音楽室の扉を後ろ手で閉め、鍵をかける清四郎。 その目に浮かんだ危険な光に、悠理はゾクリと身を震わせた。 無意識のうちグランドピアノによりかかり、体を支える。 「もう後悔してるんですか?誘ったのはおまえだ・・・悠理」 悠理は首をふった。 「・・・いいよヤレよ・・・ずっと、したかったんだろ?」 ごくりと唾を飲み込む。 覚悟と期待。 だって、悠理は気づいていたから。 ときに、倶楽部の部室で感じた清四郎の視線。 悠理と魅録を見つめる彼の目の中に揺らめく、羨望と憧憬、そして欲望の意味に。 清四郎は制服のネクタイを揺るめ、口元に笑みを浮かべた。 悠理は彼から視線を外すことができない。 ほんの子供のころから知っていたはずの彼とは違う男が、その目の奥に潜んでいる。 悪魔の笑み。 優等生で理知的な表の顔とは違う、彼のそんな顔すら知っていたはずなのに。 おもしろみのない冷静な常の清四郎の胸奥に棲む、荒々しい男の性を悠理は身をもって 知ることになる。 悠理を引き裂く男の圧倒的な存在感・・・。 ねじ込まれるような激しさ。 悲鳴が洩れそうな唇を、悠理は噛み締めることで耐えた。 グランドピアノをつかむ手が震える。 清四郎がリズミカルに責めるたび、耐え切れず体がガクガク揺れる。 脳を掻き回し、心を麻痺させる男の荒々しさに、何度も気が遠くなった。 誘ったのは、悠理の方だ。 最初こそ、挑戦的に清四郎を見据えた。 「来いよ、清四郎。あたいと本当は・・・したかったんだろ」 「気づいていたんですね。僕がこれまで、おまえと魅録をどんな想いで見続けていたか・・・」 それまで抑え続けていた本当の望み。それを看破され、清四郎は隠していた欲望をあらわにした。 もう抑えることはできないと、性急に激しく。 清四郎が欲しいわけじゃない。 悠理は自分の心を偽ってなどいない。 だけど、興味があった。これまで知っていた彼の仮面の下の真実に触れたかった。 それが、これほど激しいものだとは思いもせず。 思いのほか荒々しい清四郎の激情に翻弄され。 それでも、声を立てないことが、悠理に残された最後の矜持だった。 ――――おまえを、欲しいわけじゃない。 淋しかったわけでもない。 彼女には、魅録がいるのだ。 それでも、男の視線の意味を悟ったときから、悠理はその誘惑を断ち切ることができなかった。 知りたい、と思った。彼の隠してきたものを。 どれくらいの時間が経ったか。 清四郎の息も荒くなり、かすれた声が耳奥で言葉にならない音を紡いだ。 ――――もうやめて、許して。 悠理がそう言うのを、男は待っていたのだろう。 彼女が興味本位に過ぎないことは、彼にもわかっていた。 「・・・・っ」 だけど、悠理は制止の声ひとつ上げなかった。 音楽室は完全防音ではない。 いくら鍵をかけていても、彼女が助けをもとめ悲鳴を上げ続ければ、誰かに聞えたかもしれない。 そこで彼が彼女を責め立て、苦痛を強いていることが知られたとしたら。 これまで清四郎が築いてきた立場も、装ってきた顔も、すべて崩れる。 それでも、清四郎はもう自分を抑えることはできなかった。 悠理は、何度も首を打ち振る。 苦しげに寄せられた眉。きつく閉じられた双眸。 目尻には堪えきれず、涙が浮かび頬を伝い落ちた。 なによりも、彼女の内心を示す強張った体。 本当は、快感に酔わせ、狂おしく求められたかった。 だけど、清四郎は自分を知っていた。 このひとときを切望していたのは、彼。 快感に息を弾ませているのも、彼。 彼女の心は開かれない。 暴力的ですらある彼の行為に、強張ったままの体と同じように。 わかっているそんな事実が、彼の胸を苛む。 それでも、この一時だけ。 この一時だけ、彼女は彼のものだった。 この密室、音楽室の、たった一人の聴衆。 清四郎は最後に大きく息を吐き、彼女を責め苦から解放した。 最初で、最後。それは、彼の魂の叫びだった。 静寂が室内に満ちる。 彼が解放しても、悠理はしばらく身動き一つしなかった。 清四郎が汗に濡れた前髪をかき上げ、乱れた衣服を整えた頃、ずるずると悠理の体が 滑り落ちた。 身を預けたグランドピアノから崩れ落ち、床に座り込んだ悠理は、まだ目が虚ろ。 魂を飛ばしている彼女に、清四郎は皮肉な笑みを浮かべた。 「少し・・・激しすぎましたか?」 「・・・・。」 悠理の頬には涙のあと。 ぼんやり清四郎を見上げる目に、ようやく彼女らしい意志の光りが戻ってきた。 「あまりテクニックには自信がなくてね。それとも、荒々しいのがお好みのおまえには もの足りませんでしたか?お望みなら2回目といきますか。僕のだけで満足できなければ、 これでも使いますかね」 そう言って、清四郎が手にしたのは音楽室に置いてあるワイヤレスマイクだった。 悠理の顔色が変わった。 最初は恐怖に。しかし、清四郎の言葉がからかっているだけだと知り、 次に憤怒の色が瞳に浮かんだ。 「ふ、ふざけんなっ」 悠理は涙をぬぐって立ち上がった。 まだ足はガクガクし、腰は抜けたようにふらついている。 「意地悪だとは思ってたけど・・・野梨子が逃げ出すわけだよっ」 悠理はこれまで耐えてきた感情を爆発させた。 「おまえって、ほんとジャイアン!!!!!」 「は?」 非難と軽蔑は覚悟の上。だけど悠理の言葉の意味がつかめず、清四郎は首を傾げた。 「知らないのかよ!『ドラ@もん』に出てくるいじめっ子のコトだよ!こいつがもう 傍迷惑なほど歌が下手で下手で!それなのに、歌手志望でしょっちゅう悶絶コンサートを 開いて、がなりたてやがんだ!」 「・・・・ちょっと、待って下さい。僕は歌手志望でも、コンサートを開く意志も ありません。長年の周囲の反応から、歌が下手らしいことは認めざるを得ませんが」 そう。清四郎は殺人的音痴であった。 それはもう、実態を知る野梨子がその不自由な運動神経にもかかわらず、飛んで逃げ出すほど。 今日は、先日行ったライブの興奮冷めやらない悠理と魅録が、休部状態だったロック研の活動をおこなっていた。 なにやら清四郎の視線が二人に突き刺さる。話を振ると、UNのアーティストについて薀蓄を 語りだした。 なにごとも博識な彼のこと。ウンチクたれもいつものこと。 しかし、悠理は彼の本心に気づいてしまった。 「そーいや、おまえの歌って、聴いたことないよな。おまえも、一緒に歌ってみる?」 ――――のちほど、悠理を死ぬほど後悔させる不用意な一言だった。 清四郎はにんまり。 そして、野梨子は蒼白になり脱兎のごとく逃走した。 美童と可憐ははなからデートで不在。 清四郎の笑みと野梨子の反応に、賢明な魅録はベースを放り出し、バイク修理が、と言い訳を口にしつつ姿を消した。 言いだしっぺの悠理は、こうして逃げそびれたのだが、彼女が興味があったのもまた事実。 生徒会室ではなく、整った音響設備と多少の防音措置のとられた音楽室に移動したのは、清四郎の意思だ。 彼だとて、己の音痴は承知していた。 「もうもう、なまじ声が良くて声量があるから、リズムと音程の狂いっぷりが余計に破壊的なんですわっ!」 とは、野梨子の捨て台詞。 ここまで聞いていたので悠理も覚悟をしていた。 ロック好きと言っても、悠理の守備範囲は広く玉石混合。インディーズバンドのライブでも最前列でノリノリの悠理だ。 大音量や少々の調子っぱずれには耐えられると、甘くみていた。 なにより、日頃隙を見せない清四郎の弱点を握れると、悠理は期待すらしていたのだ。 よもやまさか、これほどの破壊力だとは知りもせず。 ここまで凄まじいと、一種の特殊技能。 長年の修行で身につけた武道よりも殺人的な歌声だ。 清四郎が歌ったのは、ハードロックの名曲・・・・・らしい。 武道で鍛えた人外の腹筋と豊かな声量、よく通る声。 リズム感もまったくないわけじゃない。 しかし原曲を無視した異様な変則リズムに三半規管が狂わされ、ありえない音程でシャウトする 大音量に意識が遠のく。 すでに歌でも音でもなく、さながら超音波。 窓ガラスが割れなかったのは、プレジデンド学園の重厚な設備のたまもの。 「・・・そういえば、小学部んとき、音楽教師のロリコン野郎をおまえが退職に追いやったって噂があったよな。 あれってまさか・・・」 ジトンと涙が滲んだ目で、悠理は清四郎をにらんだ。 教師は不祥事発覚前に心神喪失に襲われ、自主的に退職したという。 「さすが悠理ですね」 清四郎はにっこり微笑む。 「僕の魂のシャウトに気絶しなかったのは、おまえが初めてですよ」 実は結構、歌好きな彼。 菊正宗家の風呂場が、しばしばタイルが剥がれ痛みが激しい真相もここにあったのだと、悠理は まだ痛む鼓膜と左脳に悩まされつつ実感していた。 ――――もちろん、その後清四郎がロック研に参加を許されたという事実は存在しない。 |