新説・道成寺 巻の弐





交通網が発達した現代でも、熊野はやはり遠い地でございます。
何しろ紀伊半島の突端近くです。自動車を使っても、県庁所在地までざっと四、五時間はかかりましょうか。逆に三重県のほうが近いかもしれません。それでもやはり関西の外に住んでいる人間にとって、遠い場所であることに違いはございません。
現代だってそうなのですから、平安の世の人々にしてみたら、地の果てと同じくらい遠く感じていたでしょう。

悠理安珍が旅立ってからというもの、清(四郎)姫、すっかり塞ぎこんでおりました。
家人が誘っても部屋から出ようともせず、夫婦の誓いを立てた、右手のほくろを見ては、ほう、と溜息を吐いて、悠理安珍に想いを馳せております。
愛しい男はお馬鹿なだけに、心配の種は尽きません。
悪い奴にころっと騙されて、酷い目に遭っているかもしれない。旅の途中で金子を盗られて往生しているかもしれない。薬を盛られて自由を奪われ、十八歳未満はお断りするような、嫌らしいコトをされているかもしれない。
清(四郎)姫、まさか自分が一番酷いことをしたとは、欠片も思っておりません。
ただ、ただ、恋する乙女の大半がそうであるが如く、ひたすらに悠理安珍の身の上を案じておりました。
約束の日を指折り数え、悠理安珍の無事の帰りを、じっと待ち続けていたのです。

その頃、悠理安珍は。
真砂の庄司清次の家を逃げるように出立してからというもの、毎晩のように悪夢を見て魘される日々が続いておりました。ふとした拍子に、あの忌まわしい記憶が甦りまして、その度に言い知れぬ恐怖に襲われるのです。
何しろ十三歳の娘に貞操を奪われかけた挙句、ナニを何扱いされたのですから、男の沽券は丸潰れ。しかも、下帯を引き千切られ、問答無用で裸に剥かれるという、相当に恐ろしい体験をいたしましたから、心は深く傷ついております。
今で言う、心的外傷、所謂トラウマでございますな。トラウマによって引き起こされるのが、フラッシュバック。心的外傷を負ったときの記憶とともに、そのとき味わった恐怖が甦り、混乱や激しい感情の起伏を引き起こす症状です。
眼を瞑れば、清(四郎)姫の壮絶な美貌が甦り、衣が肌に擦れるたび這い回る掌の感触を思い出し、そのたびに悠理安珍は慄いて、結婚の約束をしてしまったことを深く後悔するのでした。
それでも熊野に詣でるまでは、まだマシでした。何しろ行き道でございますから、余裕があります。まだ長い帰り道が残っておりますから、焦って色々考える必要はございませんし、眼はり寿司やら柿の葉寿司、黒潮の海で獲れた鯛やサザエなど、麗しい郷土の味覚が、人一倍に食い意地の張った彼の気を紛らわせてくれておりました。
しかし、目的を果たしての帰路になると、フラッシュバックが引っ切り無しに起こるようになりました。それは真砂の宿が近づくにつれ酷くなり、とうとう食事も咽喉を通らなくなりました。ブラックホールの胃袋を持つ悠理安珍にしてみれば、有り得ない症状です。
しかし、まあ、そうなっても仕方のないこと。何しろ還俗するだけでも大変な決意が必要なのに、あの恐ろしい娘と夫婦になるなど、並大抵の覚悟では、とても乗り切れるものではございません。
そこで、悠理安珍、一計を案じました。
真砂の宿を猛ダッシュで通過してしまえば、きっと逃げられる。
実はこの悠理安珍、お馬鹿で大喰らいなだけでなく、卑怯者でもあったのです。そうは言っても、根が単純ですから、綿密な計画など立てられようはずもございませんで、動物の本能そのままに、ただ、逃げる。それであの清(四郎)姫から逃げられると信じているのですから、お粗末な話でございます。
さて、悠理安珍、そうと決めたら、さっさと真砂の宿を抜けるに越したことはない、と考えまして、約束の日の朝、朝靄立ち込める中を、まさしく脱兎の如き勢いで、真砂の宿を駆け抜けます。
そして、とうとう、清(四郎)姫が住まう、清次の家の前を通過いたしました。
門の前を通り過ぎる瞬間、僅かに足を止めまして、家の様子を窺ったのは、清(四郎)姫が起きているかを確かめた訳ではございません。
いくら本人の意思を無視した約束とはいえ、勝手に破るのは胸が痛みました。感じているのは、良心の呵責だけではございません。出立の朝、涙ぐんで見送ってくれた清(四郎)姫の姿が、瞼の裏に焼きついて、なかなか離れないのです。
「ごめん・・・」
届きはしない謝罪を残して、悠理安珍の後姿は、朝靄の中へと消えていきました。

朝靄がすっかり消えた頃、清(四郎)姫は屋敷の前に立ちまして、愛しい夫の帰りを今か今かと待ち構えておりました。 別れてからずいぶんと経っております。熊野に詣でている間に、きっと悠理安珍の決心もついているはず。清(四郎)姫は純粋にそう信じ、男が歩んでくるであろう道を眺めながら、いよいよ迎える新床への期待に、筋肉の発達した胸を膨らませております。
夫婦の盃を交わしたあと、一緒に湯殿へ入って、悠理安珍の旅の疲れを丁寧に洗い流してあげるついでに、あんなことやこんなこと、口では言えないコトをたっぷりヤッて、ふたりの絆を一気に深めよう。そのあと、共に入る布団の中でも、睦言を囁き合いながら、愛と一緒に身体を確かめ合おう。
清(四郎)姫の頭の中では、古今東西ありとあらゆる書物から学び取った技を駆使した、痴態の様子が繰り広げられております。そりゃあもう、決して映像化できないような妄想でございまして、とてもじゃないがワタクシも恥ずかしくて、詳しくはお伝えできません。
くどいようですが、清(四郎)姫は十三歳。だって、そういう設定なんですから。
さて、脳内妄想に時間を忘れていた清(四郎)姫でしたが、はっと我に返ると、既にお日さまは頭の真上。燦々と降り注ぐ日光を見上げ、きりっとした切れ長の眼を細めます。
「悠理安珍さまは、今どのあたりを来ているのでしょう?」
背伸びして街道の先を眺めてみても、愛しい夫の姿はありません。待てば待つほどに会いたい気持ちが募り、とうとう我慢できなくなった姫は、熊野のほうへ歩き出しました。

しばらく歩いていると、道の脇に一軒の粗末な茶屋がございました。
傾いだ簾の間から中を覗くと、薄暗い土間の片隅で、ずんぐりむっくりした中年の男がひとり黙々と釜を洗っておりました。
「あの、すみません。」
清(四郎)姫が声をかけると、男は釜から顔を上げました。
「何だがや?」
ジャガイモのような顔は、茶屋の主というより農夫のほうがぴったりきます。男はもったりした動作で立ち上がると、ぺたぺたと間の抜けた足音をさせながら、表まで出てまいりました。
「お客さんならすまねえだ。今、母ちゃんが出ていてよう、茶しか出せねえだ。」
「いえ、客ではありません。少々ものをお尋ねしたいのですが。」
ん?と朴訥そのものの仕草で首を傾げる男に、清(四郎)姫は悠理安珍の特徴を話して聞かせ、見かけなかったかと尋ねました。すると。
「ああ、若くて綺麗なお坊さまなら、今朝方早くにここの前を通っただがや。」
その言葉に耳を疑った清(四郎)姫、思わず男の襟を掴みます。
「何をするだ!?」
男は短い手をばたつかせて逃げようといたしますが、日頃から武道の鍛錬を積んだ清(四郎)姫の腕力に敵うはずもありません。
「本当にそのお坊さまは、今朝早くにこの前を通ったのですか?ちょっとお馬鹿そうですが、身体はすらりと均整が取れていて、ぱっちり二重瞼に栗色の瞳が印象的な、思わず齧りつきたくなるような美少年ですよ?間違いはありませんか?」
「オラに、男に齧りつく趣味はねえだ。」
「余計なことは言わなくていいんです。」
ぐい、と掴まれた襟を上げられて、男は、ひい、と踏み潰した蛙のような悲鳴を上げます。
「確かにお前さまが言うようなイイオトコのお坊さまは、今朝方早くに熊野のほうから御坊のほうへ向かっただ!ずいぶん急いでいなさるようで、韋駄天も真っ青のスピードで走っていかれたがや!」
まるで逃げているみたいな必死の形相で―― 男の余計な一言に、清(四郎)姫の中で、何かが壊れました。
まさか、まさか。
いきなり襟を放され、男はもんどりうって倒れます。しかし、清(四郎)姫は男を振り返ることなく、ふらふらとした足取りで歩き出しました。
心から愛したひとに、裏切られて捨てられる。
挫折を知らぬ姫にとって、耐え難い事実でございました。
来た道を引き返しながら、姫は十三年の人生ではじめて味わう裏切りに、ただ呆然としておりました。頭が良すぎるというのも良し悪しでございます。壊れた心の中で、残滓のようにこびりついた理性が、嵐のように渦巻く様々な感情すべてを理解しようと努めております。しかし、今まで培ってきた知性など、失恋の苦悩に太刀打ちできるはずもございませんでした。
やがて、理性の残滓がショックに耐え切れずに崩れ去り、そこでようやく自分がどれほど傷ついているのかに、気がつきました。
心が血を流して悲鳴を上げています。感情のままに叫びたいのに、叫ぶ方法が分かりません。この苦しみから逃れられるなら、気が狂っても構わないとさえ思います。
道半ばで立ち止まり、緩慢な動作で右手を顔の前まで持ち上げます。親指と手首の間に浮かんだ、小さなほくろをじっと見つめ、あの日、あのときの約束を思い返しながら、悠理安珍がしてくれたように、そこに自分のくちびるを押し当てました。
―― 夫婦になると、誓ってくれたのに。
「・・・許さない。」
悠理安珍は、前世から結ばれた縁で、夫になると決められたひと。
逃げるなんて、許さない。
清(四郎)姫は、ゆっくりと歩き出しました。しかし、その足は歩むほどにどんどん速くなり、いつの間にか疾風の如き勢いに変わりました。
髪がざんばらに乱れても。着物が惨めに乱れても。
悠理安珍に追いつけるなら、どんな姿に成り果てようと、構わない。
絶対に、約束だけは守らせる。
周囲には、陽光が燦々と降り注いております。雲雀の高らかな謡声が、天高く響きます。
そして、乾いた風に土埃が舞う道の上、姫の腰からだらりと垂れた赤い帯が、まるで血に塗れてのた打ち回る蛇のように見えました。



まさか清(四郎)姫が追ってきているとは露知らず、悠理安珍、日高川の渡しを目指して、街道をてくてくと歩いておりました。
真砂の宿は後ろに遠く離れましたし、日高川を渡ってしまえば、いくら清(四郎)姫でも追ってはこれないはず。平安時代のことでございますから、良家の、ましてや嫁入り前の娘が、男を追って川を渡るなんてことは、有り得ないのです。
土手に上がって、広がる川面を見渡すと、少し先に渡し舟が舫ってあるのが見えました。舟の上には船頭らしき男の姿もあります。あれに乗ってさえしまえば、眠る男に襲い掛かるような恐ろしい姫とは二度と会うことはございません。
そう、二度と清(四郎)姫とは会わないで済む―― 
ちくん。
そのとき何故か、胸が錐で突かれたように、鋭く痛みました。
悠理安珍は己の胸に手を当てて、痛みの理由を考えます。しかし、所詮はお馬鹿ですから、いくら考えようが、答えは出てまいりません。きっとまた恐怖の記憶を思い出しただけ、と無理な理由をつけて、舟を目指して歩き出したのでございます。
「おーい、乗っけてくれるか?」
土手の上から声をかけると、船頭は左手で笠の縁を持ち上げて、悠理安珍を見上げました。
船頭の顔を見て、悠理安珍、思わず息を呑みました。男らしいシャープな輪郭と、鋭い眼。露出した腕や胸板は悠理安珍と違って逞しく、船頭らしく日に焼けた肌が、男っぷりを上げております。
何より印象的なのは、彼の髪ございました。悠理安珍が息を呑んだ理由も、そこにあります。何と、船頭の髪は、ど派手な桃色だったのです。
「おう、遠慮せずに乗っていきな。坊さんなら渡し賃も勉強してやるよ。」
そしたら功徳も積めるだろうしな、と陽気に笑って、立ち上がります。悠理安珍、船頭の見た目にそぐわぬ優しい言葉に安心して、トコトコと土手を駆け下り、舟へと急ぎました。
「お坊さん、急ぎの旅かい?」
網代笠の紐を結び直しながら、船頭が悠理安珍に話しかけます。うん、そうなんだ。そう答えようとして、悠理安珍、口を噤みました。
理由は分かりませんが、何だが川を渡ってしまうのがいけない気がしたのです。どこかに忘れ物をしてきた気分と申しましょうか、後ろが気になって仕方ありません。その理由を考えてみても、脳裏に浮かんでくるのは、縮み上がるほど恐ろしかった、清(四郎)姫の端正な顔だけございます。
振り返って、遠く離れた真砂の宿に思いを馳せた、そのとき。
なんと、どす黒い気配が、向こうの空をおどろおどろしく染めているではありませんか。
恐ろしいことに、その気配は物凄いスピードで接近してまいります。しかも、悠理安珍には―― 忘れたくても忘れられない、強烈な気配でございました。
「おい!早く出してくれ!」
三段跳びの要領で舟に飛び乗り、船頭に向かって叫びます。悠理安珍のただならぬ様子に戸惑いながらも、船頭は舫っていた縄を解きにかかりました。が、その間にも刻々と黒雲は近づいてまいります。
ようやく縄が解けた、その瞬間。
土手の上から、不気味な暗雲を背負った清(四郎)姫が現われました。
「うげえ!何だよ!あれは!?」
突然出現した清(四郎)姫を見て、桃色頭の船頭は驚愕しております。それもそのはず、姫の豊かな黒髪は山姥のように解れ、色鮮やかな錦の着物は見る影もなくぼろぼろになっていたのです。
「・・・悠理安珍さま。私たちは、夫婦になるのでしょう?」
地を這うような低い声に、悠理安珍は震え上がりました。
長い道程を駆け抜けてきたのでしょう、姫は血と泥に塗れた素足を、一歩、前に進めました。裾の擦り切れた帯が、ぞろり、と地面を這って、悠理安珍に近づきます。
「は、は、はっ!」
「気合を入れているのか?それともラマーズ法の一種か?」
「違ーうっ!!早く舟を出してくれえ!!」
悠理安珍に喚かれるまでもなく、桃色頭の船頭は舟を漕ぎ出しておりました。誰だって、おどろおどろしい暗雲を背負った娘に近づかれては堪りませんから、普段の倍のスピードが出るよう、巧みに舟を操りまして、清(四郎)姫のいる岸から見る見るうちに遠ざかっていきます。
岸にひとり残された清(四郎)姫、小さくなる舟を睨みながら、くちびるを強く噛み締めました。歯が食い込んで破けたくちびるから、真っ赤な血が滴り落ちますが、姫の心はより深く、激しく痛んでおりますから、噛み切ったことにすら気づいておりません。
視力2・0の双眸が、舟の上で振り返る悠理安珍を捉えました。しかし、愛しい男は忌まわしいものを避けるかのように、姫から顔を逸らしました。
背中を向けた男の姿を見て、清(四郎)姫の心は最後の砦を失いました。
こちらは我を失うほど愛しているのに、向こうは砂粒ほどの愛情も抱いていない。
本心では、裏切られたなど信じてはいなかったのです。しかし、逃げていく悠理安珍の後姿に、今度こそ男の本心を思い知りました。
ほろり。 清(四郎)姫の瞳から、血の涙が溢れて落ち、白い頬を赤く染めました。
それは、姫の心が完全に壊れた合図でした。
俯いた清(四郎)姫の肩が、小刻みに震えはじめました。ざんばらに乱れた髪が、戦慄くくちびるに乱れかかっております。泣いているのかと思いきや、おもむろに上げた顔は、歪んだ笑みを浮かべていたのでございます。
「・・・この私を欺いて、無事に逃げおおせられるとお思いですか?」

皆さまがよくご存知の『道成寺縁起』ならば、ここで清姫は、
「あな口惜しや。たとえ雲の果て、霞の際までも、玉の緒の耐えざらぬ限りは尋ねん。」
と、絶叫するはずですが、それはあくまで通説。これは新説でございますから、清(四郎)姫はそう叫びません。
「どこまで逃げようが、きっと捕まえてみせます!捕まえたら@@を使って××して、○○に縛って□□で虐めて、精根尽き果てるまでお仕置きしてあげますから、覚悟しておいてください!」
と、言ったかどうかは、皆様のご想像にお任せいたしまして。
悠理安珍、桃色頭の船頭が操る小舟に揺られながら、相反するふたつの気持ちに酷く動揺しておりました。
確かに清(四郎)姫は恐ろしゅうございます。しかし、外に出るのも稀な年頃の姫が、姿形が乱れるのにも構わず、何里もの道程を駆けてきたのです。岸辺に呆然と立つ清(四郎)姫の姿があまりにも哀れで、とてもではありませんが、まともに見られませんでした。
良心の呵責と、憐憫の情。それに加えて、今すぐ清(四郎)姫のもとへ戻りたいという衝動が、胸を駆け巡ります。
しかし、いくら悠理安珍が想いを馳せようが、ひとり岸に残された清(四郎)姫に届くはずもないのです。
「くわばらくわばら。あんな恐ろしい娘には近づかないほうが身のためだぜ。」
桃色頭の船頭、棹を差し差し、後ろを振り返って、まだ土手の上に立ったままでいる清(四郎)姫を眺めてから、あからさまに顔を顰めております。
「お前、あの娘から逃げてきたのか?」
「う、うん・・・でも・・・」
成る程なあ、と桃色頭の船頭は何度も頷いて納得しています。
「お前、綺麗な顔をしているからな。こっちにその気はなくても、女たちのほうが放っておかないんだろ?まったく、罪作りな坊さんだぜ。でもまあ、俺に任せておけば安心さ。この辺りで俺の他に渡し舟をやっている奴はいないし、俺が舟に乗せない限りは、あの娘も追ってはこれないぜ。」
「他に渡し舟がないって、どういうこと?」
悠理安珍の疑問も、もっともでございます。ここは街道に近く、もっと渡し舟の需要があって当然なのです。いくらお馬鹿とはいえ、遠くは奥州から旅をしておりますから、そのくらいの理は分かります。
それを聞いた船頭、よくぞ聞いてくれましたとばかりに、逞しい胸を張りました。
「このあたりで俺より早い舟はないんだ。だから他の舟は商売にならないんで、自然と離れた場所に移動していったのさ。」
「へえ、お兄さんって、凄いんだ。」
悠理安珍、子供のまま大きくなっておりますから、素直に眼を輝かせて船頭を見上げます。昨今のひねた餓鬼より、よほど子供らしい反応でして、まあ、そのあたりに清(四郎)姫も惚れたのでしょうが―― 今は船頭の話でございますな。
船頭、まあな、と照れ隠しに鼻の下を擦りながらも、自慢げな様子です。
「ねえねえ、どうして他より早く舟が漕げるの?」
所詮はお馬鹿でございます。悠理安珍、清(四郎)姫のことをコロッと忘れて、船頭に説明をせがみました。曇りのない子供の眼で見られては、船頭も黙っている訳にはいかなかったのでしょう。少し照れながらも、説明をはじめました。
「腕もそうだが、舟から他とは違うんだ。この舟はもっと早く進むよう、俺が研究を重ねて改造したんだからな。水の抵抗を極限まで少なくするため、流線型のボディにしつつ、安定性も確保するよう、幅を微調整して―― 」
よくは分かりませんが、凄いのは確かなようです。悠理安珍には理解不明の言葉が次々と出てまいりますから、余計に凄く感じるのでございましょう。
凄いなあ、偉いんだ、を連発する悠理安珍に、桃色頭の船頭、余計に気を良くします。
「半分は趣味だから、偉いってほどのことじゃないぜ。お坊さん、絶対にあの娘は渡さないから、安心して行くといい。」
その瞬間、悠理安珍は清(四郎)姫のことを思い出しました。僅かに首を捻って向こう岸を眺めますと、清(四郎)姫はまだ同じ場所に立ち尽くしております。
僅かな振動とともに、舟は岸に着きました。桃色頭の船頭に背中を押され、悠理安珍は岸に降り立ちます。
「ほら、早く行きな。後は俺に任せておけ。」
いなせに胸を叩く船頭。彼の好意を無下にも出来ず、悠理安珍、そろそろと歩きはじめました。
足を進めるたびに、胸がずきずき痛みます。しかし、哀しいかな。悠理安珍はお馬鹿であるがゆえに幼く、痛みの正体が何なのか分からないのです。
ただ、清(四郎)姫のいる対岸を振り返る勇気がないのは、確かでございました。

対岸に取り残された清(四郎)姫と、胸の痛みを抱えたまま、姫から逃げる悠理安珍。
物質的にも、そして心も―― 
ふたりの距離は、ふたたび離れていくのでした。










巻の参へ続く




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