~刹那の恋・淡雪~ かめお様作 |
後編
その日、江戸に初めての雪が舞った。 舞台が跳ねた後、美童の元へ付け文が届いた。 文を読むなり、美童は付き人に駕籠を頼み、夜の宴席に断りの伝言を頼んだ。 美童はぐいっと茶を流し込むと、化粧を落とし、行李から渋い灰色の着物と羽織を出した。 以前、野梨子が、自分には青鈍色、清四郎には刈安色、魅録には萌黄色の着物と羽織を仕立ててくれた。 大事に仕舞ってあったそれに、美童は袖を通した。 「太夫、駕籠が参りました」 「裏に回してくれたね」 「はい」 美童は付き人に銭を握らし、 「僕はこれから逢引だ。いいね、座長にも誰にも、内緒だよ」 そう言い含めると、手ぬぐいで顔を隠すようにし、小屋の裏手に待たせてあった駕籠に滑り込んだ。 底冷えがする道を、駕籠は行く。 しばらくすると、 「つきました」 と、籠屋が声をかけた。 酒手を弾み、駕籠を返すと、美童は竹林の中を歩んでいく。 暮れた空に、いく片か雪が花びらのように舞い落ちる。 心を落ち着かせるように吐いた息が、白くなって夜空に消えた。 しばらく行くと、ぼんやりと灯が見えてきた。 瀟洒な寮のような建物が、竹林の中に佇んでいる。 美童が声を掛けると、中から品のよい老婆が出てきて、 「お待ちでございます」 と、微笑んだ。 三間ほどの小さな家だが、どこも奇麗に掃き清められている。 居間に野梨子が座っていて、美童を見て笑った。 「お嬢様…では」 「ええ。明日、頼みましたよ」 老婆は美童に会釈をすると、小雪舞う家を後にした。 「美童、一服いかがですかしら」 「野梨子…」 美童の呼びかけに、野梨子は首をかしげるように美童を見た。 「決めたんだね…野梨子の進むべき道を」 「…」 野梨子は悲しげに笑うと、 「どうして、あなたにはわかってしまうのかしら…」 美童は、野梨子の前に座ると、出された茶をいただいた。 「素敵な寮だね」 「ええ。父のお弟子のお母上の持ち物ですのよ」 雪見障子から、舞う雪が見える。 「僕たちには、雪に縁があるね」 「ええ、ほんとうに…」 「野梨子の進むべき道は…何に決めたの」 野梨子は、炉に柄杓を置くと、ゆっくりと振り向き、 「わたくしは、髪をおろすことにいたしましたの」 美童の目が大きく見開かれた。 彼も想像していなかったであろう、野梨子が出家するなどとは。 だが、考えようによっては、それは賢明な選択であろう。 尾張家も、仏門に入る娘を側室に差し出せとはいえまい。 拒絶ではあるが、出家とならば相手の顔も立つ。 美童は、己の胸のうちがひりひりと焼き付くような気がした。 言葉よりも前に、美童は野梨子の手を取ると、 「一緒に逃げよう…」 と、声を絞りだすように言った。 野梨子は静かに頭を振ると、美童の手に己の手を重ね、 「わたくしは好かぬ相手と添うほど、野心のある女ではありませんし、両親を捨てて逃げるほど、不義理な女でもないのです」 野梨子は菩薩のような笑を浮かべると、 「これがわたくしの選んだ道ですわ、美童」 美童は、力なく手を放した。 野梨子は決めたのだ。 もはや、誰が何を言っても、彼女の決意は変えられまい。 美童は、うな垂れ、唇を噛んだ。 野梨子に気持ちを打ち明けなかったのは、このような結末を迎えるためではない。 彼女には幸せに、誰よりも幸せになって欲しかったのに。 「…何故だ…」 美童は嗚咽を漏らした。 「なんで、仏は、野梨子にだけこんな過酷な運命を与えるのだろうね…」 「美童…」 野梨子は、美童の手を取ると、 「わたくしの人生が人よりも過酷だとも、不幸だとも思っていませんわ」 そう言って、笑った。 「たったひとつ…たったひとつだけ、現世に未練がありますの。それを引きずったまま、わたくしは仏へ帰依できないのですわ」 「未練…?」 野梨子は、立ち上がると、障子を開けた。 美童のぼんやりと打ちひしがれた頭の中に喝を入れるように、冷たい空気が流れ込んだ。 夜空に、淡雪が舞っている。 野梨子は、振り返ると、 「祐也さんとの出逢いは、わたくしにとって初めての恋でした」 野梨子の言葉に、美童の胸がちくりと痛んだ。 「抱きあうこともなく、ただ美しく散った恋。それは、わたくしにあることを気付かせてくれましたの」 野梨子は静かに美童を見た。 「悠理に彫り物を入れられたと知った時、逆上したわたくしを諭してくださったのは美童でしたわ…祐也さんとの出逢いの時、何事にも頼ったのもあなたでした」 野梨子は、窓の外に目をやると、 「あなたには、わたくしの胸のうちが見えるのですわね。いつも、いつもわたくしの気持ちを察してくださって…言葉にしなくともわかってくれる…美童になら素直になれる…いつの間にか、わたくしはあなたに甘えていたのですわ」 野梨子の両目に、力がこもったのを美童は感じた。 「野梨子…?」 何事か逡巡するように唇を噛みしめた野梨子が、意を決したように、 「美童を…わたくしは、あなたを愛していますの」 野梨子の言葉に、美童の目が見開かれた。 「愛しています、あなたを」 「…の、野梨子」 「祐也さんに感じた淡い恋心とは違うのです。何もかもあなたに捧げたい…」 野梨子は、美童に真っ直ぐに向き合うと、 「今宵、ただ一夜を…あなたの…」 野梨子の言葉を遮るように、美童は野梨子を抱きしめた。 「お前は、僕のただ一人の女だ…」 「美童…」 美童は、野梨子の頬を両手で包み込むようにすると、 「僕の妻になってくれるんだね」 「ええ、あなたの妻に…」 野梨子の目に迷いはなかった。 美童は、己の愚かさを呪った。 野梨子とならば、自分の血や生まれなど、共に乗り越えられただろう。 いま、この時になって、それに気がつくとは… 美童は、野梨子を抱き上げると、隣の部屋に用意されていた臥所に横たえた。 江戸中に浮き名を流した男とは思えぬほど、震える指で、野梨子の着物を解いていく。 彼女の、白く冷たい肌に、己の唇を這わせながら。 「…美童…」 「ん?」 「あなたは、肌も温かいですわ…」 「知らなかったの?心もだよ…」 美童はそう言って笑うと、野梨子の唇を塞いだ。 淡雪は積もらず、翌朝は晴天であった。 青い空は美童の瞳のようで、野梨子は空を見上げて笑った。 簡単な朝食を準備し、二人で膳を囲む。 夫婦として、最初で最後の食事であろう。 だが、二人は幸せだった。 「…野梨子」 「はい」 「僕は約束する、江戸一番の…いや、この国一番の役者になるよ。僕の噂が閉ざされた寺院にまで響き渡るような…ね」 「ええ、美童。楽しみにしていますわ」 野梨子は両親と、仲間への手紙を美童に託した。 「最後まで、美童にはお世話をかけてしまいますわ」 「夫婦になったんだ。遠慮は無用だよ」 美童は微笑んだ。 「…着物、着てくださって嬉しかったですわ」 「似合っていたろ」 「ええ、とても」 目と目を合わせて言葉を紡ぐことが、なんと幸せなのだろう。 だが、それも間のなく終わる。 美童は、目を閉じると、 「行ってくるよ、野梨子」 「行ってらっしゃいませ…旦那様」 二人はくすりと笑いあった。 涙は心の中で流れてはいても… 美童はまっすぐ南町奉行所の役宅に向った。 途中、茶店から日本橋の剣菱屋に使いを出してある。 清四郎と悠理も程なく駆けつけるだろう。 憑き物が落ちたように穏やかな顔の美童を見て、可憐があれこれ尋ねたが、美童はただ笑っていた。 皆が揃うと、美童はやっと口を開いた。 「野梨子に会ってきたよ」 「野梨子に?何処で」 悠理が美童ににじり寄ろうとするのを、清四郎が止めた。 「野梨子は、どうするか決めたんですね」 「うん」 美童は、微笑むと、 「野梨子は、出家する」 「な…」 悠理よりも前に、可憐が美童につかみかかり、 「出家ってどういうことよ。あんた、それを知って黙ってたの。野梨子が出家って、どういうことなのよ」 「可憐、落ち着け」 魅録が、半狂乱の可憐を後ろから押さえつけた。 悠理はすでに清四郎に抱き留められ、美童を睨みつけている。 「野梨子は、意に沿わぬ相手と添うことわできないし、ご両親を捨てることも出来ないと言った」 美童は、皆の非難するような視線に怯むことなく、 「野梨子が決めた道だ。誰にも変えられないし、誰にも止められない」 「美童は、それでいいんですか」 「僕は…もう、女は抱かない」 美童が、きっぱりと前を向いて言った。 「僕は芸に精進して、日本一の役者になると約束したんだ。僕の妻である野梨子にね…」 美童は懐から手紙を出すと、 「野梨子からだよ」 と、皆に差し出した。 悠理と可憐が引ったくるようにそれを手にし、読み始めた。 二人の目にみるみる涙が溢れてくる。 そこには、野梨子の気持ちが、切々と素直に書かれていた。 美童への想いと、二人が夫婦となったことも。 清四郎も、魅録も、手紙を読み思わず天を仰いだ。 何もしてやれなかった… その苦い悔いの想いが、二人の胸を締めつけた。 「美童、ごめんなさい…あんたの気持ちも考えないで」 「辛いのは、お前だよな…ごめんよ、美童」 可憐と悠理に泣きながら抱きつかれ、美童は困ったように笑った。 「ほらほら、二人とも…抱きつく相手が違うだろ」 そう言って、可憐を魅録へ、悠理を清四郎に押しやると、 「白鹿の家に行ってくる。野梨子に頼まれたからね」 微笑んだ美童は、今まで見たどの舞台の美童よりも凛々しく、美しかった。 「わたくし、あまりに尼僧姿が似あうもので、自分でも驚きましたわ」 谷中の天照院に、可憐と悠理が野梨子を訪ねたのは、それから二月程経ってからであった。 紫の衣の野梨子は、それはそれは美しく、悠理など、 「お前、奇麗だなあ」 と、顔を見たとたん、感嘆の声を上げた。 野梨子はよく笑い、明るかった。 「なかなか煩悩というものは断てませんわね」 野梨子は声を潜めると、 「美童とも毎日のように会っていますのよ」 「げっ、ほんと?」 「ええ、ほんとですわ」 可憐と悠理は顔を見合わせた。 まさか、美童が尼寺に女姿で忍び込んできているのでは…そんな想像をし、二人は顔をしかめた。 「ほほ、嫌ですわ。お二人とも、いま変な想像をなさいましたのね」 野梨子は笑いだすと、ことの真相を語った。 天照院は、道から三十段ほどの石の階段を上った先にある。 朝、野梨子が門前を掃き清める時刻、美童がその道に立っている。 階段越しにお互い、ほんの短い時間視線を合わせるだけの逢瀬を、密かに続けているのだ。 たった三十段の石段は、二人にとっては越えられぬ壁である。 だが、お互いの顔が見られればそれで幸せなのだと、野梨子は言った。 黙りこくり、涙ぐんだ可憐と悠理の顔をのぞき込むように、 「そんな顔しないでくださいな…わたくしたちはいま、一番幸せなのですわよ」 「野梨子…」 「わたくしと美童の愛は揺るがないのですわよ。可憐と魅録よりも、悠理と清四郎よりも、絆は深いですわ」 「な、なんだよ。そんなことないぞ。あたいたちなんか、消えぬ証を彫ってるんだからな」 「あたしと魅録だって、身分の差を越えて結ばれたのよ。誰にも負けないわ」 「ほほ、みんな、お互いが一番だと思っているなんて、幸せですわね」 「…そう言って、笑うんだ」 根津の寮で、悠理は涙を流しながら、清四郎に野梨子とのことを語った。 「幸せだって、今が一番幸せだって…」 「そうですか…」 清四郎は、ぐすぐすと泣く悠理をそっと抱き寄せた。 尾張家も、野梨子が出家したと聞き、さすがに清州に悪いと思ったのであろう。 以前にも増して、清州を贔屓にしている。 清州も、野梨子の決意を知り、一層絵に力を入れるようになった。 美童は、野梨子との約束を守り、以降ご贔屓筋の座敷には顔を出さず、芸に磨きをかけている。 人気商売ゆえ、それに反感を持つ輩もいるが、今回の一件を聞いた悠理の両親が美童の援助を買って出た。 剣菱屋がついていれば、元々才能がある美童のこと、大きく花開くのも間近であろう。 美童が血を吐くように叫んだ、この時代に生くる難しさを、彼は芸として昇華させる。 そして、野梨子は、それを心で支えるのだ。 清四郎は、悠理の瞼に唇を寄せると、 「悠理、僕と夫婦(めおと)になってくれませんか」 「清四郎…」 「美童も、野梨子も、きっと喜んでくれますよ」 悠理は、顔を切なげに歪めると、 「あたいでいいの?」 「お前がいいんです。魅録が可憐と出会ったように、美童が野梨子と出会ったように、僕はお前と出会えた」 「あたいも、お前と出会えて幸せだ」 悠理は、清四郎の胸に顔をうずめると、 「あたいはお前の、女房だからな…」 「ええ、悠理」 清四郎が庭に目をやると、夜空に雪が舞っていた。 「悠理、雪ですよ」 「寒いと思った…積もるかな…」 「さて、どうでしょう」 しんしんと、雪は降る。 世の中の何もかもを、覆い隠すかのように。 寒い朝。 雪が舞い落ちる。 うっすらと雪が積もる道を、美童は行く。 いつもの場所で立ち止まると、美童は石段の上を見上げた。 紫の衣の野梨子が、上から美童に微笑みかける。 (今日は寒いね) (ええ、ほんとうに) 声にならぬ会話を交し、美童は踵を返した。 近くにいた時はあれほど苦しかった想いが、手に届かぬ人となった今、温かく心を満たしてくれる。 しんと静まり返る町を、美童は踏みしめるように歩んでいった。 まっすぐと、前を向いて。
|