銀の虎 〜発端編〜 作:千尋様 |
大川(おおかわ/=隅田川)下流付近で土左衛門が上がったとの報せが、松竹梅丹後守時宗の役宅にもたらされた、その日の朝方。 出向する時間が取れない丹後守に名代を言いつけられ、嫡男である魅録が、亡骸の検死に赴くこととなった。 現場近くの永代橋の袂に、亡骸は筵(むしろ)を被せられて横たわっていた。 その亡骸の前に座り込んでいる一人の男に、魅録は苦笑しながら口を開いた。 「…何でお前が、仏さん調べてんだよ、清四郎。上様御典医の嫡男がやることじゃないだろ?」 左袖の袂に右手を入れたまま、清四郎は魅録を仰ぎ見て、ゆっくりと立ち上がる。 袴の裾を軽くはたいて、清四郎が笑う。 「この近くで、父上の弟子の秀月さんって方が町医者をやってるんです。その診療所にね、丹後守殿のところの二人組が訪ねて来たんですよ。…判り易い飛び込みや、運悪く水に落ちたってわけじゃなさそうだから、調べてほしいって」 清四郎は川の水で手をすすぎ、懐紙で水分を拭い去る。 「で、図らずも、その診療所に薬草をおすそ分けする為に、ちょうど僕が訪ねて行ってましてね。秀月さんに、死体改めはお前の方が向いてるから行って来い、って言われたんですよ。断る理由もなかったんで、お言葉に甘えたってわけです。…魅録は? 丹後守殿の名代ってとこですかね」 「…そうだよ。親父のやつ、俺には忙しいから代わりに行けって言ったけどな。今、珍しく役宅に千秋さんがいるんだよ。あの人、いつも何かと理由をつけちゃあ、物見遊山に興じてるだろ? 千秋さんと過ごせるのは今しかないからって理由だけで、俺に自分の仕事押し付けるんだぜ? あー。…俺、こういうの見たくないんだけどな…」 酷く困った顔になって、魅録は足元の筵に目を向けた。 清四郎が神妙な顔つきをして言葉を継ぐ。 「…発見が早かったですから、まだ傷みは少ない亡骸ですね。亡くなったのは、昨夜。寅の刻(午前4時ごろ)辺りだと思います。…まだ若い侍で、前から大刀で袈裟懸けに斬られて亡くなってるんです。その後で水の中に…」 「…それじゃこの仏さん、最近、八百八町(はっぴゃくやちょう/=江戸の町全体)にのさばってやがる辻斬り野郎に?」 「…おそらく、そうだと思います…」 少しの沈黙の後、意を決したように清四郎は魅録を見る。 「…魅録。辛いかもしれないが、顔だけでいい。見てやって下さい。…亡くなったのは、僕たちの学問所時代の友人なんです」 「…今、友人って、言った…よ、な…?」 清四郎の言葉を聞いた、その刹那。 魅録は、身体から血の気が引いていくのを感じていた。 魅録は、動かない身体を無理やり動かした。 その場に座り込み、ゆっくりと筵を捲り上げていく。 儚くなったその人の顔を確認し、丁寧に筵をかけ直す。 「…まさ…。…小田…、…成政…」 静かに、それだけを魅録は呟いた。 小田成政の亡骸が見付かった、その日の夕刻。 丹後守の役宅の一室で、魅録と清四郎の二人が、酒を酌み交わしていた。 「俺さ…。一月前くらいに、さ。成政と久しぶりに会って話したばかりだったんだよ…」 亡くなってしまった成政のための杯に酒を注いで、魅録は途切れ途切れに、ゆっくりと語る。 「お前も、よく知ってるとは思うけどさ。アイツの家、武家の中でも特に特殊な仕事してるだろ?」 頷くように杯を傾けて、清四郎が言った。 「成政殿は次男でしたから、生まれた家や代々の当主の名を襲名する可能性は、無きに等しかったですけど。小田の家のことは、いつも気にしていましたよね」 淋しそうに、魅録が笑った。 「…成政がさ。生きてた時によく言ってただろ? 小田の家の仕事は、家業だからってことで、代々襲名してるんじゃないってことが、判ったような気がするって」 「覚えてますよ。…どういう意味なのか詳しく訊いても、哀しそうに笑うだけで、僕には話してくれませんでしたが。…魅録は、何か聴いていたんですか?」 中庭の見える丸い障子窓を、魅録は半分だけ開ける。 月の光と、やわらかな夜風が、窓から差し込んでくる。 清四郎の杯に酒を注ぎいれてから、自らの杯にも酒を満たして、魅録は一気に杯を空にした。 「…俺も、成政から直に教えてもらったわけじゃない。でもな。最後にあいつと会った日に、言ってたんだ。…父親が隠居するから、近々兄貴が当主の名『政右衛門』を襲名することになるだろうって。それで、成政の養子縁組先を、あいつの父親が探し始めたらしいんだけど、成政を受け入れてくれる縁組先なんてありえっこない、って、哀しそうに笑って…」 空になった魅録の杯に、清四郎は黙ったまま、ゆっくりと酒を満たす。 「俺が、何でそう思うって、訊いたらさ。…小田の家と関わり合いを持つ事に抵抗がない人間は、俺と清四郎だけだって…また…笑って…さ…。小田の家の者は、小田の家の者だって理由だけで、まわりから避けられるんだよ…って。…『首斬り政右衛門』の身内ってことだけで、恐れる人のほうが多いんだよ…って」 七分目ほど酒が注がれたままの杯の飲み口に、一滴の水が落下し、側面をつたって畳に吸い込まれていった。 「それを聴いてさ、俺、成政が言ってたことの意味が解った気がしたんだ。家業だから仕方なく継いでるんじゃなくて、家業以外の仕事で相手にされないから、人に避けられる仕事でも、家業を継ぐしかないんだ、って。…少なくとも、あいつは、そう感じていたんじゃないかって…」 「…そう、ですか…」 「…清四郎。俺は成政を殺した野郎を探そうと思う。…けど、みんなには黙っておいて欲しい。世の中のためなんかじゃなく、俺の勝手な弔い合戦だから」 魅録はそれだけを言葉にした後、硬く口を引き結んで黙り込む。 少しの静寂の後、清四郎が大きく息を吐き出した。 「…わかりました。誰にも言いません。でも、成政殿は『僕の』友人でもあるんです。弔い合戦には僕も加わりますからね」 ―― かくして、清四郎と魅録による、弔い合戦の火蓋が切られる事とあいなったのである ―― 時代劇部屋 |