銀の虎 〜決戦編〜 作:千尋様 |
二人の男達が駆け抜けて行った、あの晩から数えて三日目の夜。 その夜も、月は出ていた。 少し欠けて三日月形になってはたものの、月光はやさしく闇を包み込んでいた。 冷たい風が、吹き始める。 風で雲が流れて、月を隠す。 吹く風が、次々と叢雲(むらくも)を作り出す。 そして、辺りは暗闇に覆われた。 風は、止まない。 闇は、さらに濃く深くなっていく。 どこかで、木戸の開く音が僅かに響いた。 大川の河岸の渡し、船着場の一隅に、今はもう誰も使用する事のない掘立て小屋があった。 かつては物置小屋として使われていたらしく、縄や棹がいくつか転がったままになっていた。 その小屋から、一人の男が、顔を覗かせた。 辺りをはばかる事なく、悠々と歩いて、男は小屋を後にする。 腰に、大刀を帯びていた。 男が、船着場を出て、河岸近くにかかる吾妻橋を渡リ始めた、ちょうどその時だった。 「利助だな? 俺は、あんたを探してたんだぜ?」 誰かに、声をかけられた。 男が辺りを見回す。 吾妻橋の向こうから、ほんの僅かではあったものの、人が立っている気配が漂ってくる。 「まったく。何かしらの返事は、返してくださいよ。こっちは、わざわざあなたを、…利助なる男を探して、訊ねてきたんですからね。…しかし、こんな所に潜んでたんですね…。おかげで、居場所を突き止めるのに、探し始めてから三日も、かかってしまいましたよ」 先程とは別の誰かが、再び、男に話し掛けてくる。 「…おまえらは、だれだ? …なぜ、おれを、探して、きたんだ? …なぜ、おまえらは、おれの名が利助だと、知っているんだっ!」 大刀に右手をかけて、男が、…利助が叫んだ。 「小田成政、っていう男を、あんた、知ってるだろ?」 「…あなたが、斬り捨てた男です。知らない、とは、言わせませんよ。」 人の動く気配を、利助は感じ取った。 二人の男が、橋を渡り始めたのだと、気付く。 旋風が、利助の足元をすり抜けていった。 月にかかった叢雲が、風に流されていく。 白く輝く月の光が、少しずつ、闇をかき消していく。 「成政殿は、僕達の大事な、かけがえのない友人です。あなたを探してきたのは、その成政殿に、頼まれたからです。利助を探して、止めて欲しいって」 「たとえ、成政の頼みがなくても、俺達は、成政や罪なき人を斬ったあんたの事が、許せなかった。だから、あんたを探した。あんたと、あんたのやった悪事のことは、全部、成政に教えてもらったよ。…あいつが残した形見の中にあった、書置きでな…」 風は、いつしかやんでいた。 月光が、ただ静かに降り注いでいた。 月明かりが、橋の中央に立つ二人の男達の姿を浮かび上がらせる。 深い決意をたたえたような、鋭い目をした男。 揺ぎ無い漆黒の瞳に、強い意思を感じさせる男。 二人の男達が、一歩、また、一歩と、少しずつ利助との間合いを詰めて行く。 「おれを探していた、そのわけは解った。…だが、どうして、ここにおれがいると解ったんだ?」 利助は右手でしっかりと、刀の柄を握り締める。 「あなたが、成政殿の兄の宗政殿に渡していた薬。あの薬を作った人物を、最初に、僕達は探したんです。そして、薬の作り手を、僕達は見つけ出しました。あとはその人の周りを、とにかく調べ回って、やっと、この場所に、あなたがいることを突き止めたんです。それが今朝の事です」 漆黒の瞳の男―、清四郎が言った。 鋭い目の男―、魅録が、清四郎の言葉を継ぐ。 「こいつの知り合いの町医者が、あらゆる薬を集めてるらしくてさ。その町医者が、作り手を3人まで絞り込んでくれたんだよ。その中でも、かなりあやしかったのが、賭け事で身を持ち崩した薬種問屋の息子の喜八って男で。まずそいつから探ってみれば、大当たりってわけさ」 清四郎が、大刀の柄に右手を添える。 柄頭の先には、件の、根付の銀の虎が、括りつけられていた。 「…あなた、その喜八さんまで斬り捨ててるんですね? 喜八さんのことを訊いた時、知人の医者が言ったんですよ。そいつは辻斬りに遭って死んだ、って」 柄をしっかりと握り締め、清四郎が一語一語、ゆっくりと言葉にしていく。 「どうして、喜八さんまで斬ったんです? 喜八さんは、協力者では、なかったんですか? 喜八が協力者でないのなら、あの薬を何故、宗政殿に飲ませていたんですか?」 利助が、口先だけを歪ませて笑った。 「喜八は、協力者でも何でもない。…ただの、捨て駒だ。…もう使う事のない駒だから、処分した。…それだけの、ことだ。宗政に薬を与えたのは、別に、あいつを阿片づけの病み付き者にしてやろうと、思ったからじゃない。宗政本人に、辻斬り犯は宗政自身なのだと思い込ませてやりたくて、仕組んだ事だ。…知ってのとおり、失敗したがな」 大刀の柄に手を添えて、魅録が少しずつ、利助の脇へと移動する。 利助は目だけで、その姿を追いかける。 「なんて名前なのか、おれは知らないが、世間には、ゆめうつつのまま歩き回る、って病いがあるらしいな。その病にかかって、おのれでも気付かないうちに人を斬っていたと、宗政が思い込むよう、おれは、そう仕向ける気でいた。そうしておいて、やつをおれの隠れ蓑代わりにしてやろうと思ったのさ。…やつほど最適な隠れ蓑は、まずないからな。隠れ蓑になれるやつなら、誰でもよかったんだよ」 利助が、狂ったような高笑いをあげた。 「そうさ。成政のやつでも、別にかまわなかったんだよ。世間さえ納得する下手人なら、それこそ、誰でもな」 魅録が柄を強く握り締める。 柄を握り締めた右手は、細かく震えていた。 「…てめえ…」 銀の虎を掌中に包み込みながら、清四郎が柄を強く握り直す。 「…そうやって、あなたが、笑っていられるのも、今のうちだけです。あなたは、もう、逃げられないんですよ」 利助が嘲笑する。 「おまえら二人だけで、何が出来るって言うんだ、えっ? おれを探し出した事は認めてやるがな」 清四郎が姿勢を正す。 「二人だけですけどね。それでも、僕達は場数をかなり踏んで来てるんですよ。あなたが思う以上に」 魅録の瞳が据わる。 「てめえが、兄貴の方に渡してた薬な。あれの残り、兄貴の持ってた分の薬は全部、俺達が証拠として預かったからな」 清四郎が、笑う。 「先程から気になってたんですが、あなた、小柄はどうしたんです?」 利助が、おのれの鞘に目を向ける。 鞘の外側、小柄が収まるべきその場所が、空いていた。 清四郎が一歩歩み寄る。 「使わないから、はずした? そんなはず、ないですよね? 小さいとはいえ、あれは刀物ですから。雑用に結構役立ちますよね? …僕、今、一つ余計に小柄を、持ってるんですよ。 何なら、それ、差し上げましょうか? …あつらえたように、綺麗にはまると、いいんですが…」 右手を離すことなく、清四郎が左手で懐を探り始める。 懐紙に包まれたモノを、そのまま利助に放り投げる。 「……?」 訝しげな様子で、利助はそれを受け取り、懐紙を開いた。 月明かりが、懐紙のなかのそれを照らす。 「……!!」 清四郎が、再び、笑った。 「成政殿が持ってたんです。…もちろん、誰のものか、解りますよね?」 「…俺達は、てめえを、決して、逃がさねえ。…決して、許さねえ。利助っ! てめえは何で、人を斬ったっ!!」 魅録が一歩足を引いて、腰を落とした。 利助が、再び、高らかに笑う。 「…おもしろい。おもしろいぞ。おまえら。…何で斬ったか、だと? 笑わせるな」 笑いをこらえようともせず、利助は小声をたてて笑い続ける。 「人斬りに『わけ』なんてもんは、これっぽっちも、ないんだよ。生身の人を、おれは、心の底から斬りたかった。だから、斬った。そして、おれが思った以上に、人斬りは愉快なものだった。…こんな愉快で仕方ないこと、誰が止めるもんかっ!」 利助が、言い終わると同時に、刀を抜いた。 抜刀の構えを見せている魅録に、まず、利助は斬りかかって行った。 魅録の間合いの中に、利助が入り込んでくる寸前を狙って、魅録が、鞘から刀を抜き放つ。 刀の、鎬(しのぎ)同士が激しくぶつかり合う。 魅録が、利助の刀を受け流す。 利助が、再び斬りかかる。 それをかわして、魅録がまた、受け流す。 利助が、一歩退く。 二人の距離が、遠くなる。 「…どうした? かかって、来ないのかよ」 右手だけで柄を握って、正眼の構えをとった魅録が、笑った。 「それとも、僕の方を、相手にしますか?」 魅録の隣に、清四郎が、移動する。 音もなく、静かに、清四郎は、刀を鞘から抜いた。 やはり右手のみで柄を持ち、刀が地面と平行になる形で身構える。 利助を挑発するかのごとく、清四郎が微笑する。 「…さあ、どうします?」 利助が、一瞬、柄を強く握った。 「おまえらっ! まとめてぶった斬ってやるっ!」 魅録と清四郎、二人の男達の間合いに、利助が飛び込んでくる。 その刹那、夜空に浮かぶ三日月の弧をなぞるように、白刃は返され、そして戻された。 刀を軽く振り下ろして、鞘に収める。 それから、二人の男達は目を見交わしあった。 峰打ちによって気絶している利助を、魅録が荒縄で縛り上げる。 吾妻橋の欄干近くに転がり落ちていた小柄を、再び、清四郎は懐紙で包み込む。 懐紙で包まれたそれを、左袖の袂にしまって、清四郎が、根付の虎を、見詰めた。 「人を斬っている以上、死罪は免れないでしょうが…。こうして、欲しかったんですよね?」 魅録が、そっと、呟く。 「…これで、いいんだよな…。成政…」 橋の上で、二人の男達が、月を、見上げる。 銀の虎が、月明かりに光って、揺れた。 時代劇部屋 |