大江戸有閑倶楽部事件帖
契りの桜 一 作:かめお様




「星の数ほど男はあれど、月と見るのはぬしばかり…か…」
混濁する意識の中、悠理は一人の男の顔を思い浮かべていた。
意地悪そうな黒い目。
だが、それは秘めた情熱を含む目。
ふと、悠理の目の前で、桜の花びらが散る。
激しい痛みは体の痛みか、心の痛みか…
悠理にはそれすらもわからなくなっていた…



「契りの桜」




その日、剣菱悠理は、吉原一の花魁、東雲太夫の膝でまどろんでいた。
吉原に居続けて、はや、五日が経とうとしている。
根岸の寮から飛び出て、吉原に逃げ込んだ。
剣菱の名があるゆえ、手元に金がなくても行く場所に困らない。
わざわざ、吉原を選んだのは、気持ちが落ち着くまで仲間に知られたくないことと、また、清四郎に対する意趣返しの気持ちもあった。
いずれ、大和楼から剣菱屋に使いが行けば居場所は知れる。
だが、それまでの数日、一人になりたかったのだ。
いや、一人ではなかった。
それこそ、吉原中の太夫が競って悠理の側に侍りたがった。
ある意味、悠理は江戸でも知られた娘だったのだ。
女だてらに剣術を習い、また、若衆姿も許されている。
いくら家が豪商とはいえ、町人にそれが許されるのは、後ろ盾がよほどに大きいと誰もが感じた。
只者ではない、江戸一番の豪商の娘、それも見目麗しいとなれば、女であろうが太夫達にとっては夢の若さまである。
まして、女同士ならば、己が身を使うこともない。
飲めや歌えと時を費やし、ほんの少し悪戯心で肌に触れ合う。
捨てられた子犬のような顔をした悠理。
太夫らは、そんな悠理の傷を埋めるように、献身的なもてなしをする。
悠理は、その献身に溺れた。

飛び出した日…
悠理は、清四郎と言い争いになった。
数日前、悠理は清四郎が武家の娘と、剣菱屋が商う呉服屋に立ち寄ったところに出くわした。
清四郎からは、親の義理で断れない見合いがあると聞いていたので、そのことで驚いたりはしない。
ただ、その女が悠理を見るなりあからさまに馬鹿にした顔をし、聞こえよがしに、
「噂には聞いていましたが、ほんとうに惚れ惚れする若衆姿ですのね。ほんとうの男みたい」
と、いささか剣を含んだ声音で言った。
女は、悠理と清四郎が只ならぬ仲だと、どこからか耳にしていたらしい。
悠理は苦笑したが、その女に一瞥をくれただけで引き下がろうとした。
「清四郎さま。わたくし、あなたが側女を置いても焼きもちなど焼きませんわ。わたくしは成金の豪商のような身分卑しい女と張り合うほど、心が狭くないつもりですもの」
悠理が振り向くと、女は悪意のこもった笑みを浮かべ、
「母親は女中だったのですってね、あなた」
と、笑った。
女の言葉が悠理には感に障った。
思わず、懐の懐剣を手にしようとした時、
「悠理」
と、清四郎が叫んだ。
「千春様、戻りましょう。お父上が心配いたしますよ」
清四郎は、女の背に手をやり、ぐいっと引き寄せ、店を出た。
悠理は顔を真っ赤にし、怒りに震えた。
奉公人の手前、店では悠理はそれで我慢をしたが、根岸の寮で怒りを爆発させた。
清四郎は、悠理をなだめるように、
「あんな女の言うことをいちいち真に受けてどうするんです」
「お前、あたいはな店のものの前で馬鹿にされたんだぞ。かあちゃんのことを女中あがり呼ばわりされて…」
「…だからといって、あそこで葵の御紋を見せびらかしてどうするんです。あんな女に使うためにいただいたものじゃないでしょう」
清四郎の言葉が正論なのは悠理にもわかっている。
だが、その日は虫の居所が悪かった。
「…あたいを側女呼ばわりしやがって。あの女の屋敷を教えろ。ぶん殴ってやる」
「なに馬鹿いってるんですか…相手はご大身の御息女ですよ。剣菱屋に迷惑がかかります」
「あたいにはこれがあるから、大丈夫だ」
悠理は懐剣を付き出した。
清四郎は、それを取り上げると、怒ったように、
「悠理。これは、そんな些細なことに使うためのものじゃないと言っているでしょう。くだらないことを考えるのはやめなさい」
「くだらないだと!あたいには大事なことだ」
「悠理、お前はいささか図に乗っているようですね。上様がお前にこれをくださったのは、お前を守るためでしょう。葵の御紋を振りかざして虚勢を張るなんて、あの女が家柄を盾にするのと同じことですよ」
清四郎にぴしりと言われ、悠理はかっと顔に火がついたようになった。
そうだ清四郎は正しい。
だけど…
悠理は、溢れ出る涙を拭いながら、根岸の寮を跳び出した。

「東雲太夫はどうした」
身分の高そうな若侍が、禿に声を荒げた。
「へえ。いま、太夫はさるお方のお呼びで出ておりまして…今宵は無理かと」
太鼓持ちが取りなすが、若侍はますます怒り、杯を投げつけた。
太鼓持ちの額にそれが当たり、禿の顔色が変った。
「若さま」
お付きの侍が、外から声をかける。
「太夫は、いま剣菱屋の座敷に呼ばれているそうです」
「何、剣菱屋だと」
若侍は、顔を真っ赤にし、
「ここでは、秋月の嫡男を蔑ろにするのか」
若侍は、ふらふらと立ち上がると、膳を蹴り、
「佐竹、井村、来い」
と、家臣の侍を引き連れ、廊下へ出た。
「お客さま、困ります」
大和楼のものが止めにはいったが、彼らはそれを蹴散らすように東雲太夫の部屋に押し入った。
「なんだ、お前は」
東雲太夫の膝枕で横になる悠理が、眉を上げて若侍を見た。
「…町人のくせに、その成はなんだ」
若侍が悠理の前の膳を蹴った。
「何するんだ」
悠理が気色ばむのを、東雲太夫が庇うように、
「これは若さま。名家の若さまが吉原でこのような無粋なこと、お名に関わるでありんす」
「なにっ」
若侍が脇差を抜く。
「吉原で、刃傷沙汰をなさるおつもりでありんすか」
「抜け、町人」
悠理がふらりと立ち上がって、
「町人だ武士だって、なんだお前。馬鹿じゃないのか」
と鼻で笑った。
「何を」
「この無礼者」
家臣の侍も刀を抜いた。
悠理は、東雲太夫を下がらせ、鉄扇を手にすると、
「どっからでも、来い」
と、笑った。
家臣の侍達は悠理に飛びかかったが、いとも簡単に鉄扇で叩き伏せられた。
「こしゃくな…」
若侍は、顔を真っ赤にし、悠理に斬りかかった。
悠理はその相手も難なく鉄扇で打ち据えた。
「ううう」
若侍が口惜しそうに悠理を睨みつける。
「お嬢様、お怪我はございませんか」
大和楼の主人が店のものを引き連れはいってきた。
「…お嬢様だと」
若侍が、悠理を見て目をむいた。
「若さま…このようなことがお父上に知れれば一大事…ここは大人しくお帰りなさいませ」
主人は有無を言わせぬように若侍にぴしりと言い、店のものが痛みでうずくまっている三人を抱えるように出ていった。
駕籠で屋敷まで送り届けるのだろう。
「何だ、あいつは…どこの侍だ」
「お名はご勘弁下さいまし…それよりもご迷惑をおかけいたしました。お詫びに、お嬢様のお好きなものをたんとご用意いたします」
「え、ほんと」
悠理が、舌なめずりをした。
「お前も大変だな。あんな馬鹿を相手にしなくちゃなんなくて」
悠理の言葉に東雲太夫は苦笑し、
「ほんに、お嬢様のようなお方ばかりならよろしいのですわいな」
そう言うと、また悠理にそっと寄り添った。

剣菱屋の母屋の居間に、菊正崇清四郎は苦虫を噛潰したような顔で座っていた。
役者の美童太夫、白鹿野梨子、黄桜可憐が彼を遠巻きにするように隣の部屋から見つめている。
悠理が根岸の寮から飛び出して、早五日が経とうとしている。
清四郎はあれ以来、根岸と日本橋の剣菱屋を行ったり来たりで、家にも戻っていない。
ほとんど眠っていないのだろう。
清四郎ははた目から見ても憔悴していた。
はあと溜め息をつき、こめかみを押さえる様も痛々しい。
「清四郎」
松竹梅魅録が、居間へ駆け込んできた。
「見つけたぞ」
「え、どこで」
「ほんとうですの」
可憐と野梨子が同時に叫んだ。
魅録は苦笑を浮かべながら、
「何処だと思う」
「魅録、こんなときに冗談めかしている場合じゃないでしょ」
美童が嗜めるように言う。
魅録は、首をすくめて、
「吉原」
「よ、吉原?」
「ああ、あいつ、吉原で花魁侍らせて居続けしてたんだ」
「お、花魁?」
可憐たちが顔を見合わせる。
「まさか、女の悠理が吉原に居るなんて思わねえだろ。それに、店のものも悠理のことは他言無用にしていたらしい。見つけるのに手間取っちまった」
「…魅録、吉原の、どこにいるんですか」
清四郎が無表情のまま、魅録に問いかけた。
可憐と野梨子の顔色が変った。
こういう時、彼は非常に怒っているのだ。
「これから案内するよ」
「いえ、僕がひとりで行きます」
「…それは駄目だ。お前、何するかわかんないだろ」
魅録の言葉に清四郎は唇を噛みしめた。
悠理の我が侭で、みなに心配をかけているのだ。
いや、それよりも、これほど自分に心配をかけておきながら、吉原でお大尽遊びとは…
清四郎は、むかむかとする胸の内を魅録に見透かされたかのようで、顔に血が上った。
「…わかりました。行きましょうか」
「僕も行くよ」
「わたくしたちも…」
野梨子が口にした時、美童が振り返り、
「場所が場所だけに、野梨子や可憐は行かない方がいいよ。大丈夫、ここで待っていて」
と、片目を瞑った。
取り残された女二人は、座り直すと、お茶を口にした。
「…あんな清四郎、初めて見ましたわ」
「…悠理は、何だかんだ言っても愛されているのよ」
「そうですわね…」
「あの子は自覚がないのよ。自分がいかに幸せなのかって…」
「…ええ、清四郎も大変ですわ」
「あの二人には幸せになって欲しいのよ…祝福されて、結ばれて欲しいの」
可憐の言葉には、どこか切羽詰まったものがあるように野梨子には感じられた。
「…可憐?」
「みんな大人になればこうしていつでも会えるわけじゃないもの…でも、あの二人が夫婦になったら、子供でも連れて集まれるじゃない。ねえ」
そう言って可憐は笑った。
野梨子は、その笑みが美しいが、悲しげに見えた。








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