「馬鹿!まったくお前と言う奴は…」
思わず口をついて出てしまった言葉に、しまった…と思う。
目の前にしゅんとして俯く悠理の姿。瞳には涙さえ浮かべて。
「だから僕がいつも言っているでしょう?だいたいお前には思慮と言うものが足りないんだ。」
フォローしようと口を開くのに、出てくる言葉は思っているのとは
まったく正反対の言葉ばかりだ。
「もういいじゃありませんの、清四郎。悠理だって反省していますのよ。」
見かねた僕の幼馴染がとりなすように口を開く。
「そうよぉ。もういい加減許してやりなさいよ。」
あきれたように可憐が呟く。
「お前が悪いんだぞ、悠理。清四郎に謝れよ。」
悠理の肩に手を置いた魅録が、諭すようにそう言うと悠理はぽつりと呟いた。
「ごめんなさい…」
「もう、いいよね。清四郎だって、悠理のことが心配だったんだよね。」
思わず大きなため息をついて肩の力を抜いた僕に、美童が穏やかな声で
フォローを入れてくれる。
そう、本当はそう言いたかったんだ。それなのに僕は…
「ま、いいですけどね。いつも悠理の尻拭いをさせられるのは僕なんですから、
これからは気をつけてくださいよ。」
捨て台詞のようにそう言って、鞄を持つと部室を後にしてしまった。
扉を閉める時に、ぺたんと椅子に座り込む悠理の姿が視界の端に映った。
***
家へと帰りながら僕はひどく落ち込んでいた。
どうして僕は彼女にはこうもひどい言葉でしか話すことが出来ないのだろうか?
冷静沈着、柔和で温厚な性格で知られるこの僕が。
他の人間にならいくらでも耳障りのよい言葉を並べ立てることが出来るこの僕が。
どうして彼女の前ではただの愚かな男になってしまうのか。
どうして、思うままの言葉を伝えられないのか。
…考えるまでもない。その理由は痛いほどにこの心が叫んでいる。
「彼女が好きだから」だと。
家に帰り自分の部屋に入った僕は、まだ少し忌々しい気分でベッドに鞄を放り投げる。
小さくため息をついてファスナーを下ろすと制服の上着を脱いでハンガーにかける。
蝶ネクタイを強く引っ張って外し、シャツを脱ぐ。トレーナーに袖を通し、制服のズボンから
チノパンに履き替える。…まだ気分は晴れない。
勉強机の椅子を引き出し腰掛け、机の上においてあるハードカバーの本を何気なく捲る。
と、本の間に挟んであった写真が目に入り、親指と人差し指でつまんでそれを目の高さに掲げて見る。
高等部に進学した日、有閑倶楽部のメンバーと始めて揃って撮った写真だ。
真ん中にまるで太陽のように笑う悠理が写っている。
お気に入りの写真。昨夜もこの写真を眺めていた。
思えば、僕が悠理への気持ちを自覚し始めたのはこの頃だったかもしれない。
それまでは、彼女のことを「君」と呼んでいた。
そしてこの頃から僕は彼女を「お前」と呼ぶようになった。
その呼び方に込めた僕の心など、あいつはひとつも気付いてはいないだろうけど。
いつの頃からか、人との間に一線をおいて接するようになっていた僕が
唯一なんの障壁もなく、対することが出来る人間。
彼女はそんな存在だった筈。
それがこの頃は、他の人間よりももっと分厚い壁で遮られている様な気分さえする。
僕の強すぎる「想い」という名の壁で。
彼女を目の前にすると、その「想い」は大きく膨れ上がってたちまち僕の体中から
溢れ出しそうになる。
だけどそれは、僕のことを「友人」としか思っていない彼女には重すぎる感情で、
この「想い」をぶつけるには彼女はまだまだ幼すぎて。
だから僕は溢れ出ようとするそれを無理やり押さえつける。
押さえつけられ、行き場のない「想い」は僕の中で僕の心を傷つける。
痛い、痛いと嘆く心は言葉の刃になって彼女を傷つけ、帰す刀でまた僕は傷つく。
このところ、ずっとその繰り返しだ。
一体何をやっているのかと、自嘲の笑みがこぼれる。
ただひたすらに、暗い思考の淵に陥っていた僕はふと、窓の外に目を向けた。
家の門のところで、行きつ戻りつしている華奢な姿。
「…悠理?」
慌てて階段を駆け下り、玄関のドアを開ける。門の外に走り出て、
きびすを返して歩き出した背中に声をかける。
「悠理!」
驚いたように目を見開き悠理が呟く。
「せーしろ?なんで…」
思わず苦笑する。それはこっちの台詞でしょう?
「なんでって…窓から悠理が見えたんでね。悠理こそ、どうしたんです?」
悠理は気まずそうに僕から視線をそらし、少し俯き、そのまま小さな声で答える。
「んと…その…、ごめんって言おうと思って…」
学校から僕を追いかけてきたのだろうか、制服姿のままの悠理は
ひどく小さく、儚げに見えて。
「…少し、歩きましょうか。」
***
自宅近くの公園のベンチに、僕らは並んで腰掛けていた。
手には、途中の自動販売機で買った缶コーヒー。
「…さっきは僕も少し言い過ぎました。すみません。」
僕は前を向いたまま、コーヒーを一口飲んでそう口にした。
俯いたままコーヒーをすすっていた悠理は少し顔を上げ、僕の顔を見る。
「清四郎が謝ることないじゃん。無茶したあたいが悪かったんだし。」
「それはそうです。」
しれっと言った僕に、悠理は口を尖らせて僕の顔から視線をそらす。
そしてそのまま、お互いに相手の顔を見ずに前を向いたままで言葉を交わす。
「でも、珍しいですね。悠理がわざわざ謝りに来るなんて。皆に何か言われたんですか?」
「別に…だってお前、すごい怒ってたし。なんか、このまんまじゃ嫌だと思ったんだ。」
「僕が怒ったままじゃ、嫌ですか?」
「当たり前だろ。お前、コワいもん。」
ふふ…と、思わず笑みがこぼれる。
「もう怒ってませんよ。僕はただ、悠理のことが心配だっただけですから。」
「心配?」
「無茶をして、悠理が危ない目にあったり傷ついたりするのが嫌なんですよ。」
口をついて出た素直な言葉に、自分自身で少し驚く。
「なんで?」
小さく呟かれた言葉に、僕はゆっくりと悠理のほうへと顔を向ける。
視線がぶつかる。射るように真っ直ぐな悠理の瞳。少年のような、それでいて
成熟した大人の女性のような艶をも宿した真剣な瞳に吸い込まれそうな気がして、僕はたじろぐ。
いつの間に、こんな目をするようになったのか…
僕が、自分よがりな想いに苦しんでいる間にも、こいつはどんどん成長していっていたのか。
まだまだ幼いと、想いをぶつけるには早すぎると言い訳しながら、
僕はただ逃げていただけなのかもしれない。
自分自身がこの「想い」に捕われてしまうのを。
身じろぎもせずに、悠理の真っ直ぐな瞳に魅入っていた僕は
彼女の瞳の中に浮かぶ色の気が付いていた。
それは、おそらく今僕の瞳の中にも浮かんでいるであろう、同じ色合い。
悠理もそれに気付いたのだろう。
彼女の強く引き結ばれていた口元がゆっくりと綻んでいく。
「せーしろう、言ってよ。なんで?」
くらり、とする。
どうする?こいつは今、僕の言葉を欲しがっている。
取り繕ったような言葉ではない、優しい嘘でもない。
言ってしまったら、どうなる?
柄にもなく、恐れている自分に気付く。
言ってしまえば、もう僕はこれまでの自分では居られなくなりそうで。
彼女に捕われ、僕が思い描いていた人生が変わってしまいそうで。
「それでもいいじゃないか」
そんな言葉が頭に浮かんだ。
想いを閉じ込め、伝えたい言葉も口に出来ずに一生を過ごすくらいなら。
僕は悠理の瞳を見つめたまま、大切な言葉を告げる為にゆっくりと口を開く。
まだ何も終わってはいない。始まってさえもない。
これからも延々と続く人生の中で、僕は一体どれだけの言葉を
お前に伝えることが出来るのだろうか?
とりあえず、この言葉から伝えてみようか。
「悠理、僕はお前が好きです。」
END