大江戸有閑倶楽部事件帖
銀の虎  〜疾走編〜 作:千尋様




清四郎が声をかける前に、魅録が、顔を上げる。
「…利助を捕えるにはどうしたらいいと思う、清四郎?」
左手で薬包を持ち上げて、清四郎が重そうに口を開く。
「簡単に調べただけなので、必ずしもそれだ、とは言い切れませんが。この薬、眠り薬なのは確かなんです。ですが、薬に阿片を混ぜ込んでいるようなんです…」

魅録の瞳が、僅かに曇る。
「混ぜ込まれた阿片の量は、ごく僅かです。何度か飲んだとしても、病み付きになる心配はない。それくらいの少ない量を混ぜてあるんです。 この薬を使って、人を病み付かせるためには、少なくとも三月(みつき)は必要です。三月以内なら、まだ、自分の意思で止められる。それくらいの阿片の量です」
「だったら、まだ、成政の兄貴は間に合うよな? まだ薬に手を付けてから、多分三月もたってない筈だ」
少しだけ、魅録の瞳の曇りが薄れる。

「ええ。成政殿の兄殿、宗政殿は、心配要らないと思います。たとえ、利助の薬が手に入らなくなったとしても、諦めのつく段階です。…宗政殿にしてみれば、仕方なく諦めるんでしょうけど」
「なあ…、宗政っていう兄貴だけどな。利助を探してまで、薬を手に入れようとする。そんな状態じゃないと思ってて、いいんだよな?」
「ええ。その心配もないと思います。宗政殿がもし、後戻り出来ないほど、薬の虜になっていたとすれば、利助の出奔後、薬を欲して宗政殿の様子がおかしくなるはすですから。利助が出奔して、宗政殿の様子がおかしくなった、とは成政殿も書き残していないでしょう?」
「…だな。利助の出奔で、兄貴がおかしくなれば、成政も気付いて、必ず書き残すに違いないよな。いつも以上に、兄貴と利助のことを見てただろうし」

清四郎が、小柄を懐紙で掴んで、包み込む。
懐紙で包まれたそれを魅録に見せて、清四郎が笑顔を作る。
「納得しました? じゃ、これ預かっていきますから。小柄をじっくり調べたいのは山々なんですが、そうもしてられないんです。これから、魅録に一働きしてもらわないといけないんですよ。もう子の刻(=午前0時頃)もすぎましたし、急がないと」
「俺に、何しろって言うんだよ? 盗みにでも入れってか?」
「ちゃんとわかってるじゃないですか、魅録。そうですよ? その、盗みです。今から魅録は義賊になってください。成政殿の実家から、利助の薬を探して盗み出して来て欲しいんです。宗政殿がまだ持っているかもしれないのでね。処分は、早いにこした事はないですから」
子供にも出来る難という事のないお使いだ、とでも言いたげな口調で、清四郎が言った。

「おまえ、今、すごく簡単なことみたいな言い方しやがったな。…わかったよ。一働き、してくればいいんだな…」
魅録が清四郎を軽く睨む。
「で、清四郎さんよ。おまえさんのほうは、これからどうするんだよ? まさかとは思うが、俺だけ、働かせる気なのか?」
「まさか。僕はこれから、秀月さんのところへ行って、薬の出所を調べるつもりです。この薬、薬学の心得がないものには、絶対作れませんから。僕の知る限り、薬学で彼に並ぶ人物はいません。彼は、その知識を深める為に、自分以外の人の作った薬を、ひたすらに集めてるんです。ですから、この薬包を作った人物を、秀月さんは知っている可能性があるんです。まったく同じに見える薬でも、薬の作り手によって、その包み方や選ぶ紙質は、全然違ってくるんですよ」
魅録の視線を軽く受け流して、清四郎が笑った。
それから、その表情を引き締めて、清四郎はゆっくりと言葉を発した。

「ですから。その辺りを調べていけば、利助を探し出せる筈です」
魅録が苦笑しながら言った。
「秀月さんて、確か、菊正宗の御典医殿の弟子の町医者さんだっけ? …おまえさんのことだ。こっちの腹は見せないで、知りたい事だけしっかり、その人に聞くんだろ?」

清四郎の返事を聞こうともせず、魅録は立ち上がる。
右手で清四郎を軽く指差して、魅録は、先程とは違った笑顔を浮かべる。
それは、まさに、悪戯を思いついた子供そのものの表情だった。
「じゃあ、ちょっくら行ってくるわな。…どじ踏むなよ」
「そっちこそ。捕まるような莫迦な真似、しないでくださいね」
清四郎が不適な笑みを浮かべて片目をつむる。

それから間もなく、二人の男達が闇の中を駆け抜けて行った。
白く闇に浮かんだ月だけが、それを、見ていた。








決戦編
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