契りの桜 二 作:かめお様 |
大和楼に乗り込んだ三人は主人を呼び出した。 剣菱屋の女将、百合子の命を受けてきたと言えば、さすがの主人も悠理のことを内緒にはしておけない。 仕方がないという表情で、東雲太夫の部屋を教えた。 がらりと障子を開けると、太夫と悠理がふざけ合うように絡み合っていた。 悠理の胸元が開け、赤い紅がいくつか散っている。 その痴態を見た途端、清四郎は切れた。 「な、なんだ、お前ら」 悠理が慌てて胸元を合わせた。 清四郎は、魅録が止める間もなく悠理に近づき、その頬を張った。 「何するんだ」 「何するんだじゃないでしょう…」 ひどく冷酷な清四郎の声音に、悠理はびくりと身を縮めた。 清四郎が悠理の腕に手を伸ばした時、美童が割って入り、 「清四郎、少し落ち着いて。悠理、こっちおいで」 と、悠理を抱きかかえるように隣室へ入り、戸を閉めた。 「…悪いな、太夫。お遊びは、終わりだ」 魅録の言葉に、東雲太夫は微笑むと、 「お嬢様にあまり酷いことしないでおくんなまし…あちきが悪ふざけがすぎましたゆえ」 「ああ。大丈夫だ」 太夫が引き下がると、魅録が清四郎の肩を抱くように、 「おい、一服吸うか」 と、煙管を差し出した。 「そうですね」 清四郎は、ふうと息を吐くと、魅録に微笑んだ。 悠理は涙を流しながら、打たれた頬を押さえ俯いていた。 美童は、悠理の前に座ると、優しく、 「大丈夫」 と尋ねた。 悠理は、頷くと、袂で涙を拭った。 「清四郎はね、悠理が飛び出してからほとんど眠ってないんだよ」 美童の言葉に悠理は顔を上げた。 「喧嘩の経緯は聞いたけど…悠理が悪いよね」 美童の青い目が悠理を見据えている。 悠理は素直に、 「うん…あたいが悪い…ごめん」 美童は悠理の頭を撫でながら、 「悠理はあんまり自分が幸せなんで、ちょっと我が侭になってたんだね」 美童の言葉に悠理はびくりと体を震わせた。 「お金持ちのお嬢様で、御両親やお兄さまにも、奉公人にも愛されて…まして、上様のお孫さまで、権力も富も持ってる。それに、あんないい男に惚れられてるし…」 美童は悠理に向かって片目を瞑った。 「だけどね、悠理。世の中は理不尽なことなんかたくさんあるんだよ。自分の思いどうりにならないこともたくさんある…好きだからといって、添うことが難しい人だっている」 「…美童…好きなひとがいるのか」 「ふふ…添うことが難しい人…?ううん、僕じゃないけど。悠理は幸せなんだから、人にもその幸せを分けてあげるくらいの気持ちを持たなきゃ駄目だよ」 美童の言葉が悠理の心に染みてくる。 悠理は、美童の袂を握りしめると、 「美童…みんな、あたいのこと怒ってる…嫌いになった…?」 そう言うと、涙がはらはらと流れ出た。 美童は悠理の頭を胸に抱くと、 「悠理、ねえ、覚えてる?僕が初めて剣菱屋さんから呼ばれて、悠理と初めて会った時…」 「…うん…ささゆきで、飯喰ったんだよな」 「僕はね、異人の血がはいってるから、ああいう席によばれても、みんな好奇の目で見るんだ。黄色い髪、青い目…子供なんかなおさらだ。悠理が僕をじっと見てるのに気がついた時、僕は、ああまたか、また気持ち悪いとか言われるのか…正直そう思ったんだ。でも、悠理は違ってた。にっこり笑って、お前の目、奇麗だな。うちにある瑠璃の玉より奇麗だぞって言ってくれて…僕、嬉しかったよ」 「…だって、本当に奇麗だったから」 「清四郎や魅録にも紹介してくれて…僕、友達なんかもったの初めてだから、悠理には感謝してるよ。みんな悠理のそういう大らかなところが好きなんだ」 「美童…」 悠理は、涙を拭って、美童の顔を見た。 「悠理は身分や外見で人を区別しない人だろ…正義感もある。だから自分の欲望のためじゃなく、世のためにあの懐剣を使わなくっちゃ駄目なんだ」 悠理は、恥ずかしさに顔が真っ赤になった。 自分の取った行動の愚かしさに、顔から火が出る思いだった。 「悠理、清四郎に謝るんだよ。いいね」 美童に促されて悠理は立ち上がった。 戸を開くと、先ほどは気がつかなかった、窶れた面差しの清四郎がいた。 悠理は泣き出すと、 「ごめん、ごめんなさい」 と言い、清四郎に飛びついた。 ごめんなさいといいながら泣き続ける悠理の髪を、清四郎が優しく撫でる。 美童と魅録はそれを合図に、そっと部屋を出た。 大和楼の主人に、 「悪いな、あの部屋、今晩まで貸しきりだ。剣菱屋の女将さんへ勘定はまわしてくれよ」 魅録がそう言い置いた。 剣菱屋に戻ると、そこでは野梨子が待っていた。 「可憐はどうした」 魅録の問いに、野梨子が小首をかしげて、 「何でも、大切な用事があるからと家に戻りましたわ。悠理が見つかったのなら安心だと言って」 「…そうか」 「ねえ、野梨子」 美童が、魅録の横から顔を出し、 「咽が渇いちゃった。一服点ててくれるかな」 「ええ。五代さんにお茶の道具をお借りしてきますわ」 野梨子が部屋を出ると、美童が魅録の耳元で、 「可憐に縁談があるらしいよ」 と、囁いた。 魅録が驚いたように美童を見ると、 「相手が誰だか、僕が可憐から聞き出すから…ね」 そう言って、魅録の肩を励ますように叩いた。 魅録は、困ったような顔をしたが、すぐに口元を引き締めて、 「すまない…」 と、美童に真摯な顔を向けた。 その頃… 悠理は、清四郎の腕の中にいた。 五日ぶりの悠理を堪能した清四郎は、泣きはらした顔の悠理を愛おしそうに抱きしめた。 あれから、部屋には誰も近づかないところをみると、あいつらが上手く言ってくれたに違いない。 (気が利きますね…あの二人も) 清四郎は、友人たちの心遣いに笑みを浮かべた。 「…なあ、清四郎…」 悠理が、上目遣いで清四郎を見た。 「なんですか」 「…あの懐剣な…しばらくお前が預かってって欲しいんだ」 「え…?」 悠理は、起き上がると、俯いたまま、 「あたい…思い上がっていた。あれがあるから、何でもできるって…自分が偉くなった気がしていたんだ」 「…」 清四郎も起き上がり、悠理の髪に手を当てた。 悠理は、清四郎を見つめると、 「だから、あたいが、そういう気持ちでなく、本当に何かの役に立つためにあれを使えるようになるまで、おまえが預かっていて欲しい」 悠理の真剣な眼差しに、清四郎は笑みを浮かべ、 「…承知しました。お預かりしますよ…悠理がそれを使わなければならない時に、返します。それでいいですね」 「うん」 清四郎は、悠理を引き寄せると、 「…もう、黙って出ていったりするな…心配で、眠れなかったぞ」 「…ごめん」 悠理の腕が、清四郎の首に巻き付き、その腕に力がこもった。 しばらく後… 「清四郎、いい天気だな」 悠理は、初夏めいてきた青空を見上げて、嬉しそうに呟いた。 今朝、京より戻った百合子から大目玉を喰らったのに、堪えていないような笑顔である。 大和楼からの勘定書きに対して百合子は怒らなかったが(清四郎からすれば目玉の飛び出る金額であったが)、人さまに迷惑をかけたことに対してはこっぴどく叱られた。 「お母上に叱られた割りには、ずいぶんと機嫌がいいじゃないですか」 「だって、今日からは野梨子の父ちゃんに絵を描いてもらうんだぞ。あそこの家には珍しい菓子がいつもあるもんな」 「…白鹿清州に絵を描いてもらうのは、江戸の娘の憧れのことなのに…お前は、菓子が嬉しいんですか」 清四郎が苦笑を浮かべて言うと、悠理は口をとがらせて、 「絵だって嬉しいぞ。うんと凛々しくかいてもらうんだ。それをじいちゃんにやるんだぞ」 「…上様の献上品に若衆姿ですか…」 娘姿の悠理の方が喜ぶだろうに…と清四郎は思ったが口にしない。 深川の掘割沿いに歩きながら、清四郎はまたも苦笑を浮かべた。 清州の寮は深川の寺院の中に建つ。 絵を描く時はそこに引き篭もると、野梨子が言っていた。 「あれ…可憐だ」 悠理が立ち止まって、向い岸を見た。 緋色の頭巾をかぶった可憐が、船宿から出てきて船頭に舟を出してもらうところだった。 「へえ、可憐も隅に置けないな。へへ、相手はどんな男かな」 悠理が、背伸びをして船宿を見る。 ふと、清四郎の手が悠理を引き寄せた。 「なんだよ、痛いな」 「あ、すみませんね」 「…どうした、お前?」 難しい顔をした清四郎を見て、悠理が不思議そうに尋ねた。 「悠理、ここで可憐を見たことは誰にも言わないでおきましょう」 「へ?」 「可憐にだって人には知られたくない事情があるでしょうから」 「う、うん。わかった」 悠理の返事に、清四郎は手をゆるめ、 「さあ、行きましょう。少し、遅くなってしまった」 「ああ、そうだな」 悠理は、川を行く舟を見ながら、名残惜しそうに、 「でも、可憐の相手って誰なんだろうな…可憐が泣くようなことにならなきゃいいな。そうだ、あいつは身持ちが堅いから、船宿で舟出してもらっただけかもしんないしな。うん、きっとそうだ」 悠理は、納得したように頷いた。 清四郎は、そんな悠理を見てほほ笑ましく思ったが、船宿の窓から顔を出していたあの男の切なげな顔が目に焼き付いて離れなかった。 「やあ、悠理くん。よくきてくれたね」 「おじちゃん、かっこよく描いてくれよな」 悠理の言葉に清州は笑い出し、 「おお、江戸一番の若衆姿を描かせてもらうよ」 と請け負った。 悠理を送り届けると、清四郎はお茶を一服いただき辞去した。 父親と薬草を調べるため、これから葛飾まで赴くのだ。 「あまり遅くならないようにお帰しいたしますわ」 野梨子が見送りの時、清四郎ににこやかに言った。 「僕も早く戻れるようなら迎えに来ます」 野梨子はくすくす笑い出し、 「清四郎は、過保護ですのね」 と、いつもは冷静な幼なじみの顔を見上げた。 清四郎は、眉を少しあげると、 「ほっておくと、すぐどっかに消えちゃいますからね」 と、笑った。 夕暮れ前に、清州は下絵を描き上げた。 悠理は菓子をほお張りながらそれを眺め、満足そうだった。 「野梨子、あたい帰るな」 悠理が、髪を梳いていた野梨子の部屋に顔を出した。 「あ、いま、駕籠を呼びますわ」 「駕籠?大丈夫だよ。まだ、明るいじゃんか。それに、この近くの船宿からさ、舟出してもらうから。舟の方が気持ちいいだろ」 「じゃあ、そこまで送っていきますわ」 「いいよ。おじちゃんにもそう言われたけど断った。あ、清四郎が寄ったら、日本橋の方に帰ったって言っておいてな」 悠理が、中庭からひらひらと手を振った。 野梨子が立ち上がって、垣根のところで見送ろうとした時、野梨子の櫛が落ちて割れた。 野梨子の顔色が変り、足袋のまま庭先へ降りた。 「悠理」 垣根から声をかけると、悠理が振り向き、にっこりと笑い手を振った。 野梨子はほっとしたように、 「気をつけてくださいね」 と、声をかけた。 剣菱悠理はその日、日本橋の剣菱屋に戻らなかった… 表紙 |