契りの桜 四 作:かめお様 |
「魅録坊ちゃん」 階下から、源助が声をかけた。 「長坂町の親分さんがおみえで」 清四郎と魅録が下りて行くと、長坂町の佐兵衛が礼儀正しく挨拶をした。 「こんな夜分に申し訳ございません」 「いや、こっちこそ苦労かけるな」 「いえ。剣菱屋さんには江戸の岡っ引きがずいぶんと御厄介になっております。そこのお嬢様の一大事とあれば、何て言うことはございません」 「で、どうした」 「へい。松平さまのお下屋敷の賭場で、その仙三について聞き込んできたのですが…」 「仙三はいたのか」 「いえ、二、三日前から姿を現さないようです。念のため、奴のねぐらにも手下を向かわせましたが、もぬけの殻で…」 「…そうか、逃げられたか」 「何でも、いい金になる仕事が入ったと言っていたらしいので、今回の件じゃねえかと。で、その仙三がつるんでいた相手を探っていたんですがね…猿(ましら)の権太という盗賊あがりの男だそうです」 「猿の権太だな」 「へい。お役に立てるかどうかわかりませんが、一刻も早くお知らせしようと思いまして」 「ありがとうよ。何か分かったら頼む。明日は剣菱屋の方にいる」 「承知いたしました」 佐兵衛が帰ると、 「…清四郎、すぐに日本橋に戻るぞ」 「その猿の権太の居所を知っているのですか」 「知らねえよ。だから調べにいくんだよ」 「日本橋に、ですか?」 魅録はにやりと笑うと、 「日本橋で悠理の母上を連れて、そのまま浅草は黒船町だ」 「…黒船町…あ、菊翁文左衛門ですね」 「そう、江戸の暗黒街の大元締め。香具師の大親分だ。こういう輩のことは、あのじいさんに聞くのがいちばんさ」 「それに、悠理のお母上には一目置いてますからね…行きましょう」 夜道を駆け日本橋に着いた頃、空は白々と明けてきていた。 万作が剣菱屋の舟を出してくれ、大川を舟で黒船町に向かった。 菊翁文左衛門は早朝にも関わらず、三人を迎え入れた。 「なんじゃ、百合子ちゃん、水臭いのう。あんたの嬢ちゃんの一大事なら、わしはどんなことでもするぞ」 「ありがとうございます」 百合子が艶然と微笑んだ。 「で、その猿の権太の行方を調べればええんじゃな」 「はい」 文左衛門が手下に何やら耳打ちすると、にこやかに笑いながら、 「なに、昼までにはわかろうて。それよりも、お前さんがた、朝飯はまだじゃろう。一緒に喰おう」 悠理は現(うつつ)の中にいた。 背中を何か気色の悪いものが触れる。 「…よし、描けた…」 そう、男の声が呟いて後、悠理の身に痛みが走った。 いや、痛みではないのかもしれない。 これも、夢なのかもしれぬと、悠理はぼんやりした意識で思った。 「…清四郎…」 悠理は、声にならない声で呟いた。 文左衛門の言うように、一刻ほど後には猿の権太の居所が掴めた。 「ほう…廻船問屋の近江屋の蔵か…鉄砲洲の本湊町だな」 「廻船問屋の近江屋が絡んでるんですか」 「あいつはな、昔は盗賊上がりだと噂がある。それから人買いの噂もな。わしもちっとばかり気になっていたんじゃ。あんた方、存分にやりなさいよ。手下もつけるから、使ってやってくれ」 「感謝します」 「あっしがご案内いたします」 若頭が魅録と清四郎に礼を取った。 「頼んだわよ…」 百合子の言葉に、二人は頷いた。 鉄砲洲の本湊町の近江屋の蔵近くには、文左衛門の手下が潜んでいた。 いくつかある蔵のひとつを指さし、 「あそこにお嬢様はいらっしゃるようです」 「…人数は」 「中には五〜六人、表に十人ほど」 「表のものはあっしたちが片づけます。お二人はこいつの案内で、蔵の方へ」 「承知」 蔵の近くで文左衛門の手下が騒ぎ出した。 それを合図に、清四郎らは悠理が閉じこめられている蔵へ向かった。 蔵の見張りを倒すと、魅録が蔵の戸を叩き、 「何やら外で騒ぎがあったようですが」 と、声をかけた。 「何の騒ぎだ」 「それが、皆目…」 蔵の鍵が開けられ、戸が開かれたその時、清四郎が刀を抜き払い中へ飛び込んだ。 「何だ、お前は」 中には、数人の浪人や無頼もの、そして頭目らしい年寄りがいた。 その後ろに、驚いた顔でこちらを見る職人風の男。 そして、全裸の悠理。 清四郎の全身から殺気が漲った。 「清四郎、生け捕りにしろ」 魅録の声が少し遅ければ、清四郎はことごとく奴らを斬り殺していただろう。 だが、彼の理性は限界で踏みとどまった。 刃を返すと、峰打ちで男らを叩き伏せた。 「あ、あわ、わ、お助けを」 腰が抜けたように後ずさる彫り辰に一瞥を送ると、清四郎は悠理を抱きかかえた。 逃げようとした彫り辰は、魅録に峰打ちされ、くたくたと倒れ込んだ。 清四郎は、魅録からも隠すように、悠理を抱きしめる。 文左衛門の手下が、自分の着物を脱いで魅録に渡した。 「清四郎、悠理は…」 魅録が近づこうとするのを、清四郎が止めた。 「生きています…」 「そうか…」 魅録はほっとし、清四郎に着物を放り投げた。 清四郎はそれを悠理にかけると、また悠理を抱きしめた。 「清四郎」 清四郎の様子がおかしいのに気がついた魅録が、駆け寄った。 「見ないでください」 清四郎は、泣いていた。 声を殺して。 「どうした、悠理に何かあったのか。おい、清四郎」 魅録の頭には、悠理の身が汚されたのかという思いが過った。 悠理の手がぱたりと床に落ちた。 「おい、悠理の様子がおかしいじゃないか。医者に見せなきゃなんねえだろ。お前がそんなんでどうするよ」 魅録の言葉に、清四郎は顔を上げた。 その時、悠理の身から着物が滑り落ち、彼女の背中が露になった。 悠理の背には一面桜の彫り物が下絵として描かれ、そして、右の肩には桜の花が三輪ほどすでに彫られた後だった。 「何てこった…」 魅録は悠理を抱きしめたままの清四郎を抱くように、 「このまんんまじゃ悠理が可哀想だ…なあ、帰ろう。お前がしっかりしなくて、どうすんだ。なあ、清四郎さんよ…」 「ええ、魅録…連れて帰りましょう…すみませんでした…取り乱したりして」 清四郎は悠理に着物を羽織らせると、抱き上げた。 外では文左衛門の手下が近江屋一味を引っくくっていた。 「…悪いが、南町奉行所までこいつら運んでくれ。魅録からだと言えば話は通じる」 「承知いたしました。舟はこちらに…日本橋までお送りいたします」 「すまねえな、何から何まで…」 「とんでもねえことで…」 悠理は阿片を嗅がされていた。 修平が呼ばれ、手を尽くし、阿片が抜ければそれ以外は大丈夫だと言った。 その身を汚されてもいなかったと聞き、みな安堵した。 ただ、右肩後ろに彫られた彫り物以外は… 万作などは衝撃で臥せってしまったが、百合子は毅然と、 「殺されたと思えば、火傷を被ったのと同じこと。悠理なら乗り越えられます」 と言った。 親兄弟以外に、そのことを知ったのは清四郎ら五人だけだった。 野梨子と可憐の受けた衝撃は大きかった。 女の身ゆえ、消えない痕を残された悠理の身を慮ってのことであろう。 まして、野梨子は自分が引き止めなかった故こうなったと思い、半狂乱の体であった。 「野梨子、野梨子、落ち着いて」 美童が野梨子を諭すように、 「いちばん辛いのは悠理なんだ。僕らが嘆いていたって何にもならないよ。悠理が苦しい時、僕らが支えなきゃならないんだ」 「美童…でも、わたくし…耐えられなくて」 「耐えなきゃ駄目だ。野梨子が自分を責めれば、清四郎が同じように自分を責める。あいつを支えてやれるのは幼なじみの野梨子だろ」 美童の言葉に、野梨子は泣きながら頷いた。 「大丈夫だよ。悠理も清四郎も強いもの…あの二人なら大丈夫だから」 「美童…」 野梨子は、美童の胸の中で泣きながら、悠理の前では泣くまいと決意を固めていた。 月が変って、雨の季節に入る頃、久しぶりで六人が集まった。 悠理が会いたいと連絡をよこし、剣菱屋の離れに集った。 悠理に寄り添うように、清四郎がいた。 頬がこけ、幾分窶れ気味だが、元気そうだ。 あれから毎日、清四郎は悠理に付き添っていた。 「おう、元気そうじゃねえか」 魅録が、悠理の好物の上野池之端の菓子舗、松美屋の饅頭を差し出した。 「うわっ、松美屋の饅頭だ。ありがと、魅録」 「あたし、お茶入れてくるわね」 可憐が立ち上がろうとした時、悠理が、 「みんな、心配かけてご免な」 と、頭を下げた。 「悠理のせいじゃないですわ」 「そうよ、あんたは何も悪くない」 悠理は、首を振って、 「元はと言えば、あたいが我がままで家を飛び出して、吉原で自分の立場も考えず喧嘩したからなんだ。あたいが悪かったんだ」 「悠理…」 悠理は、自分の右肩に手をやると、 「ここに彫られた桜…これはあたいへの戒(いまし)めだ。だから、みんなもそんなに心配しないで。あたい、大丈夫だから…」 「悠理」 可憐と、野梨子が悠理に抱きつき、 「それでこそ、悠理よ」 「ええ、誇りに思いますわ…」 「えへへ。ありがとう。なあ、饅頭食べようぜ。これ、蒸かしたてのやつ、美味いんだぞ」 「そうね、お茶入れてくるわ」 「あたくしも」 野梨子と可憐が同時に立った。 中庭で、可憐が立ち止まり、涙目で、 「あんた、偉かったわ。よく、泣かなかったわね」 野梨子も涙を溜めて、 「可憐こそ…」 そう言いながら、女二人は袂で顔を覆った。 「でもなあ、桜でよかったよ。これが金太郎の頭とか、鯉の目玉だけだったら目も当てられないしな」 饅頭を頬張りながらの悠理の言葉に皆笑ったが、その言葉に隠された悠理の切ない気持ちを彼らは知っていた。 皆を見送った後、清四郎は母屋の廊下から離れに向かっていた。 居間から、豊作が清四郎を手招きしている。 「清四郎くん、僕は両親とこれから浅草に芝居を観にいってきます」 「はい。気をつけて」 「…離れには誰も近づけないようにしますから」 「は…」 豊作はにっこり笑うと、清四郎の右胸を指さし、 「悠理を頼みます」 と囁いた。 離れに戻ると、悠理が庭に背を向けるように座っていた。 こうして一人になると泣いている。 それを知っているのは清四郎だけだった。 「…みんな、帰ったのか」 「ええ。これから根岸に寄ると言っていましたよ」 「…そっか…」 清四郎は後ろ手で障子を閉めた。 悠理が、涙目のまま振り向いた。 「悠理…」 清四郎は悠理を後ろから抱きかかえると、首筋に唇を這わせた。 「…誰か来るぞ」 「…誰も来ませんよ。お父上達は浅草に芝居見物だそうです」 「なんだよ、あたいを置いて行くなんて…ひでえ親だな」 清四郎の腕が前に回り、悠理の胸元を押し広げ、着物を引き下げた。 「やっ」 右肩の桜が露になり、悠理は身をよじった。 「奇麗ですよ、桜…」 清四郎の舌がゆっくりと彫り物の桜を愛撫する。 「やだっ。見ないで」 悠理が、懇願するように身を伏せた。 「お願い…見ないで…」 悠理が泣き伏したのを、清四郎が抱き起こし、その手をとって己の着物の前を開けさせた。 「…!」 清四郎の右胸に、悠理と同じ桜の彫り物が三輪、散っていた。 悠理は驚いて清四郎を見た。 みるみる涙が溢れてくる。 「お、お前、馬鹿じゃないか。ご、御典医が彫り物なんて…」 悠理は、ぷいと清四郎に背を向けた。 その背が震えている。 清四郎は、悠理を背中から抱きしめると、 「こうすると、僕の桜と悠理の桜がぴたりと重なります…これはね、悠理、二人の契りの桜ですよ」 「清四郎…」 「お前一人に背負わせません…」 「…清四郎…」 悠理の嗚咽が激しくなるほど、清四郎の抱きしめる腕に力がこもった。 「悠理は大人になりましたわ」 野梨子が感嘆したように溜め息をついた。 「ええ。そうね。見違えたわ」 可憐も頷いた。 「それにしても、清四郎まで彫り物を入れるなんて…惚れてるんだね、悠理に」 美童がしみじみと呟く。 「契りの桜だって、言ってたぞ」 魅録の言葉に可憐が目をむいて、 「まあ、あの清四郎がそんな粋なことを言うなんて…恋ってすごいわね」 魅録はにやりと笑うと、 「俺も彫るかな。俺が散らした、黄桜をさ…」 「な…」 魅録の言葉に、可憐の顔がみるみる赤くなった。 「可憐、どうしましたの」 「な、何でもないわよ」 一人不思議そうな顔をする野梨子と、顔を赤くして俯く可憐、それを眺めて苦笑する魅録と美童。 それぞれの胸には、消えない証を身に印した二人の、その思いの深さを知った心地よさが広がっていた。 「あれ、雨が降ってきたよ」 「梅雨も間近ですわね」 根岸の寮に雨音が静かに響き、その心地よさにしばし四人は酔いしれた。
長くてすみません…そのかわり、表紙には力を入れました(…
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