2. ゆっくり、ゆっくり、慎重にリンクに近づく。 手摺りに掴まりながら、ドキドキする心臓を宥める。 (だいじょうぶ、だいじょうぶ……こわくない、こわくない……) そろりと片足を氷に乗せた。 もう片方を乗せるため、手摺りを握った手に更に力が入る。 やっと氷上に立った悠理は、背中に汗が流れるのを感じた。 額にも汗が滲んでいる。それを拭うために片手を手摺りから離す。 「ふぅ〜。(あたいらしくないよな、こんなことくらいで)」 おもわず深い溜息が漏れた。 その時 ジャッ と音がして悠理の目の前に何かが立ちふさがった。 彼女はそれが何かは確認できなかった。 目眩がする。(や だ……) 蒼白になる悠理の前にいるのは、若い男。 「可愛いね、君。ひとりきりなの?なら、ぼくと一緒に滑ろうよ。」 返事もせず硬直している悠理の手を取り、滑り出す。 果たして、悠理の身体はそのまま前のめりになり膝を着いた。 「あれー?ひょっとして、滑れないのぉ?じゃあ、教えてあげるからねー。」 ニヤリとした男は悠理の身体を抱き起こそうと手を伸ばす…… 一方、清四郎は先程の悠理の違和感をずっと考えていた。 (そういえば… ここに来ることを決めた頃からあいつの様子はヘンだったような……) リンクはそろそろ一周となる。 前方に悠理の姿が見えたが、誰かと一緒にいるようだ。 (知り合いでもいたのか?) と思ったとき、悠理が崩れるように膝を着いたので、一緒にいたのが男性だと分かった。 男は悠理の手を握っているのか、彼女の片腕だけが宙に浮いている。 その余りにも不自然な姿勢に、悠理がまともな状態ではないと判断した。 全速力で滑り出し、悠理の元に向かう。 ズシャッ!! かなりのスピードをぎりぎりまで落とさずブレーキをかけたので、砕けた氷の粒が大量に撒きあがり、悠理と男にかかった。 驚いた男が一瞬動きを止め、その手が悠理の身体に触れる前に清四郎は彼女の身体を引き寄せた。 「悠理!何があった?! しっかりしろ!!」 「ぅ……ぁ…………せ し ろ…?」 悠理の顔は真っ青で、目もうつろにゆらゆらとしていたが、清四郎の姿を認めたのか徐々に焦点があってくる。 「ええ。もう、大丈夫ですよ。」 そう言って、悠理の身体から氷を払う。 「う…ん。」 悠理はそのまま清四郎に凭れるように、全体重をかけてきた。 彼女が今は自分で立つこともできないのがわかり、清四郎は悠理を横抱きにして立ち上がる。 そして、目の前にいる見知らぬ男に冷たい声で問いかけた。 「僕の友人に、何をした。」 男は無言で首を振る。 「この状態の彼女を見て、それを信じろと?」 「…なにも……。手を引いたら、いきなり倒れて……それだけ…ほんとうだ…何もしてない!」 怯えたように首を振りながらそれだけ言うと、脱兎の如く逃げて行った。 清四郎は男の後姿を睨み付けた後、腕の中の悠理に目を移す。 顔色はまだ青いままだし、身体も小刻みに震えている。 急いでリンクから上がり、悠理を抱いたままベンチに座ったところで、声をかけられた。 魅録と野梨子は、丁度リンクの反対側からその様子を見ていた。 幾分慣れてきた野梨子は、魅録と片手だけを繋いでいた。 相変らず魅録はバック・スケーティングで野梨子を見守っている。 その安心感から余裕も出てきたので、他の四人はどうしているのかと周りを見渡したとき、悠理が知らない男性と一緒にいるのが見えた。 「あら?悠理は清四郎と一緒ではないのかしら?」 「ん? ほんとだ。あいつ、誰と話して………悠理!」 「きゃあっ! 魅録、早く悠理のところへ!!」 「え……でも……」 「わたくしは大丈夫ですから、早く!」 「わかった。野梨子、ゆっくり気をつけて来るんだぞ。手摺りからできるだけ離れないようにな。」 「はい。」 魅録は野梨子が気になりながらも、急いで悠理の元へ向かった。 なぜ、清四郎が傍にいなかったのかと、不審に思いながら……… 魅録が着く前に男が去って行ったので、悠理を抱き上げてリンクから出る清四郎を追いかけることにした。 悠理を膝に乗せ抱きかかえている清四郎に声をかける。 「どうした?」 「ああ、魅録。…よく、わからないんですよ………」 「おまえ、なんで悠理の傍にいなかったんだ?」 「…すみません…」 腕の中で震え続ける悠理に、自分のジャケットを脱いで着せ掛けながら清四郎は小さな声で呟いた。 魅録は、その姿に溜息をつくと質問を変えた。 「あの男、誰なんだよ。何があった?」 清四郎が魅録を見上げた顔には戸惑いがあった。 「それが、わからないんです。あの男は何もしていないとしか言わなくて……悠理は僕が気付いたときからこの状態で……」 「何もしてない…か……」 ふぅー、と息を吐き出して二人の傍に屈みこむと、魅録は悠理の髪に手を触れた。 「悠理……、ごめんな。やっぱ、俺が傍にいるべきだったな……」 その言葉に悠理が薄く目を開け、ゆっくり首を振る。 「お まえ の せい じゃ な い」 声は掠れ、震えてはいるが、魅録の顔をしっかり見ていた。 清四郎は二人の間に、自分の知らない了解事項があるのを確信した。 悠理を介抱するのは自分の役目ではない。 そう思って魅録に悠理のことを頼もうと顔を上げたとき、先程悠理の傍にいた男が今度は野梨子に声をかけているのが目に入った。 「魅録、さっきの男が野梨子の傍に!」 魅録は振り返り、野梨子の姿を認めるとすぐに走り出した。 魅録の言いつけを守り手摺りから離れる事無くリンクを廻っていた野梨子の前に、ひとりの見知らぬ男が立ちはだかった。 まだ、手摺りから離れることに自信のない野梨子が、どいてくれるよう頼もうと顔をあげると 「君、可愛いね。ひとりなの?」 白い歯をむき出し、爽やかそうな笑顔で話しかけてきた。 その言葉と笑顔に、相手が何を期待しているのか瞬時に判断した野梨子は情け容赦ない現実を突きつけるために口を開こうとしたが、男の背後に魅録が来るのが見えた。 (魅録が来てくれた) その安堵感から、微笑が浮かぶ。 野梨子の笑顔をなんと誤解したものか、更にニヤける男に向かって穏かに言った。 「いいえ、先約がありますの。」 視線は走ってくる魅録に向けたまま、微笑を絶やさず。 「あ゛?」 野梨子の柔らかい声と優しい微笑みにOKの返事を確信していた男は、彼女の言葉の意味を把握することができずに聞き返そうとしたのと、いきなり肩をつかまれたことへの驚きが一緒になった声をだす。 「てめぇ、なんのつもりだ?!」 身体が手摺りに打ち付けられる。 目の前には、鋭い目つきの男。きれいなピンク色の頭をしている。 女の言っていた『先約』は、この男のことだろう。 しかし…お嬢様然とした彼女と、ヤンキーなこの男が…? いや、そんなことを考えている場合じゃない。目の前の男は、かなり怒っているようだ。 さっきの黒髪の男は身体の芯から凍えそうな凄みがあったが、一緒にいた女を優先して手出ししないだろうとの読みが当たった。今度の男は、業火のような怒りを隠そうともしない。 マズイ…。 「あ…や…、彼女がひとりでスケートの練習しているようだったから、よかったら教えてあげようかと…」 無言で睨み続ける男に、声が段々小さくなってしまう。助けを求めるように、女に目を向けた。 「ね、…ぼく、何もしてないよね。」 「……もう、いいですわ。やめてくださいな。」 男の胸元を締め上げている魅録の腕にやんわりと手をかける。 「けど…」 悠理のこともあるのだ。このまま逃がす気にはなれない。 「この方に『ひとりか』と聞かれただけですわ。違うと答えたとき、あなたが来てくださいましたの。」 「……わかったよ。」 野梨子の頼みは断われない。 男の服を掴んでいた手を緩めた途端、魅録を突き飛ばし男は逃げ去った。 「あっ! おい、待て! ……くそっ、逃げ足の速いヤツだな。」 「いいじゃありませんの。それより、悠理は大丈夫ですの?」 「あ…うん。どうだろうな。」 いくぶん歯切れの悪い言葉に焦れて、野梨子は二人のところに行きたいと魅録に頼んだ。 魅録が傍を離れると、悠理は再びぐったりと清四郎の胸に凭れた。 「悠理、どこか苦しかったり、痛んだりしますか?」 清四郎の問いに、首を振る。 「何かして欲しいことは?」 再度の問いに僅かに顔を上げ、「ごめん…な。…も、平気。」と、立ち上がろうとする。 「だめですよ、まだ。そんな青い顔をして。」 悠理を抱く腕に力を入れ、彼女を拘束した。 「僕に抱かれてるのが嫌なら、魅録が戻ってきたら交代しますから。もう少しこのまま休んでいなさい。」 「ちが……ヤじゃない…」 清四郎の優しい声に、悠理は彼の服を握り締めながら小声で答えた。 悠理の声から震えがなくなったことや、服を握るだけの力が戻ったことに清四郎はほっとした。 「ふっ、安心しましたよ。ところで、何があったか話してくれますか?」 「……や、だ。」 「悠理?」 「お前、バカにするもん。」 「何言ってるんです?こんな状態になる原因を哂うわけないでしょう。」 「…………昔、まだガキの頃スケート場で人がぶつかってきたんだ。立ってるのがやっとで避けらんなかった。……そんとき、氷に頭ぶつけて……血がいっぱいでて…………うっ……気持ち……わる……」 話の途中からまた顔色が一層青褪めガタガタと震えてきた悠理を抱き上げ、清四郎は男子トイレに駆け込んだ。 「悠理、すみませんでした。嫌なことを思い出させてしまって… 大丈夫か?」 胃液まで吐き出した悠理のうがいと顔を洗う手伝いをしながら、清四郎は聞いた。 「ん……ごめ……」 「おまえが謝ることはない。さぁ、支度ができたら戻りましょう。 歩けますか?」 「ん。」 よろよろと立ち上がる悠理を見て、清四郎は眉を顰めた。 「まったく、やせ我慢はやめてください。何を今更遠慮してるんですか!」 悠理の膝の裏と背中に手を当て、抱き上げる。 「ぉわっ」 「もし体力があるなら、僕の首に腕を廻して身体を支えてくださいね。」 悠理の顔を覗き込みながら、からかってみた。案の定、悠理の頬に赤みが戻っている。 それを確認して清四郎の顔に微笑が浮かんだが、悠理が素直に腕を清四郎の首に廻すと表情が固まった。 赤くなった顔を隠すためか、清四郎の首筋に顔を埋めてくる。 上体が捻られ、悠理の柔らかな胸元が清四郎の身体に押し付けられた。 襟元に悠理の息がかかる。扁平なはずの悠理の胸の起伏が感じられる。 清四郎の顔も、赤みを増した。 (『顔から火が出る』とはこのことをいうのか…) それでも何処か冷静に自分の状態を分析していることに気付くと、落ち着いてきた。 「悠理、また気分が悪くなったら、すぐに言うんだぞ。」 歩き出しながら問いかけると顔を伏せたまま、悠理が頷く。 「もう、やせ我慢はなしですよ。」 また、小さく頷くだけの返事。 「悠理、何か言ってくださいよ。しゃべれないほど辛いんですか?」 今度は首が横に振られた。そして、小さく囁くような声が聞こえてきた。 「さんきゅ、清四郎。迷惑かけて、ごめんな… よ。」 「おーい、だいじょうぶかぁ?」 魅録の叫び声が、悠理の後半の台詞をかき消した。 「え?なんて言ったんです? 最後が聴こえませんでしたよ。」 しかし、魅録が二人に駆け寄ってきたので、清四郎は悠理の返事をそれ以上促すことができなかった。 「何処行ってたんだ、心配したぜ。」 「あぁ。悠理の気分が悪くなったので化粧室に行ってたんですよ。」 「大丈夫か?」 「ん。」 魅録が今度は自分に問いかけているのを感じた悠理は、顔を清四郎の首筋に伏せたまま頷いた。 ふーっ、と大きく息を吐き出した魅録は 「向うで野梨子も心配してる。早く行って安心させてやれ。」と言った。 野梨子も悠理の状態とその原因を魅録から聞いて、若干の安堵と更なる心配に、暫く彼女の傍にいると申し出た。 「悠理ったら、ムリせずおっしゃってくれれば良かったのに。ほんとうにビックリしましたのよ。」 清四郎の正面に座り、彼の腕に抱かれたままの悠理の手を撫で続ける。 「ごめん。」 弱々しい微笑を浮かべる悠理に、彼女の手を自分の両手でぎゅっと握って言い聞かせた。 「怒っているんじゃありませんわ。ただ、これからはこんな思いをさせないでくださいね。」 「ん。約束する。」 野梨子の手を握り返して、そのまま身体を起した。 「悠理? 大丈夫ですか。」 自分の腕の中から離れようとする彼女に、心配そうに清四郎が声をかける。 「ああ、随分楽になった。これ、ずっと借りたままでごめんな、寒いだろ。」 清四郎の上着を肩から外して、彼に手渡す。 「まだ、着ていたほうがいいですよ。」 「もう、大丈夫だよ。それに、おまえが風邪ひいちゃうだろ。早く着ろよ。」 返してもらったジャケットを羽織ると、そこに悠理の温もりがあった。 清四郎の膝から降りてベンチに座ると寒さを一際感じたが、ちょっと身を震わせると隣に座った距離を清四郎が詰めて、肩を抱き、腕をさすってくれた。 「へーきだってば。」 「嫌がってる場合じゃないでしょ。まだ、体調が戻ってないんですよ。」 「そうですわ。わたくしも、身体を温めたほうがいいと思います。…可憐と美童はどこかしら?」 「…えっと…。あっ、あそこにいるのがそうだな。俺、あいつら呼んでくるわ。」 悠理が呼び止める間もなく、魅録が二人の元に飛んでいった。 ←BACK お宝部屋TOP |