『一分の花』 池田さり様作 |
〜 三 〜 今でもありありと思い出す。彰義隊が結成された今年の二月、いつも二人で会う深川の宿で、魅録は可憐を抱いたあと、耳元で言ったのだった。 「俺は、明日東本願寺に行くぜ」 江戸に近々攻めてくるという噂の東征軍と戦うため、一橋家の家臣や好戦派の幕臣たちが集まって隊を組むという噂は、可憐も耳にしていた。 でも──まさか、魅録が参加するとは夢にも思ってなかった。 だって、堅苦しい宮仕えなんてまっぴらごめんだ、と何度も口癖のように言っていたし、身分ですべてが決まるこの世の中は間違ってるって、 あたしに話してくれたじゃないの。幕府軍は勝てない、世の流れは薩長軍にあるって。無駄な血を流す必要なんかないって。 もうすぐ、大手を振っておめえを女房にできるぜ、って。 「これは、男の一分(いちぶん)なんだ。このまま黙っていたら、男の一分が立たねえ。おめえなら、分かってくれるな、可憐」 分かるわけがない。 男の一分って、一体なんなの。あたしには関係ない。あんたの傍にいたいだけなのに。あんたが言ってた通り、 世の中が変わってゆくのをただ待ってるだけじゃ駄目なの? 「俺は、江戸で生まれて江戸で育ってきた。おめえだって──他のみんなだってそうだ。江戸は俺達のもんだ。 薩長の奴らの自由にさせていいわけがない。俺は……江戸を守りたい」 江戸が一体なんなの。あんたにとっての一番は、あたしじゃなかったの? 魅録の顔が歪んだ。可憐を抱く腕に力がこもる。触れる唇。まるで、別れを告げるかのような。 だけど── 可憐は思わず突き放していた。もう、魅録を引き留める力はあたしにはない。最後には、うん、とうなずいていしまうだろう。自分の心を偽って。 可憐は逃げ出した。あのときは、そうするしかなかった。 その瞬間、手につかみかけていたはずの幸せが、身をくねらせて逃げ出したのだった。 舳先に設えられた夜具の中で、魅録が身を起こした。枕を引き寄せ、胸元に抱え込む。うつぶせのまま手を伸ばして、乱れた可憐の髪を指に巻きつけながら呟いた。 「俺は情けない男だな。おめえを抱くと決心が揺らぐ。分かっていたのに、おめえに会わずにはいられなかった」 「そんなことないわよ。あんたは、情けない男なんかじゃない」 そんな自分を卑下するような言い方、あんたには似合わない。 可憐は手を伸ばして魅録の頬を撫でた。うっすらと痩けた頬を覆う無精ひげが、掌に触れる。今までになかった感触。 「髭をあたる余裕もないほど、逃亡生活ってのは厳しかったのね。月代も伸びかけてるし。まるで、貧乏浪人みたいよ。 あんたには似合わないわ。あたしがきれいにしてあげましょうか」 祈る気持ちで言った。もちろん、こんなところに剃刀はない。 あたしの家に来て──そうしたら、あんたを羽交い締めにしてでも、上野には帰さないんだから。 だが、そんな可憐の思いに気づいたのか、魅録は口の端で薄く笑った。 「いや、いい。どうせなら、伸ばそうかと思っていたんだ。……そういえばな、知ってるか、可憐。これから先の世はな、 髷は似合わないらしいぜ。月代も伸ばして──西洋風に短く切るのが流行るんだそうだ」 「あんたが、西洋人のまねをするっていうの? やめてよ──美童ならともかく」可憐は夜具の中で身を竦めるようにして笑った。 「あんたには、髷と着物がお似合いよ。根っからの侍なんだし、それに……この彫り物。刺青してる西洋人なんていないでしょ?」 今宵初めて目にした刺青。可憐は身を起こし、魅録の背中越しに左の上腕にある刺青に触れた。 最後に会った二月のあの日。あの夜にはなかった刺青。一体いつ彫ったものなのか。あのとき──清四郎が会津に行くと言い出したあの日には、 すでにあったのだろうか。 鍛えた筋肉がくっきりとうかぶたくましい腕に散る、鬱金色の桜。八重の花が咲き誇り、風に流れるように舞うひとひら。 「あんた、清四郎に対抗するつもり?」 からかい半分に言ってみる。そういえば、いつだったか、清四郎が魅録に刺青の話をしていたことがあった。 「そう、見えるか?」 肩越しに、ちらりと見やるその目にも声音にも、どこか怒りのようなものがかいま見えて、可憐は思わず肌に触れている手をひっこめてしまった。 言葉もなく、ただ魅録を見返す。 魅録は横になったまま、上半身だけを可憐に向けて言った。 「俺の右腕は、刀を握る腕だ。公方さまの為に、最後まで戦うためのものだ。そして俺の左腕は──可憐、おめえのものだ。 おめえを抱くためだけにある。その、証として彫った」 「あたしは──あたしは、悠理みたいな彫り物はご免よ」 ついと、口から飛び出た言葉に、自分が情けなくなる。 こんなこと言うつもりじゃなかったのに。 この期に及んで素直になれない自分が苛立たしい。 「俺も、おめえのそのきれえな肌に、傷をつけてほしいなんて思っちゃいねえよ」 耳元で囁いて、可憐の豊かな胸に口づける。柔らかくてあたたか感触に思わず身をよじると、より一層強く抱きしめられた。 「……すまねえな」 魅録のかすれた声。それが可憐の心の中に届くよりも先に、身体が離れていった。 「……魅録!」 慌てて身を起こした可憐の目の前で、魅録は手早く着物を身につけてゆく。 あまりに突然の、別れの言葉。まるで、ひとときの逢瀬は、夢まぼろしであったがごとくに。 「どこに行くの。上野に戻るのは、明日じゃなかったの?」 「すまねえな。親父とおふくろにも会っておきたいのさ」 「明日の朝、行けばいいじゃない。今夜は『千鳥』にでも泊まって」 また、魅録があたしの手から逃げてゆく。まだ、何も話してないのに。あたしの心は満たされてないのに。 「そういうわけにもいかねえよ」帯を締めながら苦笑する。「夜でなけりゃ、屋敷には戻れねえ。薩長のやつらが見張ってるんだ」 可憐はくちびるを噛んだ。魅録に向けて伸ばしかけた右の掌を握りしめる。 あたしには、魅録を止める力はない。 でも、このまま別れを受け止めることもできない。 可憐は夜具の傍に置かれた襦袢を引き寄せ、身につけた。火照った体に、着物のひやりとした感覚が馴染んでゆく。 障子を開けた。水面と夜空の境界に、ぼんやりといくつかの灯りがたゆたっている。夜風が屋形船にするりと入り込んできて、 二人の吐息が混じる濃密な空気を流していった。 「あたしも行くわ」 「行くって、おめえ」 「松竹梅家の屋敷まで、あんたを見送ってゆくから」 きり、と魅録を見据える。もう二度と、あんたの前から逃げない。 「そいつは勘弁してくれ」 魅録の顔が歪んだ。 「ここで、別れよう。もうすぐ船頭が戻ってくる。『千鳥』に部屋が取ってあるから、おめえは泊まっていってもかまわねえし、 日本橋に帰るってえなら、『千鳥』の者に送ってもらいな」 「どうして駄目なのよ。あんたと一刻でも一緒にいたい……あたしの気持ちを、どうして分かってくれないの」 「俺だって、おんなじだ。だが、きっと、おめえに家まで見送られたら、俺は明日上野に戻れなくなる」 魅録は吐き捨てるように言って、肩を落としてうつむいた。肩が震える。膝のうえに置かれた握り拳に、力がこもったのが可憐にも分かった。 「上野に戻れば、生きて戻って来られる可能性は少ない。俺だって、それは承知の上だ。だが、誰だって死ぬのは怖い…… みんなそんな不安を押し隠して戦っているんだ。残されたおめえたちの不安な気持ちも、十分承知の上だぜ」 「それじゃあ、言いなさいよ」可憐は魅録に縋りついた。「清四郎が悠理に言ったみたいに。あたしにも、無事に戻ってくるのを信じて待ってろって」 嘘でもいいから。 魅録は面を上げた。わずかに潤んだ目を可憐に向けて、口を開きかけたが──力無く首を振った。 「どうして言えないの! あんた、前に言ったでしょ。彰義隊に加わるのは、男の一分のためだって。だったら、あんたを信じて待つのが、 あたしの……女としての一分よ。あんたは、あたしの一分を立たせないつもり?」 この一月、姿が見えないあんたを待ち続けてきた。あと二日ですべてが終わるのなら、そのくらい待つのなんて簡単だわ。 「めちゃくちゃ言うな」 そういう魅録の口調には、苦い笑いが含まれていた。 魅録は可憐に向けて口をゆがめるようにして笑いかけ、つと腰をあげて艫の方に行った。見守る可憐の目の前で、刀掛けにかけた大刀を取り上げる。 「可憐」 目で、こちらに来るよう伝えてきた。 可憐は身をかがめるようにして、傍に行く。座敷にぺたりと座ると同時に、魅録が大刀を差し出してきた。 「これを、預けておく」 「預けるって……こんな大切なもの! 第一、これから戦さでしょ? 刀がないと困るんじゃないの」 魅録は静かに首を振った。 「上野で戦う俺は、彰義隊としての俺だ。おめえも見ただろうが、隊士は朱鞘の刀を使う。明後日は、そいつで薩長の奴らと戦うつもりだ。 だからこれは、おめえに預けておく。刀は、武士の魂だ。その魂を、おめえのところに置いてゆくから、待っていてくれ」 右手で刀を持ち、左手を伸ばして可憐の手をとった。そして刀を、その華奢な手に預ける。 可憐は、慌ててもう一方の手を刀に添えた。両手でないと支えきれないほど、ずっしりと重い。魅録の魂の重みのように、可憐には感じられた。 「無事で、戻ってきてよ……お願いだから」 ぱたり、とひとしずくの涙が、黒く鈍い光を放つ刀の鞘に落ちた。 「あたし、待ってるから。家で……ううん、根津の寮で、毎日あんたの食事の用意をして待ってるから。怪我ひとつない、無事な姿で戻ってきて」 涙が、あとからあとから零れてきて、可憐は顔をあげることができない。笑って見送ってあげたかったのに。 応えはなかった。たん、と障子が閉まる音が聞こえただけだった。 時代劇部屋 |