新説・道成寺 巻の参





さて、お話はいよいよ佳境へと突入してまいりました。
逃げる男と、追う女。
騙され裏切られ、愛しい男に逃げられた清(四郎)姫の前には、行く手を阻む、日高川。
清(四郎)姫、絶体絶命の危機でございます。

いくら呼んでも叫んでも、船頭は向こう岸で知らん振り。非情にもこちらに背中を向けて、煙草をぷかりぷかりと吹かしております。他に渡し舟はなく、姫が途方に暮れている間にも、愛しく憎い男はどんどん遠ざかっていきます。
清(四郎)姫、右手を顔に近づけて、夫婦の契りを誓ったほくろに頬擦りします。
「きっと、夫婦になりましょうぞ・・・」
その間も、情念の炎燃ゆる双眸は、遠く離れた対岸を睨んでおります。
清(四郎)姫、何を思ったのか、やおら己の帯に手をかけました。しゅるっ、と音をさせて一気に帯を外し、勢いそのままに錦の衣を脱ぎ去りました。
重たげに、どさりと音を立てて、帯と着物とが地面に落ちます。
そして、着物の下から現われたのは―― 
北島○介も真っ青、イ○ン・ソープも仰け反りかえる、最新鋭の。
蛇革スイムスーツでございました。
「・・・水練の鍛錬が、こんなところで役に立つとは思いもよりませんでしたよ。」
そうなのです。文武両道の姫、何と日頃から水練の術まで学んでいたのでございます。
首から足首手首まで、蛇革のスイムースーツに覆われているとはいえ、それはぴったりと乙女の柔肌に吸いついて、見ただけでも清(四郎)姫の体躯が容易に想像ができます。
すらりと伸びた手足。太からず細からず、限界まで無駄を削いだ見事な体型は、休むことなく続けてきた鍛錬の賜物でございます。こんな身体に抱かれたら、華奢な悠理安珍など抵抗もできないでしょう。
姫、こきこきと肩を回し、手足を振って関節を解します。そして、乱れた髪を一度掻き揚げてから、大股で川面へと近づきました。
岸で前傾姿勢を取り、そのままどぶんと川に飛び込ます。飛び込みのフォームは完璧です。水中では、両手を頭上にぴんと伸ばし、蛇のように身をくねらせます。
そう。これは往時、世間に一大フィーバーを巻き起こした、鈴木○地の得意技。
皆さまよくご存知、あの、バサロ泳法でございます。
異様な姿でぐんぐんと水中を進む清(四郎)姫に驚き、鮒や鯉、川底に潜んでいた泥鰌までもが逃げ出して、姫の半径30メートル以内からは、生き物の姿が消えてしまっております。ワタクシが川の生物でも、蛇革バサロの娘が水中を突き進んできたら、絶対に逃げ出していたでしょう。
つまり、清(四郎)姫の姿は、それだけ異様だったのでございます。

対岸でのんびり煙草を吹かしていた船頭が異変に気づいたのは、清(四郎)姫が川に飛び込んでから、少しばかり経ってからでございました。
異様な気配を察知して、ヤンキー座りのまま、日高川を振り返ります。川の真ん中に不自然な白波を見つけ、眼を凝らし―― ぽろりと、煙草を落としました。
「うげえええ!!」
何と、白波の間から飛び出してきたのは、鬼気迫る形相の清(四郎)姫でした。よく見れば、全身が蛇の鱗に覆われております。ざぶざぶとバタフライで水を切る姿は、可憐な乙女だった頃の面影など、何一つ残されておりません。
はて、あれは幽鬼か、妖怪か。とにかく人間ではないのは確かでございます。
桃色頭の船頭は急いで棹を取り、下流へと舟を漕ぎ出しました。無意識のうちとはいえ、悠理安珍が歩み去った方角とは逆に進んだのは、賢明な判断と言えましょう。
一方、清(四郎)姫は船頭には眼もくれず、悠理安珍が消えた方向目指して、真っ直ぐに突き進んでおりました。もう、周囲の景色など何も見えてはおりません。脳裏に浮かぶのは、悠理安珍の美しい姿だけです。
愛しく、憎い男を想ううちに、蛇革スイムスーツは肌と同化し、いつしか姫は、本当の蛇身へと成り果ててしまったのでございます。

同じ頃、悠理安珍は、とぼとぼと道の上を歩いておりました。俯いて肩を落とした後姿は、迷子になった子供のようでございます。
そうなのです。まさに今、悠理安珍の心は、迷子になっていたのでございます。
対岸に立ち尽くしていた清(四郎)姫の姿が、眼に焼きついて離れません。艶やかだった黒髪も、豪華な錦の衣も、見る影もなく乱れて薄汚れ、足は鮮血と泥に塗れておりました。何里もの道を駆け抜けてきたのですから、きっと、足の裏はあちこち破れているでしょう。
それにも増して気になったのは、呆然とこちらを見つめていた姫の、哀しげな瞳でした。
姫の瞳を思い出すたびに、ずきずきと胸が痛みます。何度も戻ろうかと足を止めては、思い直して歩き出す。その繰り返しで、なかなか先に進めません。
そのとき、遠くから、桃色頭の船頭の悲鳴が聞こえてまいりました。
悠理安珍、はっとして、大急ぎで土手へと駆け上がります。
土手の上から見下ろす川面は、午後の斜光を受けて、水晶を浮かべたように煌めいております。一見すると穏やかで平和な風景のようですが、こちら岸の近くを、何やら異様な物体が泳いでいるではございませんか。
それは人間ほどの大きさで、全身が黒金色に輝いております。川の中なのに、炎らしき光が揺らめいているのは、眼の錯覚でしょうか?
いいえ、錯覚などではございません。確かに炎が燃えていたのです。
怒りに猛った、情念の炎が。
ざぶり。 大きな水音を立てて、異様な物体が岸に上がります。
蛇の鱗に覆われた身体。炎を纏わりつかせる黒髪。
それは、怒りと哀しみのあまり、蛇身に変じてしまった、清(四郎)姫の無残な姿でした。
ざあーっと、悠理安珍の全身から血の気が引きます。前にも申しましたとおり、悠理安珍は蛇が大嫌いだったのです。加えて、僧侶のくせにお化けの類も大の苦手で、怖いものを見ると、勝手に身体が動いて逃げ出してしまう性質でございました。
「しぇえええ!!!!」
悠理安珍、まるで懐かしの漫画のキャラのように、変なポーズで飛び上がってから、一目散に逃げ出しました。
敏感にもその声を聞きつけましたのは、蛇に成り果てた清(四郎)姫でございます。雫滴る黒髪をばさりと掻き揚げましてから、一気に土手を駆け上がります。周囲を見渡せば、遠くに逃げていく悠理安珍の後姿が。
「ふっふっふ・・・逃がしませんよ。」
標的をロックオンしてから、清(四郎)姫、走り出しました。風を切って疾走するその姿は、蛇というよりカモシカのようでございます。
しかし、悠理安珍も負けてはおりません。元々逃げ足だけは速うございましたし、地震雷火事親父より怖い蛇女から追われていると知れば、誰だって命がけで逃げるものです。
皆さま、ここで少し考えてみてください。
雲ひとつない空の下、無我夢中で逃げる坊主と、火炎を吐きながら後を追いかける蛇身の娘。まさしく悪夢さながらの光景。酷い白昼夢でございます。
ましてや当の本人にしてみれば、夢であって欲しいと願っても当然の状況です。
「ふええぇん!!誰か、助けてえ!!」
泣き叫びながら走る悠理安珍の眼に、寺の石段が飛び込んでまいりました。
呑む、打つ、喧嘩する、の生臭坊主であっても、一応は仏に仕える身でございますから、悠理安珍は迷うことなく六十二段の石段を駆け上りました。

悠理安珍が助けを求めて飛び込んだ場所こそ、かの有名な道成寺でございました。
さて、この道成寺がある川辺町、柑橘類の生産が盛んな農業の町でございます。ちなみにこの川辺町から、真砂の宿があった中辺路町まで、ざっと三、四十キロはございましょうか。車を使ったって小一時間はかかる道程を、清姫は安珍恋しさに駆け抜けたのですから、凄い執念です。
話を元に戻しましょう。
悠理安珍が死に物狂いで石段を駆け上がっているとき、道成寺の境内では、ひとりの老僧が縁台に腰掛け、白湯を啜っておりました。その傍らには艶っぽい姐さんが立ち、二人は楽しく談笑していたのでございます。
まさか、今まさにとんでもないことがおっ始まるとは、露ほども思わずに。
「のう姐さんや。老い先短い年寄りに、ちょこっとで良いから、その白い柔肌を一度拝ませて貰えぬかのう?」
「あらいやだ。和尚様のような色ボケ坊主は、殺しても死なないはずですから、老い先短いなんて縁起の悪いことは言わないでくださいな。」
老僧が、そうかえ?と枯れた笑い声を立て、姐さんも、そうですわ、と笑顔で応えております。まったく、素晴らしいほど長閑な光景でございますな。
「助けてえ!!」
裏返った悲鳴に、二人が同時に朱塗りの仁王門を振り返りますと、顔面蒼白になった若い僧侶が、よろめきながら境内に入ってきたところでございました。
その若者の美貌に気づいた姐さん、あらまあ、と嬉しげな呟きを漏らします。
この姐さん、近くで茶屋を営む女主人でございます。商売の腕はいっぱしでございましたが、男運のほうはからっきしで、巡り会う男たちから袖にされつづけ、こうなったら神仏に頼るしかないと、毎日欠かすことなく道成寺に参詣をしておりました。ですから自然と寺の者と仲良くなり、今日も顔馴染みの老僧と談笑していた次第です。
老僧の名は、雲海と申します。
元々は道成寺と縁のない者でございましたが、伝手を辿って、この寺の厄介になっておりました。一見すると、すっかり枯れた好々爺のようですが、実は修行を積んだ、偉いお坊さまであったのです。
雲海和尚、悠理安珍のただならぬ様子に、はっといたしまして、立ち上がります。悠理安珍のほうは、これも御仏の導きとばかりに、雲海にしがみつきます。
「た、た、た、た」
「た、が四つで『酔った』かえ?それとも『した』?おお、『した』という言葉だけで淫靡な雰囲気が漂うのう。ううん、ワシも初恋のあのひとと『した』かったわい。」
雲海、くねくねと身を捩じらせて悶えます。そのシミの浮いた禿頭を、姐さんがスリッパ・・・失礼、草履で思い切り叩きました。
「和尚さま、そのハゲ頭、一度かち割って中身を入れ替えて差し上げましょうか?それはともかく、た、が四つなんだから、『読んだ』じゃないの?」
とんち問答じゃないんだから。
「助けて!!へ、蛇が、蛇女がニョロンって・・・!!拙僧にニョロンを迫って、手にちゅーって!!うわーん!怖いよう!!」
何を言っているのか、さっぱり分かりません。
「いくら顔がよくても、お馬鹿じゃ話にならないわね。」
姐さん、あからさまに顔を顰めて、小鹿のように震える悠理安珍を見下ろします。
雲海と姐さんが困って顔を見合わせた、そのとき。
「・・・悠理安珍さま。夫婦の契り、忘れたわけではありませんよねえ?」
「ぎゃあああああ!!!!」
仁王門の陰から、蛇と化した清(四郎)姫が現われたのでございます。



道成寺は、今から凡そ千三百年前、大宝元年に創建された、大変に古い歴史を持つお寺です。当時、道成寺は大変に栄え、一時は百八十町歩以上の荘園を所有しておりましたが、戦国時代に入る頃から徐々に衰退してしまいます。が、関が原の翌年に、和歌山藩主浅野幸長によって再興され、その繁栄は現代に至っているのでございます。
道成寺といえば、安珍清姫の伝説を思い起こす方が殆どでしょう。が、実はもうひとつ、有名な伝説がございますので、ご紹介させていただきましょう。
昔々、早鷹と渚という漁師夫婦がおりました。この夫婦、待ちに待って授かった女の赤子に、一本の髪も生えずに悩んでおりました。
そんなとき、海中から黄金に光る仏像を拾い上げます。その仏像に朝な夕な祈っておりますと、娘の頭に髪が生え、身の丈を越す豊かな黒髪を持つまでに成長しただけでなく、時の帝、文武天皇の妃になった、というお話です。
その娘である髪長姫が建立したのが、何を隠そう道成寺なのでございます。
ここで、髪がない姫、とお聞きになって、懐かしの漫画、『つ○姫じゃ〜っ!』を思い出したアナタ。そう、アナタです。そこで頷いたら、歳がバレますから、ご注意を。

おっと。ワタクシが無駄話をしているうちに、清(四郎)姫は境内の真ん中まで進んでいるようでございます。
老僧に抱きついて、ガタガタと震えております悠理安珍を見て、清(四郎)姫、薄く微笑みます。いつの間にか頬のあたりまで鱗が生え、身体からは爬虫類独特の生臭さが立ちのぼっております。その無残で壮絶な姿は、筆舌に語り尽くせるものではございません。
「ようやく追いつきました。あなた、迎えに参りましたよ。」
新妻を置いていくなんて酷いひと―― そう呟いてくすくす笑う清(四郎)姫の姿に、悠理安珍は凍りつきます。
そこに、ずい、と進み出ましたのは、雲海和尚。
「見れば身分のある家の姫ではないか。なのに、何ゆえ蛇に身を窶したのじゃ?なんと哀れな姿であろうか。我が姿を、鏡に映してみるが良い。」
雲海和尚、年齢不相応に色惚けした糞坊主ですが、やるときゃやります。
「身も心もお預けしようとした愛しいお方に裏切られれば、誰もがこうなりましょう。」
改心する気はないのか、と、雲海、叫びます。何ゆえに改心の必要がありましょう、と、清(四郎)姫も負けずに答えます。
睨み合う二人の間に、漏電の如き火花が散ります。
「ならば、致し方ない。あの世で心を入れ替えよ。」
ふん!と、雲海、気合を入れて片袖を脱ぎます。すると、次の瞬間、枯れた老爺の胸筋が膨らみ、上腕二頭筋が瘤のように盛り上がりました。
何を隠そう雲海和尚、修行を積んだだけでなく、武道の達人でもあったのです。
まず、先制攻撃を仕掛けたのは、清(四郎)姫でした。身に纏った火炎を操り、雲海に襲い掛かります。雲海和尚、老人とは思えぬ身のこなしで、横っ飛びで火炎放射を見事に避けます。軽業師だって、こうは身軽に逃げられないでしょう。
しかし、雲海が身をかわしたお陰で、別の悲劇が起きました。なんと、標的を失った火炎が、本堂の一角に直撃したのです。
ごおっ、と本堂の一部が燃え上がり、天高くまで火の粉を舞い上げます。火は一気に勢いづいて次々と燃え広がり、周囲はあっという間に紅蓮の炎に包まれました。
そのとき、火が爆ぜる音に混じって、大きなものがガタガタ動く音がいたしました。何事かと本堂を見た姐さん、音の正体に気づいた次の瞬間、ひい、と絹を裂くような悲鳴を上げました。
何と、炎の中からひと棹の箪笥が、ぴょんと躍り出たのでございます。
「あれは地津辺 出得留衛門の遺作となった箪笥!」
雲海が忌々しげに舌打ちしました。
『地津辺 出得留衛門』―― それは、天下に名を轟かせた家具職人の名前でございます。
この男、天下一品の腕を持つがあまりに、遺作となった箪笥に執着し、なんとそのまま憑依してしまっていたのです。
元々の持ち主は、高貴なお方だったのですが、夜な夜な音を立てて徘徊する箪笥に恐れをなし、道成寺に供養を頼んでいたのでございました。
寺に納められてからは大人しくなっていた箪笥が、本堂の一部が焼けることによって、ふたたび活性化したのでしょう。久方ぶりの自由に、箪笥はぽんぽんと跳ねて喜びを露わにしております。
しかし、睨み合う二人には、踊る箪笥など眼にも入りません。
「ええい!猪口才な!この技を受けてみい!!」
雲海、そう叫ぶと両手を突き出して、清(四郎)姫に向かって波動砲を発射します。
え?それは某名作宇宙アニメのパクリじゃないかって?いえいえ、気のせいですって。
何はともあれ波動砲、閃光を放ちながら、清(四郎)姫を襲います。姫、くるりと身を翻して、それを見事に避けました。
波動砲は、境内の片隅にあった、人形塚を襲いました。
ぐわんと大きな音を立てて、塚の碑が砕け散ります。そして、もくもくと煙を上げる人形塚から、小さな影が現われました。
小さな手足を前後に動かし、煙の外に出てきたのは、一体の日本人形でございました。
「ひょええええ!!」
それを見た悠理安珍、ムンクの叫び顔負けの形相で飛び上がります。
『あたしゃ寂しいよう。一緒に逝こうよう。』
人形が開かぬ口を使って話しかけます。もう、悠理安珍と姐さんは、卒倒寸前です。
この人形、娘時代の悲恋を忘れられなかった守銭奴婆の魂が乗り移ったがためめに、人形塚に葬られていた、いわくつきの一品でございました。
人形は、塚から次々と仲間を呼び出し、気がついたら周囲は人形で埋め尽くされております。しかも、全部が全部、日本人形です。それが所狭しと徘徊しているのですから、不気味さは半端ではございません。
悠理安珍と茶店の姐さん、手に手を取り合って、共にガタガタと震えておりました。
そんな二人を、さらなる悲劇が襲ったのは、その直後でございました。

「ええい!」
何をどう間違ったのか、雲海と清(四郎)姫が同時に放った気が、鬼子母神を祀った祠に直撃いたしました。武道の達人同士が放った気でございますから、当然のように祠は一瞬にして燃え落ちます。
祠が崩れ落ちた、その瞬間。
姐さんが、その場にばたりと倒れました。
悠理安珍、一人にされては堪らないと、慌てて姐さんを抱き起こそうとします。しかし、半ばまで抱き起こしたにも関わらず、いきなり姐さんを放り出したのです。
臆病者の彼が観たもの―― それは、姐さんの頭に生えた、二本の角でした。
逃げる悠理安珍の後ろで、姐さんだったモノが起き上がりました。
色香漂う眼は吊り上がり、情熱的な口元は耳まで裂けております。
「ひ、ひいいいい!!鬼女だあああ!!」
悠理安珍、四つん這いのまま器用に手足を動かし、ゴキブリ顔負けのスピードで境内の隅に逃げます。二足歩行で逃げたほうが早いだろう、と、突っ込みを入れたい方も多いでしょうが、仕方がないのです。
情けないことに悠理安珍、すっかり腰を抜かしていたのですから。
「口惜しや。この恨み晴らすがため、末代まで祟ってやるぞ。」
賢明な皆さまなら、姐さんに乗り移った鬼女の正体がお分かりでしょう。
そう。愛する家族もろとも身代を奪われた、哀れな母親の魂でございます。
もちろん悠理安珍には、何が起こっているのか理解できません。雲海和尚と清(四郎)姫が激突するたびに、寺のあちこちが崩れて、そこから訳の分からぬ化け物が飛び出してくるのですから、混乱状態に陥るのが当然でございましょう。
悠理安珍がひとりガタガタ震えているうちに、境内では、この世とは思えぬ壮絶な世界が繰り広げられておりました。
踊る箪笥の前では、不気味な日本人形が群れをなしております。その先には、呪詛の言葉を吐きながら鬼女が徘徊しております。さらに、井戸からは『エメラルドぉ〜エメラルドぉ〜』と、老女の皺枯れた呻きが響いてまいります。池から飛び出してきたのは、幼女の骸骨です。他にも母子の木乃伊やら、首吊り少年の亡霊やら、とにかく様々な物の怪が、雨上がりの筍のようにボコボコ出現するのですから、堪ったものではありません。
そして、その中心にいるのは、人間離れした老僧と、既に人間ではない蛇の化身。
まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図でございます。

多少、不満は残りますが、この中で唯一まともだったのは、何を隠そう。
一番お馬鹿な、悠理安珍でございました。
悠理安珍、日常とはかけ離れた光景を前に、なす術もなく腰を抜かしておりました。
一応は、もっとも安全そうな鐘楼の陰に隠れてはいましたが、いつとばっちりが来てもおかしくはない状況です。それに、認めたくはありませんが、自分も阿鼻叫喚の地獄絵図を構成する要素のひとつ・・・と、いうより、この状況を引き起こした元凶です。
思考回路は既にオーバーヒート気味。ただでさえお馬鹿なのですから、情報処理が上手くいくはずもありません。
案の定、数分もしないうちに、最後の糸がぷっつりと切れてしまいました。
「う・・・うわあああん!」
なんと、左右の拳を眼に当てるという、王道のポーズで泣き出したのです。
「やだやだぁ!怖いよう!もう嫌だあ!お家に帰る!!」
馬鹿です。真性のお馬鹿です。しかし、そんなところに惚れた娘もいるのです。
日常回帰を求めて、ぴいぴいと泣き叫ぶ姿に、清(四郎)姫の中で眠っていた感情が眼を覚ましました。
それは、母性本能でございます。
きゅーん、と甘く胸を締めつける痛みに、清(四郎)姫、僅かに理性を取り戻しました。
可愛い悠理安珍が、怖がって泣いている。
―― 守らなければ。
それは、意思ではない感情でした。あえて表現するなら、女の本能でございます。自分を裏切り捨てた酷い男であっても、想いが消えない限りは、どうしても憎みきれない、哀しい女の性でございました。
皆さま、何度も申し上げますが、清(四郎)姫は十三歳。花も恥らう乙女でございます。それでも女の端くれには違いありませんから、母性本能や女の性を持っていても当たり前なのです。
まあ、違うモノをご想像なさっている方も多いでしょうが。
清(四郎)姫、雲海和尚から視線を外して、境内を跋扈する化け物たちを睨みつけました。
「これ以上、悠理安珍さまを怖がらせないでください・・・」

ここで物語は、意外な方向へと進みはじめたのでございます。










四巻へ続く




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