はじめてのチュウ

BY hachi様




眠れない夜。
誰のせいか、考えなくても分かっている。
三大欲求の中で、もっとも逆らい難いと言われる睡眠欲を霧消させてしまうほどの存在。
清四郎にとって、それほど彼女の存在は大きかった。

そのひとの名は、悠理という。
つき合いはじめたばかりの、清四郎の可愛い恋人である。

正直なところ、悠理に告白されたときは面食らった。
言っちゃ悪いが、山猿が恋をするなんて、天変地異の前触れかとも思った。青天の霹靂かと、柄になく慌ててみたりもした。
なのに、顔を真っ赤にして告白してきた悠理を見て、清四郎は飛び上がりそうなほど嬉しかった。そして、すっかり緩んだ表情筋を引き締めながら、OKだと即答したのだった。
結局のところ―― 清四郎自身が気づいていなかっただけで、本当は幼い頃からずっと悠理が好きだったらしい。
恋情の定義を今ひとつ理解していなかったがために起こった、笑えない喜劇。
悠理が告白してくれなかったら、自分の恋心になど、永久に気づかなかったに違いない。
しかし、いかんせん友人としての関係が長かったせいか(顔見知りの期間はもっと長いが)、恋人同士になってもなかなか甘いムードは訪れない。
口の悪い友人たちは、それが当然だと言い放った。どうやら二人の恋愛指数は、この低金利時代の利率よりも更に低いらしい。つき合い出しただけで奇跡だとまで宣わくのだから、よほど恋愛とは縁遠いと思われていたのだろう。
今日のデートも、ムードなど欠片もないアスレチックパークだった。まるで故郷の山に帰ったかのように飛び回る彼女の姿は、明らかに山猿だったし、その後を追う清四郎は、きっと猿に逃げられた猿回し師のように見えただろう。
もちろん、それはそれで楽しかったのだが。

ベッドの上で眼を閉じれば、悠理の笑顔がスクリーンいっぱいに浮かぶ。
先ほど別れたばかりなのに、もう会いたくなっている自分に、少し苦笑する。
まさか、この菊正宗清四郎ともあろう者が、たかが恋に翻弄される日が訪れるとは、夢にも思わなかった。
だが、嫌な気はしない。それどころか、嬉しさと恥ずかしさが入り混じった感情が、妙に心地よいのだから不思議だ。
眼を閉じたまま、自分のくちびるに指を当てて、先ほどの感触を思い出す。
感触に連動して、悠理の真っ赤に染まった顔が脳裏に甦ってきた。

そう。そうなのだ。
つき合いはじめて、四十六日目。
今日、ようやく―― 本当に、ようやく。
二人は、はじめてのキスを交わしたのだ。

それはアスレチックパークからの帰り。
彼女を家の前まで送ったとき。
不意打ち同然、一瞬だけ。
ただ、くちびるを重ねただけの、柔らかなキスだ。
それだけなのに、思い出しただけで自然と笑みが零れる。
トマトよりも真っ赤に熟れた頬の、可愛いこと。
生まれてはじめて、心の底から女性を可愛いと思った。
しかも、相手は山猿なのに、だ。
やはり、恋とは偉大である。
明日になれば、また会える。
そう自分に言い聞かせるが、恋した心は制御不能だ。
会いたくて、会いたくて、会って抱きしめたくて、たまらない。
「僕ともあろう者が、何という体たらくでしょうね・・・」
自嘲の独り言すら、充足感に満ちている。
悠理の真っ赤に染まった顔を思い浮かべながら、寝返りを打つ。
そのとき、ベッドサイドで携帯電話が震えた。


慌てて外に飛び出すと、街灯の下で悠理が笑っていた。
「えへへ、来ちゃった。」
いつもと変わらぬ、邪気のない笑顔だ。
その頬が桜色に上気しているように見えるのは、慣れない恋心ゆえの幻影か。
「来ちゃったって、こんな夜更けにどうしたんですか!?」
思わず声を荒げてから、ここが深夜の公道だったと思い出す。
「だってさ、明日まで待てなかったんだもん。」
悠理は上目遣いでこちらを眺めながら、くちびるを尖らせている。そんな愛らしい顔をされたら、怒る気が萎えるではないか。
「何か、急用ですか?」
「急用なんてないけどさあ・・・」
街灯の支柱をつま先で蹴りながら、言葉を濁す悠理。
「ならば、どうして来たんです?用も無いのに夜更けに出歩くなんて、危ないでしょう。」
「大丈夫。角のコンビニに、車を待たせてるから。」
コンビニまでは歩いても一分とかからない。が、悠理は財閥令嬢なのだ。常に、危険に晒されていると言っても過言ではない。
「それでもやはり深夜のお出かけはいただけませんね。用が済んだら、すぐに帰るのですよ。」
数秒間の沈黙ののち、彼女はか細い声で呟いた。
「・・・ただ、お前に会いたかっただけじゃ、駄目?」
潤んだ瞳。拗ねたように歪む眉。不安を隠しきれない口元。
その表情に、清四郎は一発でノックアウトされた。

なんてことだ。
恋は朴念仁だけでなく、山猿まで変えるらしい。

悠理の髪に手を入れて、そっと引き寄せる。
「参りましたね。僕も、そう思っていたところですよ。」
まったく、恋は制御不能だ。
理性をもってしても、決して思い通りにはならない。
「僕も、会いたかったんです。」
「本当に?」
そう言って、疑わしげに見上げる表情も、また可愛らしい。
「今日は、楽しかったですね。」
「・・・うん。」
「また、二人で出かけましょうね。」
「・・・うん。」
悠理が頷くたびに、ふわふわの髪から漂うシャンプーの芳香が鼻腔を擽る。
持て余していた片方の手で、そっと悠理の肩を包む。
「怒っていませんか?」
そう尋ねると、悠理はきょとんとした顔でこちらを見上げてきた。
まるで子供の表情。どこまでも透明で、少女らしい華やぎはどこにもない。
それでも彼女は、清四郎にとってただひとりの存在だ。
「清四郎、あたいが怒るようなコト、何かしたっけ?」
その耳元にくちびるを寄せて、キス、と囁く。
途端に悠理の顔が火を噴いた。

まったく、何て可愛いのだ。
参った。降参だ。もう、決して離せない。

清四郎はくすりと笑って、そっと、そっと、腕を背中に回して、細い身体を包み込む。
「お、怒って、ない。」
悠理は身を硬くしながらも、肩に頭を押しつけてきた。
「それは良かった。」
清四郎は、彼女を束縛する手に力を籠めた。
「・・・悠理。」
「お、おう。」
喧嘩腰の、色気もへったくれもない返事だ。
だが、それが彼女らしくて、余計に愛しさが増す。
「僕は、自分の気持ちを言葉にするのに慣れていません。」
「・・・?」
意味を掴みかねているのか、悠理が栗色の眼を大きく見開いた。
「そのせいで、きっといつかお前を不安にさせてしまう。」
腕の中で、ふわふわの頭が左右に揺れて、男の言葉を必死に否定する。
「だから、好きだ、という気持ちを言葉にする代わりに、そのぶんだけキスをしますね。」
びくん、と震える身体を、抱きしめる。
「・・・駄目ですか?」
「駄目・・・」
悠理の手が、清四郎の背中に回される。
「・・・じゃ、ない。」

恋した人間と、神経強迫症患者の反復思考のパターンは、驚くほどに似ているらしい。
確かにそうだ。
恋心は、冷静になろうとする理性に、何度も繰り返し迫ってくる。
この、冷静沈着沈思黙考をモットーとする男に向かって、理性なんて捨ててしまえ、と強い口調で命令するのだ。
会いたい。一緒にいたい。抱きしめたい。もっともっと、相手を感じたい。
そして―― 清四郎は、恋心の降伏指令に対して、あっけなく白旗を揚げた。

「これは、今の『好き』のぶんです。」
そっと、くちびるを重ねる。
「それからこれは、今日の、おやすみ、のときのぶんです。」
もう一度。
「これは、明日の、おはよう、のぶん。」
悠理は顔を真っ赤に染めながらも、降り注ぐキスのシャワーを受け止めている。
いただきます、ごちそうさま、こんにちは、さようなら。
色々な理由をつけて、小鳥が戯れるように、何度もくちびるを重ね合わせる。

仕舞いには、悠理のほうが笑い出した。
「もう、三日ぶんは終わったぞ。」
「そうですか?」
くすくす笑いながら、胸に擦り寄ってくる頭を、優しく撫でる。
「僕としては、まだまだ足りないんですけど。」
「そのうち、口がタラコになっちまうぞ。」
悠理は冗談のつもりで言ったのだろうが、確かにこのままだとタラコになる可能性もある。
「ふむ、それは困った。では、これからは『好き』を数で表すのでなく、『好き』の深さをキスで表してみましょうか?」
「へ?なあに・・・ふがっ!」
開きかけた悠理のくちびるを、清四郎は自分のくちびるで塞いだ。
はじめての深いキスに、最初はもがいていた悠理も、やがて、くたりと大人しくなった。


「面白いものが見られるから、ちょっとバルコニーに出てみなさい。」

和子から電話を貰い、言われたとおりバルコニーに出てみたら、何と、公道の、しかも街灯の真下で、幼馴染たちが抱き合っていた。
野梨子は慌てて浴衣の袂で己の視界を塞いだが、時、既に遅し。
ばっちりキスする瞬間まで目撃してしまった。
熱くなる頬を押さえながら、どうしたものか、と思い悩む。
このまま出歯亀になるのも嫌だし、かと言って、二階のバルコニーから二人に声をかけるのも躊躇われる。一番良いのは、何も見なかった振りをして、部屋に引っ込むことだと判っているが・・・
目隠ししていた袂を少しずらして、隣家の二階バルコニーをそっと見る。
道路にいる二人からは死角になって見えないだろうが、野梨子のいる場所からは、しっかりと隣家のバルコニーが見えていた。
嬉々とした様子で、最新式DVDカメラを回す、和子の姿が。
周囲は夜闇に包まれているけれど、二人は明るい街灯の真下にいるし、あのDVDカメラは、たった二日前、高機能なのに安かったと、和子が自慢していた品である。高感度を誇っているらしいから、多少の距離があっても鮮明に映っているだろう。
その映像をネタに、清四郎が何を請求されるのか、考えただけで気の毒になった。
―― 論文の代筆くらいでは、済まないでしょうね・・・
まあ、清四郎は、悠理という宝物を手に入れたのだから、たとえ全財産を巻き上げられたとしても、本望だろう。
隠し撮りされていることを教えようかとも思ったが、今更教えたとしても、既に手遅れだし、今の二人に声をかけたら、逆に飛び蹴りを喰らわされそうだ。
触らぬ神に祟りなし。野梨子は音を立てぬよう、そっと窓を開けて屋内に入った。
窓を閉めるために振り返ったとき、まだ抱き合ったままの二人の姿が眼に映った。
「それにしても、公共の場で接吻なんて・・・道徳を弁えて欲しいものですわ。」
嫌悪が半分、呆れが半分で呟いてから、野梨子はそっと窓を閉めた。

二人のラブシーンは、それからもしばらく続いた。
あまりの長さに和子が呆れて録画を止めてからも、ずっと。


因みに和子が撮影した映像は、脅迫材料として使われることはなかった。
野梨子の心配は、杞憂に終わったのである。
何しろ、近い将来、二人のラブシーンなど珍しくもなくなるのだから。
恋の威力、恐るべし、である。









これで、おしまいvv


いやはや、とんでもないモノをお見せしてしまい、お目汚しになったこと、まずは深 くお詫び申し上げます。
コレはフロさまに押しつ・・・失礼、お願いして描いていただいた「飛ぶ夢は〜」の 奉納品だったりします。フロさまのリクエストはラブコメだったのですが、ワタクシ の文章力が足りず、案の定いつものお馬鹿カップル話に仕上がってしまいました (汗)
やはりワタクシ、お馬鹿から抜け出せない??

かわゆいかわゆいかわゆいっ!このご褒美をゲットしたいがために、あのご無体な設定のお話を 書き上げたフロです。(笑)でも書くのも楽しかったので、hachiさんの手の上で回ってる気が ちょっとする今日この頃。
またよろしく〜〜ww

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