『一分の花』 池田さり様作 |
〜 二 〜 根津の寮は好きに使ってくれていいから──と言葉を残して、悠理は旅立っていった。 品川の港まで見送らせてもくれずに。楽しそうに笑いながら。清四郎と会津で会えることだけを思い描きながら、軽やかな足取りで、前だけを見つめて。 こうやって、少しずつ別れが訪れるのかもしれないわね。 心の中で呟き、淋しい思いを抱えながら野梨子と別れて店に戻ると、馴染みのある顔が待っていた。 魅録がたびたび使っていた岡っ引きの小助である。今は何をしているのか、長い間姿を見かけることさえなかった。 「可憐さん、お待ちしておりました。魅録さんからの言づてを預かっておりやす」 「え?」 思いがけない言葉に声も出せないでいる可憐に、小助はまるで宝物でも扱うかのようにうやうやしく懐から書状を取り出し、慎重な足取りで近寄って差し出した。 感謝の言葉も出なかった。可憐はただ、震える手で書状を広げた。 見慣れた──懐かしい文字がそこにはある。 暮れ六つ(午後六時ごろ)、柳橋の船宿「千鳥」で待つ。 「うそ……」 可憐は顔を上げた。店の中ゆえ空は見えないが、障子の向こうから透かして見える江戸の空は、まだまばゆい日の光の中にある。 暮れ六つまでまだ半刻(一時間)はあるだろう。 まだ、時間はある。 着物を着替えて、化粧を直して── ああ、でも。 そんなことをしている間に、もしも、東征軍との小競り合いが始まったら? きっとあいつは、あたしとの約束なんか捨て置いて、飛び出して行ってしまうだろう。それきりまた行方知れず。また、あいつが戻ってきてくれるのを、じっと待つしかなくなる。 そう思った瞬間、可憐は駈けだしていた。店を出る寸前、小助が小さく頭をさげたのが、肩越しにちらりと見えた。 両国広小路の北、柳橋には船宿が多い。人目を忍ぶ男女が逢い引きするための宿も多いが、書状に書いてあった「千鳥」は、 妖しい風情などまったく見あたらないほどの、立派な構えの船宿であった。 可憐は駈けてきたせいで額に浮かんだ汗を懐紙でぬぐいながら、「千鳥」の二階を見上げた。この中で、魅録は待っているのだろうか。 それとも、大川に繋がる掘り割に浮かぶ屋形船の中で待っているのだろうか。 まだ、暮れ六つの鐘には間がある。五月を迎え、江戸の町に降り注ぐ日の陽差しは日々長くなり、愛しい人と共に過ごす夜は短い。 まだ、あいつが来ていなかったらどうしよう。 ふと不安が押し寄せ、宿の引き戸を目の前にして、足が竦んで動けなくなった。 いつくるか、いつくるかとじっと待ち続けるなんて、今のあたしにはとても耐えられそうにない。 でも、もう来ているとしたら? あたしが来るのを、今か今かと待っているとしたら? あたしがここで迷っているうちに、一緒にいる時間はどんどん失われてゆく。 可憐はぐっとくちびると噛みしめた。心を決めて、一歩踏み出す。 今は、残された時が惜しい。 引き戸に手をかけた。からり、と乾いた音が玄関に響いた。 名を名乗ると、女将らしき女が可憐を船着き場に案内した。屋形船の艫(とも)頬被りをし櫓を手にした船頭がひとり、 可憐の顔を見ないようにうつむき加減で、小さく会釈をした。 息を整え、首筋に貼りついた後れ毛を髱(たぼ)に撫でつける。襟元をかきあわせ、心を落ち着かせながら可憐は船に乗り込んだ。 「早えな。まだ、暮れ六つには少し間があるぜ。そんなに俺に会いたかったのかい」 膳に並べられた酒の肴をつまみ、徳利を傾けながら、魅録は頬をゆがめて言った。 「そういうあんたこそ、お早いおつきじゃないの」 ぐらり、と船が揺れて、船だまりを離れてゆく感覚があった。するすると、船は大川をさかのぼってゆく。 船頭が櫓をかく軋んだ音と、ぴしゃりぴしゃりと、船を叩く水面の音が折り重なって耳に届いてくる。 閉じられた障子の向こうが、夕暮れの水面を映してぼんやりと茜色に染まっていた。 可憐は細長い船の中にこしらえられた座敷に手をつきながら、魅録の傍に寄った。 「俺は、女を待たせない主義なんだ」 口で言うのと反対に、魅録の口元に苦い笑いが浮かぶ。嘘だと承知のうえで口にしたのだろう恰好つけの言葉が、 魅録の顔を見ただけで弱くなる、可憐の心を揺さぶった。 「でも、あたしはあんたの連絡をずっと待っていたのよ。待って待って……待ちくたびれてしまったわ」 素直な気持ちが形となって、するりと口から出てゆく。身体を近づけ徳利を手に、空になった魅録の猪口に注ぐ。 腕と腕が触れ合い、懐かしい身体の温かみが伝わってきた。 魅録はついと視線を逸らし、障子を開けて、その指先で手にした猪口の縁をなぞった。 「……すまなかったな」 ぽつりと漏らした言葉が、苦渋に満ちている。 「あたしだけじゃない、悠理も野梨子も美童も、あんたのことを心配していたわ。全然連絡がとれなくて。どこに行ってたの?」 「江戸を離れていたわけじゃない。東征軍の探索の手が厳しくてな。菊翁のじいさんの手下のところで、しばらく身を隠していたんだ。 どうやら奴ら、俺が南町奉行の嫡男ってえんで、大物だと思ったらしいな」 口の端で笑って、立てた片膝を扇子でぱしりと叩く。 見慣れた、白絣の単の着流し。少し窶れた頬。艫の方に据えられた刀掛けには、あの朱鞘の刀ではなく、松竹梅家に先祖代々伝えられているという魅録の愛刀、 備前長船の大小があった。 「あんた、時宗の小父さまに迷惑がかからないよう、廃嫡してもらったって言ってたじゃない」 「それでも、向こうにとっちゃ、俺は今でも松竹梅時宗の息子なんだそうだ。親父は大変だな。 千秋さんは公家の出だってえのに、幕臣ってえことだけで目の仇にされちまう。勝のもとで、恭順の意を示していても、だ。 そして、たった一人の息子は、彰義隊に加わって薩長の奴らとやりあってる──ときたもんだ」 ふふ、と笑いを漏らして、くいと猪口を傾ける。水の匂いを含んだ涼やかな風が、酒色に染まった魅録の吐息を流してゆく。 可憐も手酌で酒を注ぎ、口にふくんだ。呑まずにはいられない気分だった。空いた猪口に、魅録が酒を注ぐ。 差しつ差されつ──以前だったら、こんなに心地よいひとときはなかったのに、今は胸が詰まって、苦い酒がするりと胃の腑に落ちてこない。 「だから、家にもよりつかなかったのね」 あんたは、ただ待ち続けているあたしやご両親の気持ちが分かっているの? 魅録は顔をゆがめる。そして、空になった猪口を見つめながら、低い声で言った。 「ああ。これ以上、迷惑はかけられないからな。だから──おめえのところにも行けなかった。……元気だったか」 「……まあね」 「おめえと二人きりで会うのは、二月のあの晩以来だな」 「ええ、そうよ。朴念仁のあんたでも、覚えていたようね」 「そりゃ、忘れようったって忘れられねえ。あのときは、おめえに泣かれるんじゃねえかと冷や冷やしてた。 正直、泣いて止められたら、俺の心は揺らいでたかもしれねえな。女のために、仲間を見捨てる男になるかと覚悟した瞬間もあった」 「でも、あたしはあんたを止めなかったわ」 思いと行動が、必ずしも重なるとは限らない。 可憐は猪口を船膳に置いて、障子の向こうに目をやった。 船は次第に隅田川をさかのぼる。その先に、闇色に沈んだ浅草御米蔵の塀と、水面に影を落とす首尾の松の姿が見えた。 「そうだな、おめえは止めなかった。何も言わず、俺の前から去って行った」 その魅録の口振りには、ひそかに可憐を咎める色が見えた。 「……止めて欲しかったの?」 応えはない。かわりに船がぎしりと鳴った。打ちつける波に揺れる。どうやら、御米蔵の堀に船が横付けされたらしい。 船頭の、辺りを憚るような密やかな声が、艫の方からかけられた。 「旦那、それじゃあ、あっしは」 声と共に船を下りたらしく、跳ね上げるようにして船がかたむいた。魅録が猪口を置いて、障子を閉める。 行灯の火が揺らめきながら、魅録の思い詰めた様子の横顔を照らし出した。 可憐はたまらず目を逸らした。清四郎の顔がふいに浮かぶ。会津にゆくと仲間の前で決心を語ったあの日の彼に、あまりにも似通っているその瞳。 「可憐」 幾度、名を呼ぶ声を耳にしたことだろう。時にはぶっきらぼうな呼びかけで。時には、耳元でささやく甘い声で。 「今夜も、俺を止めねえつもりか」 静かに問うその声。可憐は目を閉じた。永遠に来なければいいと願っていた、覚悟を決めるこの日がとうとうやってきた。 「俺は、明日上野に戻る」 言葉が耳に突き刺さる。かつては上野──と聞けば、すぐに満開の桜を思い描いたその美しい場所は、今は忌まわしき地となって、可憐の心を押しつぶした。 東征軍に戦いを挑み続ける彰義隊が籠もるあの山。江戸を守るために結成されたはずだったのに、すでに江戸の人々は彼らを見放している。 まもなく、東征軍が総攻撃を仕掛けるという噂は、江戸に住む者なら知らない者はいない。黒シャツに黒のダンブクロという西洋かぶれの服装をした兵士達が、 鉄砲を持ち大砲を据えて、上野の山を囲むことになるのだろう。 万に一つの勝ち目もない。何が生死を分けるのか、しかとは分からぬその戦いに、魅録はその身を投じようとしている。 「これは彰義隊の中でも一部の者しか知らないんだが……明後日十五日は、最後の戦いになるだろうな」 「え……?」 たまらず、可憐は顔を上げた。驚愕に揺れるその瞳のすぐ横に、魅録の愁いに満ちた瞳があった。 「止めるのなら……今だぜ」 声をあげる間もなく、身体が引き寄せられた。背に回された掌から、熱い体温が伝わってくる。息が触れる。どちらからかともなく唇が重なって、 可憐は狂おしく、相手の背に回す腕に力を込めた。 船がぎしりと傾いた。 このまま水の底深くに、二人で沈んで行けたらいいのに。 それきり周囲の音は消え、、互いを求めあう熱い息づかいしか聞こえなくなった。 時代劇部屋 |