事件

  BY のりりん様

中編




清四郎は店で飲み物を受け取ると、楽しみに待ってるであろう彼女へと振り返った。
すると、ちょうど悠理の前から一人の女性が離れていくのが見えた。
しかし、その向こうに見える悠理の顔は、さっきまでの彼女からは想像もつかないものだった。

消えていく顔色
凍りついた表情

何かあった。
自分の離れた間に。
その時、清四郎の脳裏に引っかかるものが・・・
確か、今 悠理の傍にいた女の横顔に見覚えが・・・
そう思って清四郎は思わず舌打ちをした。
(ちっ、なんてことだ!! )
そして何よりも、悠理の元へと駆け出した。

「悠理!!」

その声に、弾かれたように彼女の瞳に色が戻っていく。
しかし、その瞳は清四郎の姿を映したとたん瞬く間に滲んでいった。
悠理はそれを隠すように顔をそむけたかと思ったら、いきなり走り出した。

「悠理!!」

飲み物を放り投げるように置くと清四郎もすぐさま後を追った。
人ごみの中をあちこち曲がりながら走る彼女の背中が掴めそうで掴めない。
なんとしても捕まえたいのに、この手が届かない。
行き交う人たちの中、幾つ目かの角を曲がったとき 清四郎の視界から追いかけていたその背中が、消えた。
「くそっ!!」
あの悠理の凍りついたような顔が瞳に焼き付いている。
あんな表情は はじめて見た。
それをさせたのは、他の誰でもない・・・自分だと思うと許せなくなる。
しかし、今はそんなことをいっている場合ではない。
一刻も早く、悠理を探さなければ。
清四郎はポケットから携帯を取り出すと、急いで悠理にかけた。


逃げるように走り出した悠理は、先程清四郎と一緒にくぐったその扉を勢いよく開けた。
大きな音を立ててあけられたドアに皆が驚いて振り向く。
だがそれを気にする余裕は、ない。
「悠理ちゃん?!」
驚いて掛けられたレイコからの言葉にも顔を向けることさえ出来ずに逃げるように階段を一気に駆け上がった。
さっき教えてもらった時計台へと続くそれを。
不意に鳴った携帯の電源は迷わず切った。
一番上のフロアまできて壁に手をつくと思わずしゃがみこんだ。

整わない呼吸
滲んでいく視界

一人ぼっちのこの場所で涙が次々にこぼれていく。
今まで清四郎といてこんな気持ちになったのは初めてだった。
一緒にいるのが楽しくて、嬉しくて・・・
そんな恋の楽しさしか知らなかった悠理をあの女の一言が壊した。
止まることもなく流れてくるその涙は、あの女の所為なのか、清四郎の所為なのか、それとも自分の所為なのか・・・
それさえも分からずに、ただ泣いている。

頬から床へと次々に落ちる雫
堪えても漏れる嗚咽

そんな一人で泣き続ける自分の口から不意に出た言葉に、誰よりも悠理自身が驚いた。
「・・・・せぇ・・・し・・ろぉ・・・」
思わず嗚咽が止まる。
そう呟いた口元を抑えた。
呼びたくなくて、それでも心が求めた名前。
あの女の顔と、彼の顔が頭に浮かぶ。
いらぬ妄想が次々と浮かぶ。

ドンッ と拳が床を叩いた。

たった一人の静かなフロア。
響き渡る音。
小さな拳が冷たい床へとぶつけられていく。
何度も 何度も。
俯き繰り返されるそれに、彼女の白い手が色を変えていく。
それでも なお振り上げられた拳は激しく床を打ち続けた。
何度目かの音が響いた後、悠理が漸く顔をあげた。
疲れきったようなその表情。
重そうに細い体がゆっくりと動く。
そうして、その頭を壁へと預けた。

腫れてしまった 瞼
血の滲む 白い手

足を投げ出し、冷たい壁に体を預けた。
痛みさえ忘れて、どれくらいの時間そうしていただろう。
疲れをたたえたその瞳がただなんとなく空の方へと向けられた。
頭上から差し込む光の明るさに目を細めた。
その時 一瞬、目の前の白い壁が一際光ったように見えた。
その白さに、眩暈さえしそうなほどに。
不意に瞳に飛び込んできたそれは、なんだかあの日 2人でいた景色を思い出させた。
そう、連れて行ってもらったあの雪の世界を。
そして、過ごした時間を。
彼が話した言葉達を。

「好きです、悠理。」
「やっと捕まえた。・・・僕のものだ。」
「もう、お前だけです。」
「愛してます。」
「・・・僕を信じろ。」

悠理はゆっくりと瞳を閉じた。
真っ先に浮かんだのは、あの日覚えていたいと思った清四郎の少年のような顔。
あの嬉しそうな、幸せそうな彼の笑顔。
他の何でもなく。
いつだって真っ直ぐに見つめてくれていた黒い瞳が浮かんだ。
清四郎を好きになったのは自分。
自分を好きだと言ってくれた清四郎
それが今の2人の関係
彼の言葉が悠理の心に響いた。

「僕を信じろ。」

そんな彼に頷いたのは、自分だ。
確かに、簡単に頷いたんじゃないはずだ。
自分の好きになった男は世界中の誰よりも信じられるヤツのはずだ。
そんな男だから、恋をしたんだ。
悠理がその目を開いた。
瞳には意思を宿して。
その色は、彼女の母を思い出させるほどに強さを持って。






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