早いもので、このお話も既に五回目でございます。 ここだけの話、最初は前後編くらいで収まると思っていたのですが、いざ蓋を開けてみればこの始末でございます。日ごろの計画性のなさが明るみになってしまい、けっこう焦ってみたりしたのですが、ここまで来たら、どう言い訳しても通じないわけでして、そのぶんご来場のお客さまにはご迷惑をおかけしてしまいました。 ダラダラと読み辛いモノでお眼汚しいたしまして、誠に申し訳ございません。 あれ?気がつけば、客席に誰もいないような・・・いえいえ、これはきっとワタクシの幻覚に違いありません。ええ、きっとそうに決まっております。 『道成寺縁起』では、皆さまご存知の通り、鐘の下に隠れた安珍を見つけた清姫、蛇となった身体で鐘を七巻き半にして、中にいる安珍を焼き殺してしまいます。そして、清姫自身は近くの入り江に身投げして、死んでしまうのです。 二人の死後、道成寺の住職の夢枕に安珍が立ち、「あの世でも逃げ切れずに悪い女と夫婦になり、大変に苦しんでいるから、自分のために経を唱えて欲しい」と頼みます。 住職がその通りにすると、ふたりは経の功徳によって救われ、あの世で幸せに暮らした、という結末になります。 歌舞伎で知られる『京鹿子娘道成寺』は、ふたりが死んで数百年後のお話でございますから、今回は割愛させていただきますので、ご了承を。いえ、別に知らないからご案内しない訳ではありませんよ。別に知らない訳ではないですったら。 それでは、いよいよ最終回と相成りました。 鐘の下敷きとなった清(四郎)姫と、その今わの際を看取ることになった悠理安珍。 二人の運命や、いかに。 「嫌だよぉ、清(四郎)姫!眼を開けてよ!!死んだら駄目だよ!」 悠理安珍、命の温もりを失った清(四郎)姫の右手を掴んだまま、必死に呼びかけておりました。しかし、姫は―― もう、事切れておりました。 安珍を焼き殺すはずの清姫が、先に死んでしまったのです。それも、焼き殺すべき男を庇って。これでは伝説どおりの結末は望めそうにありません。 いくら呼んでも叫んでも、清(四郎)姫は眼を開けません。あれほど力強かった手も、もう二度と、悠理安珍の手を握り返してはくれませんでした。 はじめて失う、大事なひと。そして、その命を奪ったのが、自分だという事実。 それは、たった十六年しか生きていない悠理安珍にとって、耐え切れない現実でございました。誰だって、愛するひとが自分を庇って命を落としたとなれば、きっと耐えられないでしょう。悠理安珍は大地を叩き、顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫びました。 「お願いだよ!誰か姫を助けて!!本当は純粋で心の綺麗な娘なんだよ!そんな娘が死ぬなんて、酷い話があるもんか!拙僧の命を上げるから、代わりに姫を助けて!!」 蛇身のまま事切れてしまった清(四郎)姫の頬に、悠理安珍の涙がぽたぽたと滴ります。 「眼を開けてよ・・・夫婦になるって約束したじゃん・・・なのに、何でだよ!?」 悠理安珍は清(四郎)姫に覆い被さり、おいおいと声を上げて男泣きに泣きました。 その様子を離れた場所で静観していたのが、雲海和尚でございます。 若い二人がようやく心を通じ合わせたときが、今生の別れとなるとは、様々な人生模様を目の当たりにしてまいりました老僧にとっても、正視できない悲劇でございました。 雲海和尚、半ば焼け落ちた本堂の前に座ります。幸いにもご本尊の千手観音は災禍を免れ、有り難いお姿を、夕日に晒しておりました。 「せめて、あの世では心穏やかに過ごせよ。」 和尚が唱える経が、微かに空気を震わせながら、境内に満ちていきました。 ねぐらに帰るのか、日高川のほうで、川鵜がいっせいに飛び立ちました。 そのときでございます。 鐘の下で、清(四郎)姫の亡骸が、眩い光を放ちました。 清(四郎)姫を押し潰していた鐘が、ふわりと浮き上がりました。折れた柱や梁も、重力を失ったかの如く、宙に浮きます。 そして、その下から、清(四郎)姫の蛇身が現われました。 姫の身体は金粉を塗したかのように眩く輝いております。全身を覆う鱗も、すっかり乱れた黒髪も、何里も駆け抜けたせいで傷つき腫れ上がった足の裏も、金色に輝いています。 「・・・あっ!」 悠理安珍は、思わず叫び声を洩らしました。 清(四郎)姫の身体から鱗が消え、陶器のような白い肌が戻ってきたのです。破けて血の滲んだ傷口も、滑らかな肌へと戻ります。山姥の如き解れた髪も、絹糸の輝きを取り戻し、憎悪で歪んだ顔も、元の知性的な美貌へと戻りました。 やがて、黄金の輝きは錦の衣へと変わり、姫は完全に元の姿を取り戻しました。 「姫!!」 悠理安珍、清(四郎)姫を抱き起こして揺さぶります。 すると―― 愛の奇跡か、御仏のご加護か、事切れていたはずの清(四郎)姫が、うっすらと眼を開けたのでございました。 「ああ、私は・・・」 清(四郎)姫が言葉を発する前に、悠理安珍はその身体を力いっぱい抱き締めました。 「良かったよぉ・・・どうして無茶をするんだよ?姫が死んじゃったら、拙僧も生きていけないって思ったんだぞ。本当にどうしようかと思ったんだからな!」 この、馬鹿野郎!悠理安珍はそう怒鳴ると、清(四郎)姫の髪に顔を埋め、わんわんと泣きはじめました。 神童と褒め称えられてきた姫ですから、馬鹿に馬鹿扱いされるのは不本意です。それでも、その子供のような姿に、こみ上げる愛しさを抑え切れず、あらん限りの力で悠理安珍を抱き締めたのでございます。 「ぐえええ!!肋骨が、背骨が折れるう!!内臓が潰れるううう!!」 実際に、悠理安珍の胸のあたりで枯れ木が折れるような音がした気がしましたが、清(四郎)姫はどうしても彼を離すことができません。ようやく愛しい運命の相手を手に入れたのですから、離せるはずがないのです。 「さっきの言葉・・・本当ですね?」 「へ?」 身体を締められたせいで窒息状態になった悠理安珍、顔をふらふらさせながら上げます。 「私を好きだと、今生でも来世でも、ずっとずっと、夫婦の契りを結ぶのは、私だと、確かにそう・・・約束してくれましたよね?」 清(四郎)姫が確かめるように眼を覗き込んだ途端、悠理安珍の顔が火を噴きました。 「え、あの、その、ええと、あれは・・・」 「今度は・・・信じても良いのですよね?」 言葉は静かでしたが、清(四郎)姫の瞳には不安の翳りが揺らめいていました。やはり、ふたたび約束してくれたとはいえ、愛しい男に裏切られた心の痛みは、なかなか拭えないものなのでしょう。 間近で見つめられているのですから、当然、悠理安珍もそれに気づきました。はじめはモジモジしていましたが、意を決して顔を上げ、真っ直ぐな瞳で清(四郎)姫を見つめます。 「うん。絶対に約束は守るから、安心して信じていて。」 そして、いかにも初心な少年といった感じで視線を逸らし、赤い頬をごしごしと擦ります。 「もちろん、清(四郎)姫が許してくれるならの話だけどさ。」 もとより、許さないはずがございません。清(四郎)姫にしてみれば、前世から決められた運命のひとなのですから。 清(四郎)姫、照れてそっぽを向いた男の横顔に、不意打ちで接吻をいたしました。そして、驚いて振り返った男の顔が、夕日よりも真っ赤に染まっていながらも、嬉しげに緩んでいるのを見て、ようやく幸福を手に入れたことを実感したのでございます。 「もう・・・逃げないでくださいね。」 「・・・当たり前だろっ!拙僧と清(四郎)姫は、夫婦になるんだから!」 さて、またまた話が脱線いたしますが、道成寺に足をお運びいただきますと、道成寺縁起に因んだ説法を拝聴することができます。 内容を乱暴に要約いたしますと、『女房を大事にする家は繁栄する』となりましょうか? 夫婦仲良く、いつまでも円満に、という、当然でありながらも、実行が難しいことの大事さを、改めて教えているのでございます。 この物語の主人公たちも、山あり谷あり、紆余曲折ありつつも、ようやくそのことに気づいたようでございます。 一気に熱々の恋人同士になった二人の姿を眺める人物がひとりおりました。 「ワシゃ、出て行かぬほうが良いかのう。」 そう。雲海和尚、そのひとでございます。 今出れば、二人の蕩けっぷりに当てられて、胃がもたれてしまいそうですし、第一、恋人になったばかりの二人には、雲海の姿など見えようはずがございません。 「あの二人、ワシが助けたことにも気づいておらぬようじゃ。まったく、若さとは羨ましいものじゃのう。」 雲海の脳裏に、遠い日の初恋の思い出が甦りました。誰にでも綺麗なままあの世まで持って行きたい思い出はあるものでございます。きっと、悠理安珍と清(四郎)姫にとって、今日の出来事は永遠に残る思い出となるでしょう。 「それにしても、この惨状・・・はてさて、どうしたものか。」 すっかりラブラブになった悠理安珍と清(四郎)姫には見えていないでしょうが、道成寺の境内は、建造物のほとんどが大破し、焼け野が原と化しております。 「こりゃ、再建が大変じゃな。」 それでもそれでも、初々しい夫婦の誕生は、喜ばしいことでございますので。 これにて一件落着といたしましょう。 夕間暮れ迫る日高川。桃色頭の船頭は、今日一日の仕事を終えようとしておりました。 「まったく、とんでもない一日だったぜ。」 蛇娘には遭遇するし、そのお陰で、お気に入りの煙管を川に落としてしまった。こんな日はさっさと帰って大人しく寝るに限ると、我が家のある対岸へと舟を漕ぎ出そうといたしました。 そのとき、遠くから聞き覚えのある声がしました。 「おーい、待った待った!乗せてくれ!」 夕焼け空をバックに駆けてくるのは、あの綺麗な顔をした若い僧侶でした。船頭、手を振り返しかけて、そのまま固まりました。 なんと、あの蛇娘も一緒ではないですか。しかも、二人仲良く手まで繋いでいます。 「こりゃあ驚いたぜ。あの坊さん、おかしな呪術でもかけられてるんじゃねえか?」 一瞬、躊躇ったものの、やはり興味には勝てず、桃色頭の船頭は、二人を対岸に渡すことにしたのでございます。 舟に乗り込んできた二人は、仲睦まじく寄り添って座り、微笑みを交わしております。先ほどまで物の怪じみていた姫の顔は、今は幸せに輝いていますし、恐怖に慄いていた若い僧侶のほうも、今は幸福そうにはにかんでいますから、船頭としては、狐に抓まれた気分でございます。 「お前たち、いったいどうしたんだよ?」 「うん。あのさ、拙僧たちね、夫婦になることにしたんだ。」 「悠理安珍さま、妻を娶るのですから、そろそろその拙僧というのは止めませんか?」 「あ!そっか。そうだよね。姫は、拙僧の・・・いや、僕のお嫁さんになるんだよね。」 二人は顔を見合わせて、恥ずかしそうに微笑み合いました。 船頭、何だか―― 仲睦まじい二人を見ていたら、詮索するのが馬鹿馬鹿しくなりまして、軽い溜息ひとつ吐くと、黙って舟を操りはじめました。二人はその間も何やら小声で囁き合っております。別に聞く気はなくとも、静かな川の上ですから、嫌でも会話は漏れて聞こえます。何気なく船頭は、その会話に耳を傾けておりました。 「今日は一緒に湯浴みをしましょうね。私が背中を流してあげますから。」 「え?やだ、恥ずかしいからイイよ。ひとりで風呂くらい入れるし。」 「何を言っているんですか?その後は、一緒にお風呂に入るよりも恥ずかしいコトをするんですよ。ですから馴らしのつもりで、湯殿でいろいろと教えて差し上げますから。」 「恥ずかしいから、風呂場で馴らす??それって、どんなコト?」 「それはですね・・・」 桃色頭の船頭、清(四郎)姫のR指定確実な説明を聞いて、仰向けのまま日高川に落ちました。頭と一緒に拳を川面に出し、思い切り叫びます。 「馬鹿野郎ぉー!!独り者の男にそんな会話、聞かせるなー!!」 船頭の絶叫は、一番星の輝く空へと吸い込まれていきました。 その後、二人は五男三女の子宝に恵まれ、いつまでも幸福に過ごしましたとさ。 めでたし、めでたし。 時代は経て、場所は移ります。 ここは現代、季節は初夏で、昼下がりの眩い日差しが、剣菱邸の広大な庭に降り注いでいます。殺人的な暑さから隔絶された応接室で、白鹿野梨子はひとり溜息を吐いていました。 彼女の華奢で白い手には、一冊の古文書が握られています。野梨子はすっかり退色した和綴じの本を眺め、もう一度、溜息を吐きました。 本の表紙には『真説・道成寺日記』と記されています。 持ち主は、剣菱百合子―― 野梨子の親友の母親であり、日本一金持ちの女性です。 本の出所は、百合子の実家でした。そこは没落しているとはいえ、由緒正しい旧家であり、現代でも蔵がふたつばかり残っていました。先日、老朽化に伴い、その蔵を壊すことになったとき、古文書を偶然に見つけたらしいのです。 野梨子が驚いたのは、この本が、百合子の祖先の縁起として記されていた点でした。 まさか、安珍清姫伝説がもうひとつあるなんて、しかも、それが祖先の身に、実際に起きたことなんて、まさか信じられるはずがありません。 真実だと固く信じている百合子には悪いのですが、内容は支離滅裂だし、時代考証も出鱈目ですから、信憑性は皆無に近いのです。唯一、信じられるのは、百合子の祖先が蛇娘だった、という点だけでしょうか? 馬鹿馬鹿しい・・・頭を悩ますのも無駄な気がして、野梨子は古文書をテーブルの上に置き、眩しい窓辺へと歩み寄りました。 窓の向こうには、燦々と降り注ぐ日光に輝く芝生が広がっています。その真ん中で、野梨子の大事な幼馴染たちが、仲良くじゃれ合っていました。 悠理が絞ったホースの口を、清四郎に向けています。弾けた飛沫が、太陽の光を吸い込んで、水晶の欠片のように煌めく様は、まるで一枚の絵のようです。清四郎は逃げ惑いながらも、じりじりと間合いを詰めて、とうとう悠理のホースを奪い去りました。 身長差を利用して、悠理の頭から水をかける清四郎。しばらくはゲラゲラ笑いながら飛沫を受けていた悠理が、不意をついて思い切りジャンプをし、ホースを取り戻そうとします。 清四郎は獲られまいと背伸びをしますから、悠理もさらにジャンプを繰り返して、その挙句、とうとう二人ともバランスを崩してよろめきました。 運悪く、清四郎の足にホースが絡まっていたため、二人は折り重なるようにして芝生の上に倒れました。清四郎がホースを握ったままの手で、悠理を抱き留めたため、二人はもろに水を被っています。それでも二人は大口を開けて笑い合ったまま、なかなか起き上がろうとはしません。お陰で、二人とも全身ずぶ濡れです。 野梨子があの古文書を贋物だと一刀両断に切り捨てられない理由―― それは、目の前ではしゃぐ二人にありました。 あの物語の主人公が、どうしても幼馴染の二人に重なってしまうのです。 まったく意味のない、ただの思い過ごし。野梨子は軽く頭を振って、意識を切り替えてから、窓を大きく開けました。途端にむっとした熱気が押し寄せてきます。窓越しだと気にならなかった蝉騒も、今は耳がおかしくなりそうなほど大きく聞こえます。 「清四郎!悠理!あまり無茶をすると、風邪を引いてしまいますわよ!お茶を淹れていただきますから、ちゃんと身体を拭いていらっしゃい!」 二人は顔を見合わせてから、同じ角度で肩を竦めています。そして、仲良く一緒に立ち上がると、清四郎は悠理にホースを片づけるよう指示してから、野梨子が佇む窓辺へと近づいてきました。 滴る雫を気にしながら、窓の桟に肘を置いて、こちらを見上げる顔は、学園にいるときと違って、幼く感じます。まあ、どちらが年齢相応な顔かと問われれば、今のほうが自然な十九歳の青年の顔をしているのは確かです。 きっと天真爛漫な悠理と一緒にいるから、彼も自然体でいられるのでしょう。 「その古文書、野梨子も読んだんですか?」 清四郎は目ざとくテーブルの上の本に気づき、ふふんと鼻で笑いました。 「贋物にしても酷い出来栄えだったでしょう?あれじゃ子供も信じない。」 「ええ。でも、百合子おばさまは、色んな方にお見せして、沢山の意見を聞かれたいようですから。清四郎は、贋物だと思いますの?」 「当たり前でしょう。あれを本物と言い切る学者がいたら、一度解剖して頭の中を確かめてやりたいくらいですね。」 清四郎はそう言って、悠理の待つデッキへと去っていきました。その後姿は、どこか楽しげに見えました。 やれやれ。いつになったら、二人は素直に想いを伝え合うのやら。 二人が想い合っているのは、周知の事実。なのに、進展の兆しはまったく見えないのです。 外野が焦っても、仕方のないこと。野梨子は彼の後姿を見送ることなく、大きな窓を閉めました。 そして、古文書のことも、それきり口に出すことはありませんでした。 「なあなあ、このままプールに飛び込んで、一緒に泳ごうよ!」 デッキに近づくと、悠理はずぶ濡れのまま、清四郎の前まで駆け寄ってきた。 「駄目です。昼の休憩はこれでお仕舞いですよ。夏休み中にもう一度追試があるんですから、一服したら、すぐ勉強に取り掛かりましょう。」 清四郎がそう言うと、悠理は河豚のように頬を膨らませて、ケチ!と文句を垂れた。その頭にメイドが準備したバスタオルを被せて、がしがしと力任せに拭く。悠理がどんな表情をしているのか、タオルに隠れて分からないが、きっと赤くなっているはずだ。 「清四郎・・・さっき、野梨子と何を喋っていたんだ?」 少し、不安げな声。清四郎は身を屈めて、悠理の顔を覗き込んだ。 「百合子おばさんが持ってきた古文書についてですよ。」 途端に悠理の顔から杞憂が消える。分かりやすくて、こちらのほうが嬉しくなる。 「ああ、アレかぁ。母ちゃんは信じてるみたいだけど、骨董屋とか美術館のひととかは、贋モンだって言ってたぞ。なんつってたっけ?コーヒー無糖な内容で、とてもじゃないけどシンジラレナイって。」 「コーヒー無糖?それを言うなら、荒唐無稽でしょう?相変わらずお馬鹿ですね。」 「お馬鹿で悪かったな。」 どうやら機嫌を損ねたらしく、眉間に縦皺が寄っている。その表情があまりにも可愛らしくて、清四郎は思わず相好を崩した。素直に謝って、彼女のご機嫌を取り戻す。 「古色をつけていますが、紙は明らかに明治に入ってからのものですし、あんなに稚拙な物語なら、写本にする必要もないですしね。専門家でなくても、すぐに贋物と分かる代物です。もしかしたら、基となった話があるのかもしれませんが。」 「そっかあ。やっぱ贋物なんだ。母ちゃん、ガッカリするだろうなあ。」 母を心配して、表情を翳らせる悠理。清四郎はその肩をバスタオルで包み、濡れた髪をそっと撫でた。 「悠理の母さんはタフですから、そのくらいで落ち込んだりしませんよ。さあ、そろそろ戻りましょう。弱点強化の徹底補習は、夏休みに入る前からの約束でしょう?」 ぶう、と頬を膨らませて、プールプールと連呼する悠理の肩を、室内のほうへ押す。 「約束は約束です。貴女には、以前に約束を破られて痛い目に遭いましたからね。」 「え?お前との約束を破った記憶はないぞ。それ、お前の勘違いだって。」 「いえ、確かに悠理は約束を破りました。」 悠理はくちびるを突き出して、そんなことない、と言い張る。 清四郎は苦笑して、覚えていないなら結構です、と言った。 覚えていなくても、約束は有効だ。 大丈夫、時間はまだまだたっぷりある。 今度は前とは違う。悠理が心の準備を整えるまで、いつまでも待つ覚悟はできている。 雲海和尚に投げ飛ばされて、記憶を取り戻した、あの日から。 「約束は守りましょうね。」 「だーかーらー、約束って、何なんだよ!?」 「・・・勉強、ですよ。」 悠理は顔を顰めて、げ、と短く呟いた。そんな彼女の手を、ごく自然な動作で握り、歩き出す。最初は緊張していた悠理も、すぐに手を握り返してくる。まるで子供のような関係だ。しかし、今の清四郎はそれで満足していた。 今度は、焦らない。 独りよがりの我侭は、相手だけでなく、自分まで傷つけるのだと、経験したから。 「貴女が約束したんですからね。ちゃんと守ってくださいよ。」 「うるさいなあ。分かってるよ。」 今生でも、来世でも、夫婦の契りを結ぶのは。 ずっとずっと、あなただけ。 悠理と繋いだ、清四郎の右手。 その親指と手首の間には、小さなほくろがぽつんと浮かんでいた。
ここまで読んでいただいた暇人・・・いえ、酔狂・・・物好き・・・えーと。
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