澄み切った夜空に悲しみは響く

  BY 麗 様





〜第一章 後編〜



軽快に走っていた馬車が大きな道を逸れ、仰々しい門構えの中に入っていった。
手入れの行き届いた庭の中の道を通ってゆく。
門のすぐ横に立っていた大口を開けて笑う小太りの男性の石像や、庭のあちこちに散らばっている
少女やうさぎの石像、庭の中央にある6人の女神の像に囲まれた大きな噴水…
「すごいだろー?父ちゃんと母ちゃんの趣味なんだ。あたい、恥ずかしくって…」
調和が取れているのか取れていないのか良くわからない屋敷の庭のたたずまいに、
セイシロウが眉を顰めるのを見て、足を投げ出した姿勢でまだ食べ物を頬張り続けるユーリが言う。

かなり長い距離を走り抜けて、馬車はようやく屋敷の正面に止まった。幾人かの下女が並んで迎える。
よっ、とユーリは馬車から飛び降り、ゆっくりと御者の隣から降り立ったセイシロウを振り返った。
「さ、着いたぞ。今日はさ、あたいの誕生日なんだ。ご馳走が用意してあるはずだから一緒に食べようぜ!」
満面の笑みでそう言うユーリにセイシロウは困った表情を見せ、物問いたげな視線をゴダイに向けたとき、
「ユーリ、帰ったのかい?念願の市場見物はどうだった?」
柔らかな声がして屋敷内からトーガ(襞の多い長衣)を着た一人の青年が出てきた。
20歳くらいであろうか。柔和な表情、やや気弱な印象を受けるが背が高くなかなかに美形である。

「うん、にーちゃん!面白かったじょ。ほら、スモモこんなに買ったんだ〜。兄ちゃんも好きだろ?」
嬉しげに両手に乗せたスモモを差し出す妹に、優しい笑顔を見せた青年であったが
ふとその目がユーリの後ろに立つ少年に向けられた。

「その少年は?ゴダイ。」
「あ、こ、この少年は…」
「こいつはセイシロウ。にーちゃん、あたいこいつを買ったんだ〜!」
言い澱むゴダイをよそに、ユーリが明るく言い放った。

「…買った?買ったってユーリ、彼は奴隷かい?」
「へ?」
「そ、その…ホウサク様、この少年が奴隷商人に手ひどく扱われているところをじょうちゃまが見かねまして…」
「…買い取ったと言うわけかい?まったく、お前という奴は。そういうことをしてくるんじゃないかとは思っていたよ。」
呆れたようにホウサクは呟いたが妹のしたことを咎める様子はなく、ゴダイはほっと胸をなでおろした。

「セイシロウと言ったね。幾つだい?」
ホウサクはセイシロウに向き合うと、優しく問いかけた。
「…十二歳になります。」
セイシロウはホウサクの目を見つめ、はっきりとした声で答えた。
「十二歳か。ユーリと同じ歳だね…」
ホウサクは何事かを思い出そうとするかのようにように、セイシロウの様子を見つめて黙り込んだ。
「へ?あたいと同い歳?老けてんな、お前。」
ユーリの台詞にセイシロウはムッとした様子でユーリを軽く睨んだが、何も言い返さなかった。

「どうしたものかな?今のところは下働きの手も足りているんだけど…」
顎に手をやり、ホウサクは考えるようなポーズをとった。
「セイシロウはあたいが買ったんだから、あたいのもんだじょ。あたい、遊び相手が欲しかったんだ。
だっていつも一人だし…」
兄の着物に手をかけ、懇願するように自分を見上げるユーリにホウサクは思わず笑みを漏らし
「そうだね。じゃあ、とりあえずはお前の遊びのお相手…と。後はゆくゆく考えていくことにしよう。
ゴダイ、あとは奴隷頭に頼んでおいておくれ。セイシロウの身体を清めて着替えさせて
何か食べさせてやるようにね。…今日はゆっくり休ませてあげるといい。」
「え…、ご馳走を一緒に食べようって言ってたんだじょ。」
てきぱきと指示するホウサクに、ユーリが口を尖らせて異を唱えたが…
「それはいけないよ、ユーリ。」
ホウサクは優しく、だが毅然とした様子で言い放った。
「奴隷と食事を共にすることなど、出来ないよ。」

普段は優しくユーリの言うことを何でも聞いてくれる兄だが、行儀作法や貴族としての心構えなどには厳しく
駄目だと言ったら大抵はそれで終りであることを知っている。ユーリは不満げな様子をしながらも口をつぐんだ。
「さ、ユーリ。ご馳走の用意が出来ているよ。都にいる母様から綺麗な服や首飾りも届いているし。
ゴダイ、後は頼んだよ。」
ホウサクはそう言い置いて、ユーリの背に手を添えると屋敷の中に入っていった。
ユーリは何度もセイシロウのほうを振り返りつつ、やがて屋敷の中にその姿を消した。



***




                  ユーリは一人で豪華な食卓に向かっていた。
共に席に着いたはずのホウサクは、都にいる父からの使者の到着で席を立ってしまった。
ウサギの詰め物につぐみの焼いた物、野菜のシチュー、様々なチーズにりんごの焼き菓子、色とりどりの果物。
高価なワインを銀の杯から口にしても、一人きりの食卓では味気ないばかりだ。

(兄ちゃんはああ言ったけど…。)
ユーリはとつとつと考える。
(食事の間、セイシロウに話し相手になってもらう位は良いじゃないか。)
物心着いた時から、ユーリはずっと寂しい思いをしてきた。
貴族で政治の要職にある父や、社交上の付き合いの多い母は忙しく
歳の離れた兄もなかなかユーリの相手をしてはくれない。
歳の近い遊び相手も屋敷の中にはおらず、また屋敷の外に出ることもなかなか許されない。
だからセイシロウを得た事でユーリは、これで寂しさから開放されると思ったのだ。
「よしっ!」
セイシロウのところに行ってみよう。
ユーリはそう決意すると立ち上がって屋敷の裏手に向かって走り出した。



***




屋敷の裏手の一角に小さな広場を囲むようにして奴隷たちの住む小屋があることは
探検心旺盛なユーリは既に知っている。
そこに向かって歩を進めてきたユーリは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
広場の真ん中で小さな火が焚かれ、数人の奴隷たちが回りに立っていた。
その前の地面に、衣服を肌脱ぎにして白い背を露わにしたセイシロウが跪かせられていた。
両側から屈強な奴隷男がセイシロウの肩と腕をつかんで抑えている。
焚火の前に立っている別の男が火の中に突っ込んであった長い鉄の棒を取り出した。
鉄棒の先は平たく四角くなっている。

ーーーそれが何かを悟ったユーリは、叫びながら飛び出した。
「ばかやろー!セイシロウに何すんだっ、やめろーっ」
驚いて道を空ける奴隷たちを掻き分け、ユーリは赤ら顔の奴隷頭の前に立った。
「何するつもりだよ!セイシロウを離せよっ!」
「ユーリお嬢様…。何するって、焼印を入れるんですよ。」
奴隷頭は狼狽した様子を見せたが、おずおずと言い返した。
「何でそんなんもん、入れるんだよっ!」
「…こいつはお嬢様が買いなすった奴隷でしょう?奴隷にはその家の焼印を入れるもんですよ。
あっしにも入ってますし、ここにいる奴隷は皆同じように焼印が入ってまさぁ。」
「だからって、だからって…セイシロウに…」
うわ言の様に呟くユーリの耳に、低く毅然とした声が聞こえた。


「いいんです。ユーリ様。」
その声にユーリが振り向くと、押さえつけられ跪いたままのセイシロウと目が合った。
「…いいんです。僕は奴隷なのですから。奴隷の身体に焼印を押すのはこの国の決まり。
お嬢様が口を出すことではありませんよ。」
ユーリは呆然とセイシロウを見やった。
セイシロウの瞳は静かだった。そこに浮かんでいるのは…諦めか。
焼印を手にした男が奴隷頭の顔を伺い見る。奴隷頭は小さく頷き、
セイシロウの腕を押さえている男達の手に力がこもった。
焚火から引き出された焼印がセイシロウの右の肩に近づく。
大きく見開かれたユーリの瞳から、大粒の涙が零れて頬を伝い落ちた…


ーーージュウゥゥ…
「…くぅっ…はぁっ…」
肉の焦げる匂いが辺りに漂い、セイシロウの背が大きく反り堪え切れぬ様にうめき声を上げた。
腕をつかんでいた男達がそっとその手を離すと、セイシロウは大きく首を振りながら両手を地に付き
はあっ、はあっと大きく喘いだ。
焼印を押し付けた男が焚火を消しにかかった。奴隷頭は無言で頷き、小屋の方に戻っていく。
数人の奴隷たちがその後に従い、火を消し終えた男もその後を追った。
広場にはセイシロウとユーリだけが残された。


セイシロウは跪いたままの姿勢で、両手を地に付き俯いていた。額には脂汗が滲み、肩で大きく息をしている。
ユーリは大粒の涙を流してしゃくりあげながらセイシロウの前に座り込んだ。
「セイシロぉ…」
焼印を押されたところに手を伸べるが、触れることが出来ない。
セイシロウは顔を上げ、ユーリと目を合わせた。痛みに耐えるためか唇を噛み締め、黒い瞳に涙が滲んでいる。
「ごめん…ごめん…セイシロウ…こんな…あたい…こんなこと…」
しゃくりあげながらユーリは謝りの言葉を口にし、そっと両手をセイシロウの身体に回した。
(あたいが、買ったりしなきゃこんなことには…)
ユーリの口に出さなかった思いを理解したか、セイシロウがうっすらと微笑んで言った。
「ユーリ様、あなたが気にすることじゃない。どこの誰に買われても同じことなんです。
こうなるのは僕の…奴隷に落された者の運命なのだから…」
絞り出すようにそれだけを言うと、セイシロウは痛みの余り気を失った。



***





気がついたとき、セイシロウは寝台にうつ伏せに寝かされていた。
ぼんやりと辺りに目をやる。粗末な小屋の中だ、何もない。…奴隷小屋か?
視界の端にふわふわとした明るい色の髪が映った。
「…ユーリ?つうっ!」
身を起こそうとすると右肩に鋭い痛みが走り、セイシロウは痛みの場所を抑えてまたうつ伏せた。
手に油紙の感触があった。
「…セイシロウ?気がついたのか?」
脇に置いた椅子に座り、寝台に突っ伏して眠っていたユーリが目を擦りながら問いかけた。

「まだ痛む?」
「いえ…だいぶん楽に。これはユーリ様が?」
セイシロウはそっと自分の右の肩を見やりながら答えた。
焼印を押された場所には何やら軟膏のような物が塗られた油紙が当ててあった。
「…ユーリでいいよ。薬師に頼んで薬を調合してもらったんだ。痛みが治まるからって…」
「…ありがとうございます。」
「火傷の痕は消えないって…」
ユーリはまたしゃくり上げだした。
「ごめんな…ごめんな…ほんと、ごめん…」
セイシロウはゆっくりと身を起こすとベッドの縁に腰掛けそっとユーリの髪をなでた。
「謝らないでください。さっきも言ったとおり、これが奴隷としての運命なんですよ。」
「でも、あたいがもっと早く気付いて兄ちゃんにこんなことしない様に頼んでれば…」
「頼んでも、多分聞き入れられなかったでしょうね。」
セイシロウがきっぱりと言った。
(多分そうだろう。自分が頼んでも、兄は「決まり」を覆すような人じゃない。)
ユーリもそう思ったから黙って俯いていた。

「…ここが僕の部屋ですか?」
セイシロウがぐるりと部屋を見渡しながら聞いた。簡素な寝台が置かれただけの狭く粗末な小屋である。
入り口にはドアはなく、分厚い布が掛けられている。窓もない。
「うん。ここで寝起きしろって…普通の召使達みたいに、屋敷の中の部屋にしてくれって言ったんだけど
駄目だって…」
ユーリは俯いたままポツリ、ポツリと答えた。
「…なかなか、いい待遇ですよね。奴隷にしては。」
「えっ?」
思っても見ないセイシロウの言葉に、ユーリは弾かれた様に顔を上げた。
「もっとひどいところに押し込められると思ってましたよ。まさか一人部屋をもらえるとは思わなかったな。」
顎に手を添えてうんうんと頷いているその様子が大人びて見えて、ユーリは思わず笑みを浮かべた。
「お前、平気なのかよ?」
「何がです?さっき出された食事もなかなかいい味でしたよ。」
しれっと言うセイシロウの様子に、ユーリはとうとうケラケラと笑い出してしまった。
セイシロウもつられて笑い出した。


「…あたいがお前を守るよ。」
ひとしきり笑った後、ユーリはじっとセイシロウの目を見てこう言った。
「守るって…女の子が男に言う台詞じゃありませんよ。」
セイシロウが苦笑しつつ答える。
「だって、あたいがお前を買ったんだぞ。あたいはお前のご主人様だ!」
ぐっと胸を張り、どうだ、といわんばかりの表情でユーリが言う。
その表情がかわいく思えて、セイシロウの瞳に暖かな光が宿った。
そのまま二人は何も言わず、しばらくの間お互いの顔を見詰め合っていた。

「…お仕えしますよ、あなたに。」
やがて静かにそう囁くとセイシロウは立ち上がり、ゆっくりとユーリの前に膝を折った。
思わず立ち上がったユーリの手を取ると、その手に軽く額をつけてセイシロウは言った。


「お仕えします。ユーリ、あなたに…」


ユーリは夢を見るような気持ちでセイシロウの形のいい頭を見下ろしていた。
体が暖かくなっていく。まるで心に灯がともったようだった。
やがてセイシロウが頭を上げ、ふっと柔らかく微笑んだ。
ユーリも微笑を返した。


―――このときの二人にはまだ思いもよらないことだっただろう。二人を取り巻く運命がどれほど過酷なことかを。









第二章


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