〜第二章〜 風が心地よい。 ユーリは大きく胸を反らせる様にして頭上に広がる青空を仰ぎ見た。 大きく、朝の空気を胸に吸い込む。 「…そんな体勢を取っていると、また馬から転がり落ちますよ」 前を進んでいたセイシロウが苦笑しながら馬の首を回し、ユーリの横に並んだ。 「…落ちるかよ。勝負するか?」 ふてくされたように唇を尖らせてユーリが言う。セイシロウが笑いながら答える。 「いいですね。受けて立ちますよ」 「じゃあ、いくぞ!はあっ!」 言うが早いか馬に鞭をくれ、ユーリの乗った馬は風のように走り出す。 「フライングですよ!はっ!」 少し遅れて清四郎を乗せた馬も走り出した。広い馬場の中を二頭の馬が駆け抜ける 途中までは優勢だったユーリの馬だが、最後のターンを曲がるところでセイシロウの馬に追いつかれ、 みるみるうちに差を広げられてゴールに走りこんだ。 「僕の勝ちですね」 馬の首を叩いてやりながらセイシロウが余裕の笑みを見せた。 「…なんだよ、考えてみりゃリゼルヴァがスクリオに敵う訳ないんじゃん…」 荒い息を吐きながらユーリが悔しげに言い返す。運動のためか顔が真っ赤だ。 「それでも勝負しようと言ったのはあなたでしょう?じゃあ、馬を交換してもう一度勝負しますか?」 「スクリオがお前以外を乗せるわけないだろ。わかってるくせに言うな!」 ユーリはむっとして言い返すと、すばやく馬の首を返してまた馬を駆った。 セイシロウがその様子を微笑して眺めていた。 早朝の馬場での馬術の稽古。 いつもは朝寝坊のユーリも稽古の日は早く目覚める。 朝の風を切って馬を駆るのは気持ちがいいから。 セイシロウと一緒に過ごせるから。 ユーリが奴隷商人からセイシロウを買い取り、屋敷に連れてきてから早三年が過ぎていた。 最初の内セイシロウはユーリの遊び相手として、毎日ほとんどの時間を共に過ごしていた。 だが、数ヶ月前からセイシロウは屋敷内の下働きとして使われることが多くなり、 ユーリと共に過ごす時間は少なくなっていた。 傍目に見ればそれは当然のことだろう。この3年の間にセイシロウの背丈は伸び、 顔立ちにこそまだあどけなさを残しているものの、その身体つきは逞しく大人の男のものに近い。 ユーリにしてもすんなりとした手足に白い肌、柔らかな髪ときらきら光る瞳が小鹿を思わせるような 美しい少女に成長していた。―――尤も、その言動はどう見ても女らしいとは言えなかったが。 そんな二人がいくら奴隷と女主人とはいえ、いや、むしろそういう関係であるからこそ 常に行動を共にしているのは外聞が悪い。―――そう判断したユーリの兄ホウサクによって、 二人が共にいられる時間は限られたものとなっていたのである。 ユーリにはそれがとても不満であった。 不満は他にもある。 最近、セイシロウは彼女のことを「ユーリ様」と呼ぶ。 その呼び方は間に隔てを置かれるようでユーリは好きではない。 何度も「ユーリでいい!」と言っているのだが、 「奴隷がご主人様を呼び捨てになど出来ませんよ」と、苦笑するだけだ。 ―――ユーリは大切な友だと思っているのに。 思うさま馬を走らせ厩舎に戻るとセイシロウが愛馬に何事かを話しかけつつブラシをかけているところだった。 その隣の囲いに自分の馬を導くと、ユーリもブラシを取って愛馬の毛を整え始めた。 ユーリの馬リゼルヴァは3歳になる雌馬だ。ユーリの髪と同じように明るい栗色の馬。額に白い流れ星がありほっそりとしている。 対するセイシロウの馬スクリオは4歳の牡馬で全身が黒褐色。がっしりとしていてリゼルヴァよりも一回りは大きい。 もともとスクリオはユーリが一目で気に入り、出入りの馬商人から買ったものだ。 だが癇が強くて人に慣れず、誰もその背に乗ることが出来なかったのをセイシロウがあっさりと手なずけてしまったのだ。 今もユーリはその時のことを思い出していた。 セイシロウを馬術の稽古に付き合わせることをホウサクにうるさく頼み続けてやっと許可を得、 初めてこの厩舎にセイシロウを連れてきた日のこと。 ―――奴隷なんかを馬に乗せるのか。 そういわんばかりの目付きで見ている馬丁達をよそに、ユーリは上機嫌でセイシロウに馬術の心得を説いていた。 「お前も乗ってみるだろ?最初はおとなしい馬にしなくっちゃな。あ、あの馬なんか、どうだ?」 そう言って厩舎では一番おとなしい年寄りの馬を指差したユーリをよそに、セイシロウは厩舎を見回すと 真っ直ぐに一番奥の囲いに入れられていたスクリオに向かって歩いていったのだ。 「駄目だよ、セイシロウ!スクリオは、その馬は…」 言いかけたユーリのほうをちらと見ると、セイシロウはスクリオに低い声で何かを話しかけ そのままスクリオの鼻面にそっと手を伸ばす。 ニヤニヤしながら見ていた馬丁達の目が驚愕に見開かれた。 常ならば触れられるのを嫌がって鼻を鳴らし、首を振って後退りする筈のスクリオが身じろぎもせずに セイシロウにその鼻面をなでさせたのだ。 そのままセイシロウはスクリオのたてがみや背中をなで続け、やがて引き綱を取ると呆気に取られて見ている ユーリや馬番をよそに馬場へとスクリオを牽いて行き、鞍も置かぬ馬の背にひらりと飛び乗ったのだった。 嫌がる馬の背に無理やり跨る事ならユーリも既にやっていた。―――すぐに振り落とされたが。 だがセイシロウはそうではない。巧みに手綱をさばき、思うままに馬を操っていた。 驚いたことにスクリオもそれを楽しんでいるようにすら見える。 「…あれはかなり馬術を身に着けているな」 「まさか!あいつは奴隷ですぜ」 呆けた様に呟く厩舎番頭に下っ端の馬丁がムッとした様に答えるのが聞こえた。 ―――そんな情景を思い出しながら、ユーリは目の前で馬の毛並みを整えて往復するセイシロウの長い腕を見つめていた。 セイシロウが秀でているのは馬術だけではない。 剣術、語学、薬学や政治情勢まで、ユーリに無理やり付き合わされる学問やお遊びの どんな事柄でもセイシロウは一定以上の冴えを示すのだ。 その力量と博識ぶりに、初めは「お嬢様が気まぐれに連れ帰った奴隷の少年」と蔑んでいた屋敷内の人々も いつしか彼に一目を置くようになっていた。 そして、皆がひそひそと話し合う。 「あの子は、元からの奴隷の生まれなんかじゃありえないね。きっと―――」 「なぁ…セイシロウ?」 「なんですか?ユーリ様」 ユーリの呟きに、愛馬の手入れを終えたセイシロウが額に浮かんだ汗を拭きながら答えた。 前髪に半ば隠れた黒い瞳が楽しげな光を湛えている。馬術の稽古はセイシロウにとっても楽しいことなのだ。 澄み切った夜空のような瞳。この瞳がユーリは好きだ。 ―――お前は、誰?何処から来たの? 喉元まで出掛かった問いを飲み込んだ。 もとより、答えが返ってくるとは思っていないから。 今一緒にいるこの時が大切だから。 「おじょうちゃま、屋敷にお戻りください。都にいらっしゃる奥様から使者が来ておりますぞ」 ゴダイがぱたぱたと駆けてきてユーリを呼んだ。 「母ちゃんから?」 ユーリが不快そうな表情を見せる。 「最近、よく使者が来ますね。何か大事な言伝ですか?」 普段は使者の言伝の内容など尋ねたりはしないセイシロウだが、最近あまりにも頻繁に使者がやってくるので気になったようだ。 「んー、早くあっちの屋敷の方に来いって」 「都の方にですか?」 「そ。ほら、あたい先月で15歳になっただろ。だからそろそろあっちで『貴婦人の教育』とやらをさせたいんだってさ」 「貴婦人…ですか?」 ユーリに『貴婦人』という言葉などまるで似合わない。 セイシロウは(奥様もずいぶんと無謀なことをしようとなさる方だ)と思った。 「なーんかうまいもんでも一緒に託ってないかなー。セイシロウも来いよ〜」 脳天気にそう言い放ってユーリは屋敷へと戻り始める。セイシロウもそれに付き従った。 二人が屋敷内に入ると、使者が畏まって迎えた。 傍らには色とりどりの刺繍が施された上質な生地や宝石の嵌め込まれた装身具が山と積まれている。 どうやら食べ物はないようだ。 セイシロウの口元が緩んだ。(奥様はよほどユーリ様を女らしくさせたいらしいな) ユーリはあまり女性らしい服装を好まない。 普通ユーリのような身分高い女性であれば、豪奢な刺繍が施された丈の長いトゥニカにストラと呼ばれる長い布を肩にかけ、 宝石で飾られた腰帯や装身具で身を飾っているものだが、ユーリがいつも着ているのはトゥニカのみ。 さすがに腰帯などは宝石で飾られた豪華なものだが生地こそ違え、セイシロウが着ているのとたいして差がない格好である。 「動きにくいのはキライだ。」ということであるが…。 そんなことをつらつらと考えながらセイシロウはユーリの後ろに立っていた。 恭しくユーリに書状を差し出す使者に眼を向ける。 使者が頭を上げてユーリの顔を仰ぎ見た。 その瞳の色を見たとき、セイシロウの様相が変わった。 「ご苦労様。母ちゃんからの手紙見せて」 恭しく頭を垂れる使者にそう話しかけ、ユーリは母からの手紙を受け取った。 手紙を開いて見ようとした時、後ろに立つセイシロウがシュッと息を呑む音が聞こえた。 不審に思って振り返り、ユーリは眼を見開いた。 セイシロウの顔は蒼白であった。 大きく眼を見開き眼前の使者を見つめ、その身体は小刻みに震えている。 「セイシロウ…どうし…」 問いかけようとユーリが口を開くとセイシロウははっとしたようにユーリの顔を見た。 「すみません…ユーリ様。失礼します」 セイシロウは一礼すると踵を返し、逃げるように出て行った。 セイシロウの背をユーリはぽかんと口を開けて見送った。 「なんだぁ?どうしたんだろ、あいつ」 そう呟くと眼前の使者に視線を戻し話しかけた。 「ありがと。母ちゃんによろしく伝えて。あれ?お前の目の色、変わってんな」 まだ歳若いその使者の瞳は右目は緑色、左目が明るい茶色をしていた。 「は、はい。生まれつきこのような色でして…よく気味が悪いと言われます。お付の方も驚かせてしまったようですね。」 ユーリのような身分の人間に気安く話しかけられるのは初めてなのだろう、使者はおどおどと答えた。 (セイシロウが、変わった目の色をした奴見た位であんなに驚くかぁ?) ユーリは不思議に思った。 あんなセイシロウははじめて見た。 いつも冷静沈着、憎らしいくらいに落ち着いているのに。 頭を捻りながら、ユーリは自室へと歩いていった。 セイシロウは転がるように自分の部屋へと入った。 寝台の前に来ると崩折れるように座り込み、はっ、はっと浅い呼吸を繰り返す。 堪えきれぬように両手で頭を抱え、力なく首を振り続ける。 ―――頭の中に、広がる光景があった。 重そうな刀が振り下ろされ、斬られた男が自分に覆いかぶさるように倒れてくる。 斬られた傷から迸る血がセイシロウの顔にかかる。 次はお前だと、剣先を向けられた。 その刀を握る人間の冷たい瞳の色!色!色! 「あああああああああー!」 こらえきれず叫び声を上げ、寝台に突っ伏した。 頭を寝台に打ちつける。何度も、何度も。 それは、封印していた記憶。 思い出すことも忌まわしくて、忘れ去ったはずの記憶。 涙を流し、虚ろな瞳でセイシロウは顔を上げた。 唇が小さく動き、何度も同じ言葉を繰り返す。 「父上…父上…父上……」 同じ言葉を繰り返し叫ぶ、幼い自分の声が聞こえた。 |