新説・道成寺 巻の四





既に太陽は、西の山に沈みかかっておりますが、宵闇が帳を下ろすまでには、まだ少々の時間がございます。鮮やかな青を失いかけた空は、どこか黄色っぽく霞んで見えていました。ちょうど凪の時間に入ったのか、空気はぴくりとも動きません。
長閑で、普段と何ひとつ変わらない、平和な夕暮れでございます。
しかし―― 道成寺の中では、日常とかけ離れた、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられておりました。

清(四郎)姫、雲海和尚の不意を突いて、いきなり横へと走り出しました。
そして、踊る箪笥の前に立ちはだかります。行く手を阻まれた箪笥、びくりと身を震わせて急停止いたしました。その拍子に、一番上の引き出しが半ばまで飛び出し、危うく落ちそうになりましたので、箪笥は慌てて仰け反って、何とか落下を阻止します。
箪笥がひとり、いえ、ひと竿で悶えております隙に、清(四郎)姫、右手を天高く突き上げて、あらん限りの声で叫びました。
「難波の壊し屋、ではなく、北欧の壊し屋、召喚!!」
清(四郎)姫の操る火炎が、ひときわ激しく燃え上がり、夕暮れ迫る空を赤く焦がしました。流石は蛇娘になっただけあって、人間には使えない技をいとも簡単に使います。
燃え盛る火炎の中から、小さな老婆が現われました。
その手には、大きな斧が握られております。
斧が黄金に染まりつつある夕陽を反射して、不気味にぎらりと煌めきます。
「ここで会ったが百年目!地津辺 出得留衛門!観念しなさい!!」
小柄で上品な老婆が、斧など振り回すはずはないと思いがちですが、実は彼女、地津辺 出得留衛門の霊に邪魔をされ、愛する夫と離れ離れになった悲運の過去を持っています。
老婆、斧を振り上げて、箪笥に挑みかかります。一方の箪笥は、叩き壊されては敵わぬとばかりに勢いよく飛び跳ねて逃げ出します。
「待てえい!!」
箪笥を追いかけて、北欧の壊し屋、境内に中を走り回ります。その姿は鬼気迫り、上品な老婦人の面影は微塵も残っておりません。
箪笥が大きく跳躍した瞬間、北欧の壊し屋、掲げた斧を箪笥めがけて振り下ろしました。
清(四郎)姫の背後で、ばきばきと箪笥が壊れる音がします。しかし、そのとき姫は、既に人形の群れと対峙しておりましたから、決して振り返ろうとはいたしませんでした。
姫、居並ぶ人形たちをぐるりと見回し、どれが首領かを見極めようとします。
西洋人形が混じっていればまだ分かりやすいのですが、目の前にいるのは、同じような日本人形ばかり。ある意味、『○ォーリーを探せ』よりも難しい状況でございます。
それでも首領を見つけ出したのですから、流石は清(四郎)姫と言うべきでしょう。
「あなたには、やはりコレでしょう!」
清(四郎)姫、首魁人形に向かって、懐に隠し持っていた秘密兵器を突き出しました。
それは、豊かな金髪流れる、遠い異国のお人形でございました。
「これぞ入手困難な激レア商品と評判の、『南蛮人形・美童くん(今なら着せ替え用、王子様衣装つき)』です!」
それを見た瞬間、無表情のはずだった日本人形の顔が喜びに輝きました。やはり、清(四郎)姫の予測は確かだったようです。
「さあ、彼と一緒に成仏なさい!!」
『南蛮人形・美童くん(今なら着せ替え用、王子様衣装つき)』、空中に放り投げられます。
清(四郎)姫のコントロールに狂いはなく、『南蛮人形・美童くん(今なら着せ替え用、王子様衣装つき)』は、見事な放物線を描きながら、老婆の魂が宿った人形の手の中へ落ちていきました。心なし、その彫りの深い顔が苦痛に歪んでいるように見えたのは、おそらく沈みかけた日の加減でございましょう。
首魁人形は、『南蛮人形・美童くん(今なら着せ替え用、王子様衣装つき)』を胸に抱いて、人形塚へと帰っていきました。そのあとに続いて、他の人形も帰っていきます。まったく、呆気ない幕切れでございます。
「子を返せ・・・夫を返せえ・・・」
次は鬼女でございます。
清(四郎)姫、鬼女と向かい合います。言っちゃ悪いが、蛇娘と鬼女の闘いですから、どっちもどっちって気もいたします。それに、どちらも己の正義を胸に秘めておりますから、どう始末をつけても後味が悪くなります。
「邪魔だてするなら、雷でも喰らえ!」
鬼女が叫びます。一秒遅れて、雲ひとつなかった空に、暗雲が立ち込めました。あっという間に空は暗くなり、こちらが驚いている余裕もなく、炸裂音を轟かせながら鋼色の雷が落ちてきました。
「フム!!」
清(四郎)姫、気合と火炎で雷を弾き飛ばします。
不思議なのは、蛇身になる前の姫でも、雷を弾き飛ばしそうなところでしょうか?
下らない感想は横に置いといて。
清(四郎)姫、怯んだ鬼女を睨みつけ、薄く微笑みました。
「貴女が雷を呼ぶのなら、私も雷を使わせていただきましょう。」
雷、召喚!!と、清(四郎)姫、空に向かって絶叫します。
同時に、ごおっ、と姫を取り巻いていた火炎が燃え盛ります。そして、次の瞬間。
ぎい、ぎいい。
美声とは程遠い濁声で鳴きながら、茶色い鳥がチョコチョコと二人の前を通り過ぎました。
一瞬の、沈黙。
「雷鳥じゃなーいっ!!」
清(四郎)姫、こともあろうか天然記念物を思い切り足蹴にしました。
よい子も、そうでない方々も、真似をして雷鳥を蹴飛ばすなんてことは決してしないでくださいまし。雷鳥なんてそう簡単に遭えるものでもないですが、念のため。
雷鳥はきらりと光って空に消え、それを荒い息で見届けた清(四郎)姫、気を取り直してもう一度同じ台詞を叫びました。
「雷、召喚!!」
ごおっ、と火炎が上がりまして、次に現われたのは。
角がついたマスクを被った、マッチョでございました。
「赤コーナー、獣ぅ神ぃーん、サンダぁー・ラ○ガぁあー!!」
どこからかゴングを持った男が現われて、妙な巻き舌で絶叫しました。
かーん、とゴングが鳴り、いよいよ世紀のデスマッチのはじまりです。
雷違いではございますが、とにかくマッチョなマスク男、果敢にも鬼女に挑みかかります。鬼女も姿勢を低くして、マスク男を待ち受けます。
マッチョの張り手が、鬼女の顔面にヒットいたします。鬼女、女の顔を殴るなんて最低!と叫んで、長い爪をマッチョの胸に思い切り立てました。マッチョですから勿論筋肉は鍛えておりますが、表皮は常人と同じですから、引っかかかれたら傷つきます。胸じゅう縦横無尽に引っかかれてしまい、うおおお、と獣じみた雄叫びを上げながら、マット、否、敷石の上を転がって痛みに耐えております。
炸裂するサンダーボルト、クリーンヒットするボディブロー。護身術の指捻り、四の字固め、果ては禁じ手である××蹴りまで、ありとあらゆる技が披露されます。
鬼女対マッチョの明らかな異種格闘技、なかなか決着はつきません。
組んず解れつしている間に、闘う二人の間に、奇妙な連帯感が生まれてまいりました。
「あら?よく見たらアナタ、良い身体をしてるじゃない?」
「そう言う貴女も、吊り上がった眼と裂けた口を元に戻したら、美人じゃないですか。」
縁とは不思議なものでございます。知り合ったその日から恋の花咲くこともある。気がつけば二人は仲良く手に手を取って、互いの趣味などを話し合っております。
まあ、男運のなかった姐さんにとっては喜ばしいことですが、こちらとしては何となく腑に落ちない話でございますな。ただし、清(四郎)姫にしてみれば、愛しい悠理安珍を怯えさせるものが減っただけで、後は文句のつけようなどございません。
そんなこんなで、清(四郎)姫の手によって、物の怪たちは次々と姿を消していき、境内は元の静けさを取り戻しました。



鐘楼の陰に隠れて泣いております悠理安珍に、清(四郎)姫はそっと近づきました。
「もう大丈夫ですよ。怖い物の怪はもういません。」
いきなり話しかけられて驚いたのか、悠理安珍の背中がびくりと大きく揺れました。
「本当に大丈夫。ほら、顔を上げて確かめてご覧なさい。」
恐る恐る、悠理安珍が顔を上げます。抱いた膝の上から、大きな栗色の瞳が覗きましたので、清(四郎)姫は彼を安心させようと微笑みました。
しかし。
「あっ!!」
額に激しい痛みが走りました。
悠理安珍が、清(四郎)姫に石礫を投げつけたのです。
石礫の当たった額に触れると、皮が破れて血が流れ出しておりました。
「嘘つきぃ!!大丈夫じゃないじゃん!蛇は嫌いだ!あっちに行け!!」
次々と投げられる石礫。清(四郎)姫は、腕で顔を庇いながら、必死になって声をかけ、悠理安珍を落ち着かせようとしますが、蛇が大嫌いな彼に、その言葉は届きません。
「蛇なんかあっちに行っちゃえ!!うわーん、怖いよ!」
哀しいかな、清(四郎)姫―― 悠理安珍を守ることに気を取られ、蛇身に成り果てていた自分を、すっかり忘れていたのでございます。
よりにもよって、悠理安珍が大嫌いな、蛇に。
その事実に、清(四郎)姫は愕然といたしました。
「お前なんか大嫌いだ!!」
悠理安珍が投げた言葉の礫は、清(四郎)姫の心に命中しました。
そのとき、姫はようやく気づきました。
悠理安珍の気持ちなど、今まで一度も考えなかった自分に。
悠理安珍を怯えさせて泣かせた原因が、自分にあるという事実に。
だから―― 悠理安珍から嫌われて、逃げられたのだと。
清(四郎)姫は、裏切られても仕方のないことをしたのです。なのに、今また、悠理安珍を怖がらせている。その事実に、姫の心は潰れそうなほど痛くなりました。
ですが、蛇に化身した身体では、悠理安珍を慰めることもできません。愛しい男が目の前で泣いているのに、自分は怯えさせるしかできないなど、なんと哀しい現実でしょうか。
結局、自分が起こした因果は、等しく自分に返ってくるのです。
「・・・悠理安珍さま・・・私は・・・」
「やはり目当てはその坊主か!」
すっかり影が薄くなっておりましたが、雲海和尚、まだ居ました。
清(四郎)姫が振り返るよりも早く、雲海和尚は波動砲を放っておりました。しかし、どういう拍子か、波動砲は途中で大きくカーブして、なんと鐘楼に的中したのです。
ごおん、と鈍い音を立てて、鐘が台に激突しました。柱が折れ、屋根が崩れ落ちます。瓦が雨のように降り、埃塵が煙となって舞い上がった、その下では。
まだ、悠理安珍が泣きじゃくっておりました。

突然の轟音と震動の中、悠理安珍は、誰かに思い切り突き飛ばされました。
ごろごろと地面を転がる間も、轟音と震動は続いております。訳の分からぬまま、とにかく頭を両手で覆って、平静が戻るのを待ちます。その間、小さな礫があちこち当たるのと一緒に、埃臭い風が吹くのを感じました。
どれだけ時間が経ったでしょう?
静けさの中、悠理安珍は恐る恐る顔を上げました。
周囲は土煙に覆われ、何も見えません。孤独を伴った恐怖が、鼓動を早めます。
「誰か・・・誰かいるのかあ!?」
「おお、いるぞ。煙で見えぬが、若いの、無事か?」
雲海の声です。人間より化け物に近い爺ですが、いないよりマシです。悠理安珍は、ほっと胸を撫で下ろしながら、無事だあ、と答えました。
さあっ、と一陣の風が吹きまして、煙が押し流されました。
そして、煙の中から現われた光景に、悠理安珍は息を呑みました。
眼前にあったのは、瓦礫の山と化した鐘楼の残骸でした。
悠理安珍が隠れていた場所には、落下の衝撃で歪んだ鐘が落ちています。あのまま留まっていたら、確実に押し潰されていたはず。ぞっとしながらも自分の運の良さに感謝していたとき、誰かから突き飛ばされたことを思い出しました。
「清(四郎)姫・・・?」
まだ微かに煙立つ境内。仁王門の前には片肌脱いだ雲海が立ち、崩れかかった三重塔の前では、気を失った茶屋の女主人が倒れています。しかし、いくら探してみても、清(四郎)姫の姿だけが見当たらないのです。
悠理安珍、縺れる足で立ち上がり、潰れた鐘楼に駆け寄りました。
「清(四郎)姫!!」
そう―― 清(四郎)姫は、悠理安珍を庇って、鐘の下敷きになっていたのでございます。

悠理安珍は、姫の右手を取って、必死に呼びかけました。
声が聞こえたのか、清(四郎)姫、うっすらと眼を開けます。
「・・・悠理安珍さま・・・ご無事、で・・・?」
悠理安珍、何度も頷きます。すると清(四郎)姫、微かながらも安堵の笑みを浮かべて、良かった、と呟きました。そして、焦点の合わない眼を動かして、悠理安珍を見つめます。
「蛇・・・怖いのでしょう?無理をしなくても・・・良いのですよ?」
健気な言葉を聞いて、悠理安珍はぽろぽろと大粒の涙を零しながら、必死に頭を左右に振りました。
「怖くない!だって、清(四郎)姫・・・拙僧を庇って・・・拙僧は、姫を裏切って逃げた、酷い男なのに・・・どうして・・・?」
「何を言うのです?・・・お慕い申し上げるお方を守るのは、当然のこと・・・」
大量の血が流れ出ているのでしょう。握った姫の右手が、どんどん冷たくなっていきます。
悠理安珍は握り締めた姫の手を、己の額を押し当てました。
「ごめん・・・ごめんね・・・本当に、ごめん・・・」
愛しい男の涙が、清(四郎)姫の頬にほろほろと落ちてまいります。心から愛したひとが、自分のために泣いてくれるなど、これほどの幸せが他にありましょうか?
「・・・怖がらせて・・・すみませんでした・・・私は、ただ、貴方が好きで・・・だから貴方の気持ちも考えず、自分の気持ちを押しつけてしまいました・・・」
逃げられて、当然です。そう繰り返す清(四郎)姫の姿はまだ蛇身のままでしたが、悠理安珍は構いませんでした。
ひたすらに好いてくれた姫を裏切り、傷つけ、蛇に身を変えるほど追い詰めたのは、他の誰でもない、自分なのです。
せめて約束通りに立ち寄って、正直に自分の気持ちを伝えていれば、清(四郎)姫は怒り狂ったかもしれませんが、蛇身に成り果てることはなかったはずです。今更ながら浅はかだった自分の行いを深く悔やみます。
ひとりの姫を破滅に追い込んだ罪は、一生かけても償えるものではありません。
それでも、いいえ、だからこそ、悠理安珍は、正直な気持ちを清(四郎)姫に伝える義務がありました。
「ごめんね・・・本当は、怖かったんだ。清(四郎)姫じゃなくて、自分の生活が変わってしまうことが、怖かったんだよ。」
僧籍を捨てて、今までの生活を捨てて、新しい世界に飛び込むことが、怖かった。
「・・・本当はね、清(四郎)姫のこと・・・好きだったんだ。」
それを認める勇気がなかったせいで、姫の命は、姫の将来は、今まさに消えようとしている。それは、耐えられないほど苦して、悔やんでも悔やみきれない、現実でございました。
一瞬、清(四郎)姫の顔が桜色に輝きました。
しかし―― 本当に、それは一瞬でした。
「・・・嬉しい・・・その言葉を貰っただけで、充分です・・・」
清(四郎)姫の眼が、最後の光を失い、ゆっくりと閉じていきます。
姫には、もう、命を繋ぐだけの力は、残されておりませんでした。
「・・・姫?清(四郎)姫!?ねえ、清(四郎)姫ってば!?」
答える声は、既にありません。
二度とは開かない眼から、一筋の涙が流れて落ちる様を、悠理安珍ははっきりと見ました。
それは、すべてが終わった合図でもありました。
悠理安珍は、大粒の涙を流しながら、姫の右手をそっと持ち上げました。
すっかり温もりが消えた手に頬を寄せ、姫の顔を覗き込みます。
涙の跡が残る顔は、幸せそうに微笑んでおりました。
悠理安珍も、姫に倣って微笑みましたが、嗚咽が邪魔をして上手く笑えませんでした。
「約束するよ。今生でも、来世でも、ずっとずっと、拙僧と夫婦の契りを結ぶのは、清(四郎)姫だけだって・・・」
そして、悠理安珍は、約束のほくろに、そっと、くちづけました。

空は、黄金から茜に変わりつつあります。











五巻へ続く




新説・道成寺 目次
お馬鹿部屋TOP