞ。」
彼女は砂浜にうつ伏せた状態で、ぶうぶう文句を垂れている。
「雲丹ではなく、ガンガゼです。まったく、言うことを聞かないから痛い目に遭うのですよ。ちゃんとマリンブーツを履いていれば、怪我などしなくて済んだのに。」
膝を曲げさせ、足の裏を上に向ける。
「毒はありませんから、棘を除去して消毒すれば問題ないでしょう。」
専用ケースの中からメスを取り出すと、彼女の顔色がさっと変わった。
「な、な、なんでそんなもんまで持ってるんだよ!?」
「ガンガゼの棘は脆いから、ピンセットでは抜けないんですよ。少しでも棘が残ったら、ずっと痛みますしね。切開して全部除去するのが一番なんです。」
いやだああ、と暴れる彼女に、絶対に痛くしないから大丈夫だと言い聞かせる。ようやく清四郎の言葉を信じたのか、涙ぐんだままこちらを仰ぎ見て、か細い声で尋ねてきた。
「ホントに、痛くしない?」
男とは哀しい生き物である。そのひと言に、朝には似つかわしくない想像をしてしまい、血が騒いできた。それでも何とか妄想を振り切り、爽やかな笑顔で頷いた。
表皮を切るだけなので、大して痛むはずもない。清四郎は彼女から蹴られることなく無事に治療を終了させた。防水加工された絆創膏を貼ったついでに、マリンブーツを無理やりに履かせると、彼女はもの凄く嫌そうな顔をした。
「カッコ悪いから、嫌だっ!」
彼女の奇抜なファッションセンスのほうが、よっぽど格好悪いと思ったが、それを口に出すほど清四郎は馬鹿でない。
「傷口に砂が入ったら、化膿するかもしれないでしょう?そうしたら、せっかくの旅行も楽しめなくなりますよ。」
清四郎が優しく説いたら、渋々ながらも納得したようだ。ラッシュガードも薦めたが、海なんだから水着でイイじゃん、と子供のようなことを言って、すぐに海へと駆け出した。
まったく、本当に子供なんだから、どうしようもありませんね。
呆れつつも水着姿の彼女に見蕩れる自分だって、どうしようもない馬鹿である。
マリンブーツを履いて安心したのか、彼女はどんどん沖へと進んでいく。元々が浅瀬だし、今はちょうど干潮だから、溺れる心配はまったくない。元より彼女が溺れるはずもないが。
太腿まで海に浸かったとき、彼女が頓狂な声を上げた。
「うわぁああ!!清四郎!清四郎ぉ!!」
次は何ですか!?イモガイですか?それともミノカサゴの鰭にでも触りましたか?
ええ、何でもドンと来いです。そのためにわざわざ救急キットを持ってきたのですから。流石にハブ毒の血清は手に入らなかったですけど。
「すっごい!青い魚がいっぱい泳いでるよ!早く来て!」
彼女の輝く笑顔に、清四郎は深々と溜息を吐いて、救急キットから手を離した。
ざぶざぶと音を立てて傍に寄ったら、魚が逃げるだろ、と怒られた。やれやれと思いながらも水音がしないよう進んで彼女の背後に立つと、無邪気な笑顔が振り返った。
「ねっ、ねっ、可愛いだろ?あっちにも、こっちにも、いっぱい居るんだぜ。」
子供のように眼を輝かせて話す彼女。清四郎は半ば彼女の背を抱くようにして、同じ水面を覗き込んだ。彼女の足元では、小さな青い魚が何匹も泳ぎ回っていた。
「ああ、ルリスズメですね。沖縄の海ではポピュラーな魚の一種ですよ。」
清四郎の説明は、彼女の耳に届いていないようだ。満面の笑顔で、可愛いなあ、綺麗だなあ、としきりに呟いている。熱帯魚を見たくらいで滅茶苦茶に喜ぶなんて、本当に子供である。でも、清四郎は彼女のそんなところに惚れたのだ。
自分がとっくの昔に失ったものを、彼女は今も持っている。彼女には、計算も、建前も必要ない。いつもは分厚い仮面を被った清四郎も、彼女の前でだけは、素顔の自分でいられるのだ。
「ホントに綺麗・・・そう思わないか?清四郎。」
「ええ、本当に綺麗ですね。」
嘘ではない。本当に本心からそう思った。ただし、魚ではなく、彼女を。
珊瑚の海を泳ぐ、どの熱帯魚よりも、彼女のほうが鮮やかで美しい。コバルトブルーの水着を着てはしゃぎ回る姿も綺麗だが、生まれたままの姿のほうが、もっと。
しかし、今それを言えば、張り手が飛んでくるのは確実だ。清四郎は穏やかな笑みを浮かべたまま、もう一度海を覗き込んで、青い魚を眺めた。そこに彼女が頬を寄せてきて、細波に掻き消されそうな声で、呟いた。
「お前が傍にいるから、あたいは安心して無茶ができるんだぞ。」
彼女は俯いたままで、表情は見えない。だが、俯いた頬は、見事なくらい真っ赤に染まっていた。
清四郎は海の中で彼女の手を捉え、しっかりと握り締めた。濡れて冷えたはずの手が、繋がった部分から徐々に温まっていく。その確かな温度に、清四郎の心も暖かくなる。
やはり熱帯魚なんかより、彼女のほうが何倍も綺麗で、可愛くて―― 愛しい。
それは青い珊瑚の海ではなく、白いシーツの海の中で囁いたほうが、効果的でしょうね。
「今日は思い切り楽しみましょう。」
「うんっ!!」
向日葵よりも明るい笑顔に、清四郎は静かに頷いた。
完…ですが、ちょっと「おまけ」あり。
作品一覧
お宝部屋TOP
|