契りの桜 三 作:かめお様 |
夕刻、深川の清州の寮に寄った時、悠理が帰ってから四半刻と経っていなかった。 「もう少し引き止めておけばよかったですわ」 野梨子が、申し訳なさそうに告げる。 「舟で帰ったのなら心配ないでしょう。このまま日本橋に回りますよ」 そう言って寮を出ると、途中、若松町の書物問屋に寄り、頼んでいた書物を手に、清四郎は日本橋の剣菱屋本店へ行った。 裏口から入ると、居間で万作と百合子がくつろいでいた。 「あら、悠理は一緒じゃなかったの」 「まだ戻っていないのですか」 百合子の言葉に、清四郎の顔色が変った。 「また、どっか寄り道でもしてるがや。まあ、上がって待つといいだ」 「…いえ、何となく胸騒ぎがします…魅録のところへ行ってきます」 清四郎は書物を万作に預けると、南町奉行所に急いだ。 その晩、悠理は戻ってこなかった。 清四郎は魅録共々剣菱屋で一夜を過ごした。 夜が明け次第、美童、可憐、野梨子には報せが行くだろう。 「明るくなり次第、奉行所を上げて行方を探す。親父の許可もとった。今月は月番だからな。助かったぜ」 魅録が、清四郎を励ますように明るく言った。 「悠理、帰らないんだって」 家が近くの呉服町にある黄桜可憐が息を切りながら駆け込んできた。 「まさか…(また痴話げんかじゃないでしょうね)」 と言いかけたが、清四郎と魅録の様子を見て、可憐は言葉を飲み込んだ。 「あんたたち、朝ご飯まだでしょ。何か作ってくるから」 「いえ、僕はいりません」 「なに言ってんの。ちゃんと食べなきゃ、悠理を迎えに行く時、力が出ないでしょ。美味しくって食べやすいものにするから、少しでも口を付けなさいよ」 「…そうですね」 可憐は、さっと手繦をかけながら、台所へと向かった。 「…いい女ですねえ、可憐は」 「…ん?ああ、そうだな」 「ああいうところに惚れたんですか」 「な…!」 魅録が驚いたように清四郎を見た。 「昨日、深川の喜千にいたあなたを見ましたよ」 「…ああ、そうか。見られたのか…」 「悠理は、可憐には気がつきましたけど、魅録には気がついてません」 「別に、隠していたわけじゃないんだが…その、いろいろあってな」 魅録は笑い出すと、 「美童にはもう気がつかれちまったし…俺って、わかりやすいのかな」 「…美童はその道の達人ですから…僕と悠理のことに気がついたのも美童が最初でしたよ」 「そうだったな」 魅録は表情を引き締めると、 「俺と可憐のことより、いまは悠理だ」 「…ええ」 「お前も苦労が耐えねえな…あんな山猿に惚れちまってよ」 「まったくです」 二人が可憐の作った朝餉を食べ終えた頃、野梨子が父清州とともに駆けつけた。 野梨子は涙ぐんでいた。 「剣菱さん、申し訳ない…わたしが悠理くんを送って行けさいすれば…」 清州が青ざめた顔で悠理の両親や清四郎らに頭を下げた。 「清四郎、ごめんなさい。わたくしが悠理を引き止めておけばよかったのですわ」 「野梨子のせいではないですよ」 清四郎の言葉に、野梨子は首を振り、 「わたくし、悠理が帰るといった時、胸騒ぎがしましたの。髪を梳いていた櫛が割れてしまって…」 「櫛が…」 「わたしのせいですわ」 涙を袂で拭う野梨子を慰めるように、可憐がそっと野梨子を抱き寄せた。 「野梨子ちゃん、大丈夫よ。わたしの娘はただの娘じゃないもの」 百合子が野梨子に向かい、にっこりと笑った。 「魅録さん。岡っ引きの親分さん方には礼金を弾みます。聞き込みするのにいくらお金がかかっても構いませんよ」 万作は千両箱を置くと、 「まずはこれを預けておくだ。みんなに手間かけるんだから、けちらず手当てを弾んでやってくれ。同心のみんなにも手当てを出してやってくれ」 万作は片目を瞑ると、 「親父さんには内緒だぞ」 「お預かりします」 「あ、お前さんの闇の知り合いにもばらまいてええぞ」 「はは。わかりました。それと、白鹿のおじさん。悠理の絵を描いてくれませんか。岡っ引きなどに持たせたいんですよ」 「おお、わたしでできることならなんでもしますよ」 魅録は千両箱を抱えると清州とともに、部屋を出た。 馴染の岡っ引きや道場仲間、町の無頼人までが魅録の呼びかけで四方に散っていた。 剣菱屋の隣に剣菱屋の持ち物の空き家がある。 裏手は商売繁盛の剣菱稲荷で、その稲荷の横の竹やぶからこの家に通じる道があるので、人が出入りしても不審がられない。 そこから魅録と清四郎が指揮をとるつもりである。 まだ、金目当ての誘拐ということもあるので、下手人が剣菱屋に何かしら報せてくるのに不審がられないよう配慮したのだ。 南町の同心なども、今頃、奉行の陣頭指揮で駆けずり回っているだろう。 美童が剣菱屋を訪ねたのは、昼の舞台がはねた後であった。 そのすぐ後、吉原方面を受け持つ岡っ引きの新五親分が、気になる話を聞き込んできた。 新五は、若いながらもやり手の岡っ引きである。 吉原に悠理がいると報せてよこしたのも、新五の手柄であった。 「前のことがありますんで、まさかとは思ったんですが、吉原をちょいとのぞいたんでさ。大和楼の旦那はしっかりしたお方なんで、お嬢様のことを腹を割って話してみたところ、妙に気になることを言いなさるんで…」 「気になること…?」 魅録が身を乗り出した。 「へい。なんでも、お嬢様が居続けをなさっていたとき、さる御大身の若さまと東雲太夫を争ってもめたらしいんで…」 「さる御大身…?」 「へえ。なかなか名を明かしてくれなかったんですがね、剣菱屋さんの一大事だというとついに…ね」 「誰だ」 「へい。高鍋藩二万七千石、秋月様の御嫡男、新太郎様です」 「…大名ですか…どんな男です」 「詳しくは存知ませんが、大和楼の旦那に言わせると、お殿様はお人柄も穏やかな賢人だそうですが、若さまの方は、ちょいと悋気(りんき)な性格らしく…また、どうも悪い取り巻きが付いているようで…」 「…どう思う、清四郎」 新五を引き下がらせてから、魅録が問うた。 「…金目当てなら、もう何かしら知らせが来ているでしょう。この家の出入りは剣菱屋の表からは見えないですし、剣菱稲荷 から入ってきています。剣菱稲荷は商売繁盛の神様で参拝客も 多いから、人の出入りが多くても不審がられませんから」 「ああ。俺もそう思うし、何かその若さまってのが気になるんだ」 「ええ」 清四郎は立ち上がると、 「乗り込みます」 「え?乗り込むって、上屋敷にか」 「ええ」 「…っておい、それは無謀だろ。いくらお前が上様の御典医の息子だからって、そう簡単に…」 「これがあります」 清四郎は懐の懐剣を見せた。 「これは、悠理の…」 「預かっていたんです…これが役に立ちますね」 「…俺も行くぞ」 「魅録はここにいてください」 「駄目だ、お前一人で行かせるわけにはいかねえ」 「…しかし、読み違いかもしれません。もし、他に有力な報せがあった時魅録がいないと困ります」 「大丈夫だ、手を打ってある」 「しかし…万が一間違いだった場合…」 「お前一人が腹切るつもりだろ。馬鹿野郎、そうはさせるかよ」 魅録が手を叩くと、小者が顔を出した。 何事か耳打ちすると、小者は走り去り、魅録は清四郎に、 「馬で行く。すぐ出られるよう、支度しておけ」 と言った。 剣菱屋から美童、可憐、野梨子とともに、着流しの男がやってきた。 「こいつ、内与力の大関主税。親父の懐刀だよ。この男に後を任せるから大丈夫。大関、頼んだぞ」 「はい。馬は稲荷で待たせてあります」 清四郎は、泣きはらしたような目の野梨子の肩を叩くと、 「連れて帰りますよ。心配しないでください」 と笑った。 麻布にある高鍋藩の上屋敷まで、清四郎と魅録は馬を飛ばした。 夕暮れ時、門番に馬を預けた二人は、江戸藩邸の用人を呼び出した。 「ちょうどお殿様が参勤で江戸にいて、助かりましたね」 「ああ」 用人は恰幅のいい中年の武士で、慇懃に、 「南町奉行の御子息が、当藩に何用でございますか」 「殿様に内密で会わせていただきたい」 「は?殿に…でございますか」 困惑する用人に清四郎が近づき、 「お家の存亡に関わることです」 そう言って、懐から懐剣を取り出すと、用人に見えるように紋をかざした。 用人の顔色が変り、 「どうぞ、こちらに…」 と、書院に通された。 ほどなく、上品な面差しの高鍋藩主の秋月が書院に現れ、 「松竹梅殿、菊正宗殿…お家の存亡とは如何様なことであろうか」 と、緊張した面差しで尋ねた。 言葉遣いや、様子から見て賢人との噂は本当らしい。 清四郎は人払いを願い、思い切って核心から話し始めた。 「剣菱屋の娘が行方知れずとなりまして」 「剣菱屋…おお、あの江戸一番の豪商の…その娘が当藩と如何な関わりがあるのじゃ」 「細かいことは省きますが、その娘、女だてらに若衆姿で、吉原でお大尽遊びをいたした折り、こちらの若さまと一悶着ございまして」 「新太郎と…?その娘の勾引かしに、新太郎が関わっていると?」 「それはわかりません。ですから、若さまから直接お話を聞かせていただきたいのです」 「そのような曖昧なことで、高鍋藩の嫡子を疑うと申すのか」 「相手が悪いのです」 「…剣菱屋の娘が…?どういう意味だ」 「剣菱悠理は上様のお孫さまでございます」 「…なんと」 清四郎が、葵の紋の懐剣を示した。 秋月は顔色を変え、用人を呼ぶと、 「新太郎を呼べ」 と、告げた。 「父上、お呼びでございますか」 新太郎が書院にはいると、訝しげな顔で清四郎と魅録を見た。 「新太郎。お前、剣菱屋の娘と何か関わりがあるのか」 「剣菱屋の娘?知りませんな」 目が落ち着かない新太郎を見て、清四郎がずばりと、 「剣菱悠理は、恐れ多くも上様のお孫さまであると知っておいでか」 と切り出した。 「な…」 新太郎の顔色が変った。 「…新太郎、お前…高鍋藩を潰すつもりか」 父に一喝され、新太郎は縮み上がった。 「悠理さまをどこへやったのだ」 「し、知りませ…」 「新太郎、しらを切るつもりかっ」 「わたくしは何もやっておりません。さ、佐竹と井村が…」 新太郎は、ぶるぶると震えながら、涙目になっている。 すぐに、佐竹と井村が呼ばれ、庭先に引き出された。 剣菱悠理の素性を知り、二人とも真っ青である。 「悠理を何処へやったのです」 「…町の、無頼ものに頼んで…」 「無頼もの…誰だそれは」 「ま、松平さまの下屋敷の賭場で知り合った、仙三という奴でございます」 「そいつに金で頼んだんだな」 「は、はい…」 「殺せと…頼んだのですか…」 清四郎が苦しげに尋ねた。 「い、いえ。相手は剣菱屋の娘。金を強請るか、その、どこかへ売り飛ばすかすると…」 「仙三の居場所は知ってるのか」 「い、いえ。賭場で会うだけで、詳しくは…」 佐竹と井村は憔悴し切ったようにうな垂れた。 事が事だけに切腹は免れまい。 「お、お前たちのせいだ。お前たちが仕返ししろとそそのかしたんだ」 新太郎が、二人につばを吐いた。 「し、新太郎。お前という奴は…この父にまだ恥をかかせる気か」 「ち、父上、わたしは悪くない。悪くございません」 秋月の足下にすがって泣く新太郎を見て、清四郎が懐剣を抜いた。 「お、おい、清四郎、よせっ!」 魅録の言葉が終わる前に、清四郎の手が新太郎の頭の上で動いた。 新太郎の髷が飛び、 「ひいい〜〜」 と、頭を押さえて、新太郎が突っ伏した。 「…この、馬鹿者が」 秋月は、唇を噛みしめ、そんな我が子を見下ろしていたが、 清四郎と魅録に土下座するように、 「息子の不祥事は藩主であるわたくしの不始末。領民、家臣どもにはどうかお情けを…」 と、頭を下げた。 「…殿様、悠理が無事に見つかったら、高鍋藩には類が及ばないようにしますよ」 魅録が、膝ま付き秋月に声をかけた。 「いいですか。あんたは立派な殿様だ。切腹なんて考えないでくださいよ。悠理が無事に戻るよう、どうか祈っていてください」 「松竹梅殿…」 「それよりも、少し人手を貸して欲しいんですがね」 「それは、如何様にも…」 「助かります」 漆黒の闇があたりを包む。 麻布坂下町の居酒屋に、清四郎と魅録はいた。 ここの亭主、源助が魅録の知り人で、清四郎もこの男の顔の広さにはいささか舌を巻いた。 魅録が酒を注ぎながら、 「お前が懐剣を抜いた時には、肝が冷えたぜ」 「…斬り殺してやりたかったですがね…あのお殿様の前ではさすがに…どんな馬鹿息子でも、子は子ですからね」 「ああ。ここの源助から聞いたんだが、秋月家にはできのいい次男だいるそうだ。長男は廃嫡だろうから、次男が継いだ方がお家のためにもなるだろうよ」 源助が中二階から下りてき、 「坊ちゃん。お床をのべました。それから、土間でなんなんですが、汗を流しておくんなさい」 「おう、すまねえな。汗拭いて、着替えて寝るぞ」 魅録は清四郎の顔を覗き込み、 「眠れなくても横になって体を休めろ。明るくなったら、また動くからな」 「そうですね…」 汗を流し、寝床に横になったが眠れるものではない。 もしも、悠理の身に傷ひとつでもついていたら、自分はどうにかなってしまうだろう… 背中で感じる魅録の様子も、眠ってはいないようだ。 彼もまた、悠理の身を心から案じている。 そして、この自分のことも… 中二階の窓が細く開けられ、そこから風が流れ込む。 闇に浮かぶ月を見て、清四郎は何処で悠理がこの月を見ているのだろうかと思った。 朦朧とした意識の中、悠理は天窓越しの月を見た。 あの日… 野梨子の家を出てすぐ、老人が道を尋ねてきた。 悠理は親切にその老人の手を引き、案内しようとしたところ、急に当て身を喰らった。 まさか、そのよぼよぼした足取りの年寄りが、正確に悠理の急所を突くとは思えなかった。 油断である。 目覚めた時には、蔵のような場所にいた。 手足を縛られ、猿轡をはめられ… さすがの悠理も身動きとれなかった。 しばらくすると、そこに香のようなものが焚かれた。 体がしびれてき、意識が遠のいた。 ふたたび目覚めた時、悠理の身には何一つつけられていなかった。 風が肌を過ぎる。 朦朧としつつも、悠理は幾人かの男たちの目に晒されているのだと感じた。 もしも、この身を汚されることがあれば、舌を噛み切ろう… 悠理は覚悟した。 「このじゃじゃ馬、売れますかね…お頭」 「ああ、この肌。さすがいいとこの娘だ。剣術なんぞやるわりには傷ひとつねえ」 男の手が悠理の背中を撫でた。 悠理は嫌悪したが、体が動かない。 「おい、彫り辰。どうだ」 「へい。この背に桜なんぞ散らしたら、艶やかでしょうねえ」 「よし。彫り物のある上玉、異人に高く売れるぞ。ちゃっちゃと彫ってくれ」 「へい」 悠理の鼻先に、また香炉が置かれた。 ずんと体が重くなり、悠理は深い眠りに落ちていった。 表紙 |