大江戸有閑倶楽部事件帖
銀の虎  〜遺言編〜 作:千尋様




成政の形見として残されたからくり箱は、半時(はんとき=約一時間)ほどかかったものの、案外容易く 開けることができた。
半分だけ開けられていた丸い障子窓を、魅録はすべて開ききった。
晧々(こうこう)とした月の光が差し込み、室内をやわらかく照らす。
その月明かりに透かすようにして、清四郎と魅録は、箱の中を確かめた。
一服の薬包と、黒い染みが点々と浮き出ている小柄、そして、文だと思われる紙が、中に入っていた。
文には、藍色の組紐が巻きつけられており、虎を模したらしい根付(ねつけ)を使い、紐は止められていた。

魅録が、緊張した手つきで、文を手に取る。
「この根付…。見たことがあると思ったら…。俺が作って、あいつにやったもんだ…。寅年生まれの成政の、お守り代わりになればいいと思って…」
「銀細工ですよ? この虎。なのに魅録が作ったんですか?」
「ああ。父上が密偵で使ってる男に、九平次ってやつがいるんだけどさ。そいつ、普段は飾り職人やってるんだよ。その九平次に俺、銀細工教えてもらったからさ。簡単なヤツなら作れるんだ。…お前にも何か作ってやろうか?」
「…いえ。僕は、この虎の根付をもらいますから。…寅年生まれじゃないですけど、成政殿の形見代わりに…。…その代わりって言うのも変ですけど、からくり箱は、魅録が形見分けで持っていってください」
「…そっか…。ありがとな…」
小さな、両手で包み込んでしまえる大きさの箱を、魅録は強く握り締めた。

清四郎はただ無言のまま、少しだけ笑い顔を作る。
それから、目の前にある薬包紙を手に取って、几帳面に開いていく。
一方の魅録も、文を手に取って、慎重に紐を解いていく。
少しの沈黙が、訪れる。

「……!!」

手中の、それぞれの紙を、無表情のまま扱っていた二人の顔が、一変する。
「…清四郎。…これ、あいつの…成政の、書置きだ…」
見方によっては笑顔にも見える、哀しみの表情ではあったが、魅録の瞳には揺ぎ無い憤りの色がにじみ出ていた。
魅録が、文を広げたままにして、隣に差し出す。
険しい目つきになって、何かを考え込んでいた様子の清四郎が、顔を上げる。
表情を取り繕う事もせず、清四郎は無言のまま、それを受け取る。
今まで調べていた薬を、元通りに包み直す。
そして改めて、魅録に手渡されたその書置きに、清四郎は静かに目を通した。

『俺は多分、殺られる』

殺られる、という言葉から唐突に始まる成政の書置きに、清四郎は息を呑んだ。
『俺は多分、殺られる。殺られてしまった時のために、この箱と文を、残しておく。この箱を、俺じゃない誰かが開けるとしたら、それは、俺が死んでしまった時だけだろう。俺の亡き後、この箱を開ける者なんて、誰もいないかもしれない。俺が、小田成政という男が、この世から消えてしまった事すら、気付いてもらえないかもしれない。だが、もし、この箱に気付いてこの箱を、開けた者がいたなら。どうか、お願いする。兄を、小田宗政を救って欲しい』

おそらく、書置きの続きを書くことを成政は躊躇したのであろう。
小田宗政を救って欲しい、という文面の、「い」の文字の墨が滲んでいる事に、清四郎は気付いた。

小田成政の家は、苗字帯刀を許されているとはいえ、身分は浪人にあたっていた。
代々将軍家の刀の試し斬りを行う事が、小田家の仕事であり、また『小田政右衛門』の名を襲名したものが、代々の当主となっていた。
つまり、『小田政右衛門』は世襲名であると同時に、小田家家業を象徴する名でもあった。

家業が将軍家の刀の試し斬り、といえば、聞こえはいいかもしれない。
だが、刀の試し斬りに使うのは大抵の場合、人の死体であった。
さらに、小田家当主は、罪人の処刑を手掛けることも行ってきていた。
なおかつ、『小田政右衛門』にはその家業故の通称があった。

『人斬り政右衛門』、もしくは『首斬り政右衛門』というのがそれである。

そして、そんな特殊な事情の家の次男として、小田成政は生まれた。
その事に思いをはせながら、清四郎は、長い長い成政の書置きの続きを、読み進めて行った。

『小田政右衛門、という浪人がいる。「人斬り政右衛門」だの、「首斬り政右衛門」だの、世間では呼んでいるから、そっちの方が解りやすいと思う。兄と俺の、本当の父親だ。小田の家は、世間から避けられている。まず、その事を解って欲しい。この先は、俺の頼みを聞き入れてくれる者だけが読んでくれればいい。小田の家の者に拘りたくないのならば、この箱と文はなかったものとして、処分してくれて構わない』

処分してくれて、構わない。
墨をにじませる事なく、一筆で一気に書かれていた、その最後の2文字は、かすれて僅かに読み取れる程度だった。

『この先を読んでいる者がいるとは思えないが、もし、いたとしたら、そいつは、よっぽどの物好きだな。俺のたった二人の、大事な友人たちと気が合うかもしれない。それとも、その友人たちが読んでるのだろうか。読んでくれていれば、いい。だが、期待は、しないでおこうと思う』

いままでずっと、険しい目をしていた清四郎が、淋しそうに微笑する。
『最初にも書いたが、俺の願いは、ただ一つだ。俺は、兄を救いたい。嫌われ者ばかりの小田家だが、それでも、家業に協力する人間は少なからずいる。利助という男も、その中の一人だ。利助は、俺と兄の従兄弟にあたる。俺の父は養子縁組で、政右衛門の名を継いだ。その父の妹の子供が利助だ。理由は解らないが、利助は、兄を陥れようとしている』

月は少しずつ、その場所を変えていた。
月明かりはもう、ほとんど差し込まなくなっていた。
清四郎は行灯の明かりを頼りに、その先を読み進めて行った。



いつの間にか、風は止んでいた。
夜のしじまに浮かんだ月が、丹後守役宅内の男達の姿を見守っていた。

ただ俯いて、呑み手のいない杯を見詰め続けている男が、一人。
ただ黙って、友人の残した言葉を汲み取っていく男が、一人。
ただひたすらに、伝えたい言葉を綴った男が、一人。

ただそこで、語り合う男達が、三人、いた。

『利助が不信な行動を取り始めたのは、父が隠居を考え始め、兄の襲名を内々で決めた頃辺りからだった。襲名が決まってからの兄は、その準備に追われ、寝る間も惜しむように動き回っていた。利助は、寝不足になっていた兄に、よく眠れる薬だといって、この箱に入れておいた薬を手渡すようになった。実際、兄はぐっすり眠れたようだ。兄の方から、利助に薬をねだるようになった。そんな日がしばらく続いていた、ある日のことだ。その日、俺は、久しぶりに、友人の一人と話をしていた』

清四郎は、さりげなく、魅録に目を向ける。
魅録は何かを語りかけるかのように、成政の分の杯の飲み口を、ゆっくりと指でなぞっている。
成政の綴った言葉に、清四郎は目を戻した。

『俺はその晩、友人に会えた事が嬉しくて、なかなか寝付く事が出来なかった。俺は、中庭へ出た。中庭からは兄の部屋が見える。その部屋の障子の隙間から兄の顔が見えた。明け六つ(=午前六時頃)の鐘が、そろそろ鳴り響く時刻になっても、俺はまだ、中庭にいた。俺が室内に戻ろうとしたその時、兄の部屋から出て行く利助を見た。しきりと一目を気にしている様子が異常だった。俺は思わず、姿を隠した。利助は、気付いていないようだった。利助が立ち去った後、俺はそっと、兄の部屋へ入った。兄はぐっすりと眠っていた。無造作に兄の刀が置かれていた。刀の鞘に、血に染まった黄八丈の切れ布が、引っかかっていた。その時はまだ、その細工の意味が解らなかった。だが、利助がやったのだという事は、検討がついた。嫌な予感がして俺は、その血染めの布を兄の部屋から持ち去った。その日の夕刻、辻斬りに殺された番頭の遺体を、俺は見た。黄八丈の着物を着ていた』

これから探し出そうとしている、辻斬り犯の手掛かりを、成政は書置きとして残していた。
清四郎は、逸る気持ちを抑える事が出来なかった。

『利助だと、思った。利助が、自分の犯した罪を、兄に着せようとしているのだと、俺は思った。俺は利助をそっと呼び出して、血染めの布を見せた。利助に理由を、問い質した。利助は、兄の部屋には入っていないと、言い続けた。それどころか、辻斬りの下手人は、兄に違いないとまで、言い切った。そして、布を俺から取り上げ、何事もなかったかのように立ち去って行った。こんな話は、信じてもらえないかもしれない。でも、俺は、番頭が斬られたその時間、部屋に兄がいたことを知っている。俺が、中庭にいた間ずっと、兄は部屋から一度も出てこなかった。本当だ。信じて欲しい』

成政が嘘をつかなければならない理由など、何処にもなかった。
そして、小田成政という男の心根を、二人の男は、知りすぎるほど知っていた。
書置きに添えていた清四郎の右手に力がこもり、紙に細かな皺がよった。

『俺は、利助に罪を贖わせなければならないと思った。だから、証拠を抑えようと、利助の行動を見張った。俺の家の仕事は、刀剣を扱う。そして、小田の家の関係者のほとんどが、刀剣について学び、刀剣の扱い方を習得している。だから利助も、刀を扱える。利助を見張り始めてから、四日程すぎた頃だった。利助が、また、人を斬った。春をひさいで生きていた娘、だった』

春をひさいで生きていた娘。
成政殿らしい言い方だ、と清四郎はふと、思った。
清四郎は何故か、淋しい気持ちでいっぱいになった。
気を取り直すように、咳払いをして、清四郎はさらに読み進めていった。

『俺は、利助が娘を斬る瞬間をおさえた。娘は即死していた。俺は、その場から立ち去ろうとしていた利助に詰め寄った。俺に人斬りの現場を見られたことを知って、利助は、生きた人を斬っていた事を認めた。だが、利助は人斬りは止めない、と言った。利助が再び、刀を抜いた。俺も、刀を抜くしかなかった。少しの間、鍔迫り合いになった。後方で誰かが悲鳴をあげた。利助は、それを聞いて逃げて行った。俺の足元に、俺の物ではない、小柄が落ちていた。小柄には血飛沫が飛び散っていた。見覚えのある利助の小柄だった。この箱に入れておいた小柄が、それだ』

清四郎は、一瞬だけ小柄に目を向けたが、また、すぐに、書置きへと戻っていった。

『その日を最後に、利助は俺の前から、いや、小田の家から姿を消した。利助が姿を消した理由を知っているのは、俺だけだ。父も、兄も、この事に関しては何も知らない。だが、利助はまた、兄に罪を着せようとして、罪なき者を斬るに違いない。そして、利助に俺は、斬られてしまうだろう。利助は、ただ人斬りを楽しんでいる。刀に、捕り憑かれでいる。刀の闇の魅力に、囚われている者を諌めらめる程の力量を、俺は、もっていない。だが、俺は、利助を止めなければならない』

利助を止めなければならない。
どんな気持ちで、成政はこの言葉を綴ったのだろう。
成政の、悲壮なまでの決意を、清四郎は感じた。
成政は免許皆伝には、達していなかった。
だがそれでも、この先生きていれば、免許皆伝は確実と言われる程の剣の腕前を、成政は持っていた。
そして、そんな男を、利助なる男は斬り捨てている。
清四郎の目が、据わった。

『この事だけが、俺の願いのすべてだ。そして、もう一つだけ、頼みがある。箱の中に根付の虎があったと思う。これは、俺の大事な友人の一人が作ってくれた、俺の命より大事なお守りだ。もし、何も出来ないまま俺が死んだ時、誰かに俺の意思を解って、継いでもらいたいと思った。だから、一緒に箱に入れた。よければ、虎も連れて行って欲しい』

根付の虎を、清四郎は指でなぞった。
虎を右の掌にのせると、清四郎は、虎を強く握り締める。

『でも、もし、虎をくれたやつに、お守りを他人に渡したことが知れたら、俺は怒られるかもしれないな。やつに怒られたくはないから、虎を連れて行く時は、こっそりと頼む。俺の勝手なわがままばかりだが、もう一度、頼む。利助を止めてくれ。人斬りで苦しむ者を、これ以上増やさないでくれ。お願いだ』
 
ゆっくりと、丁寧に書置きをたたみ直して、清四郎は深く息を吐く。
銀の虎は、清四郎の右の掌中で眠っている。
はっきりとした揺るぎのない瞳で、清四郎は、虎と目の前にいる魅録をじっと、見詰めた。









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