大江戸有閑倶楽部幕末編
『一分の花』 池田さり様作


〜 四 〜



 慶応四年(1868)五月十五日未明、雨が降りしきる中で上野への総攻撃が始まった。
 上野の山に向けられたアームストロング砲の轟音が響く中、可憐は野梨子と美童と共に、上野を迂回するようにして根津に向かった。 そちこちで東征軍の見張りが立っていて、物陰に身を隠しながら裏通りを進む。可憐の前を進む、野梨子のすぼめた蛇の目が、 大砲の音が届くたびに飛び上がるように震える。
 剣菱の寮にたどり着いたときには、すでに昼を回っていた。東征軍が上野を攻撃するという噂を耳にしたのか、留守を任されていた老夫婦の姿は見えない。
 三人は、いつも六人で集まっていた座敷に集まり、魅録の無事を祈りながら待った。雨はずっと降り続いている。 激しく瓦を叩き、地に降り注ぐ。空は鈍色に染まり、ここから上野の山が見えないほど白く煙っていた。
 雨が降っていてよかった、と可憐は神仏に祈りながら思った。雨がなければ、上野の山を埋め尽くす鉄砲の音、刃を交わす隊士達の喊声が この根津の寮まで届いていたに違いない。
 それだったらきっと、ここで魅録を信じて待ってはいられなかっただろう。
「可憐、魅録はきっとだいじょうぶだよ」
 自身震えながらも励まし続ける美童の声も、可憐の耳に入らない。
「そうですわ。きっと、ここに戻ってきますわよ」
 身体を支える野梨子の温かい手も、恐怖に凍りつく可憐の身体を温めることはできない。
 戦さは、あっけなく終わった。暮れ六つ前には、すべての音が消えた。
 彰義隊は破れた。東征軍の前に、壊滅的に敗北した。
 可憐たちは待ち続けた。生き残った彰義隊は各所に散り、残党狩りの目をかいくぐって逃げているという。
 だが──
 江戸の地を赤く染めた悪夢の日が終わり、新しい日がまばゆい太陽の光を伴って訪れても、魅録は可憐の元に戻ってはこなかった。
 


 可憐は、上野不忍池の前に佇んでいた。夏の暑い盛り、咲き乱れていた不忍池の蓮の花も、今はもう焦茶の花托だけが身を縮め、枯れ始めた大きな葉に隠れるようにしている。水辺で風に揺れているのは死者を弔う彼岸花。まるで、上野の山に散った彰義隊士の流した血の色のように、深く紅い。
「可憐、またここにいらしてたのね」
 振り返ると、可憐と同じように哀しみをたたえた瞳で不忍池を見つめる、野梨子と美童がいた。
「お店が忙しいって言ってたのに、どうしてもここに来てしまうんだね」
 美童がかすかに笑う。
「それは、あんたたちだって同じでしょ。二日に一度はここに来てるって、小父さまがおっしゃってたわ」
「だって……魅録は生きているって信じていても、時々、ふとした瞬間に不安になってしまうんですの。気づいたら、ここに来てしまっている……」
「もう、三月になるんだね」
「………」
 生きていると信じながら可憐は根津の寮で待つ続けたが、魅録は戻ってこなかった。
 まさか──と思い、新政府軍に逮捕されながらもようやく戦死者供養の官許を得た円通寺の和尚に、野梨子の父に描いてもらった人相書きを渡し、 遺体が見つかったら知らせてくれるよう頼み込んだが、答えは、否、だった。中には、顔が判別できないほどの遺体もあったという。 魅録の左腕の刺青も話したが、それでも否という答えしか返ってこない。
 ならば、きっと──魅録は生きている。
 それだけを信じ、なおも可憐は根津で待ったが、次第に新政府軍の彰義隊残党狩りが厳しくなり、剣菱の寮も例外ではなくなった。
「魅録さんが戻ってこられましたら、必ず、お知らせに参りますから」という、留守居の老夫婦の言葉を信じ、可憐は日本橋に戻った。 だが、毎日魅録の分も食事を作り──時間の空いたときはこうして上野にまで出かけてゆく。
 そうして、あの上野の戦さから一月たち、二月たち、あっという間に三月の日が流れた。夏が過ぎ秋が来ても──暑い陽差しがやわらぎ、 涼しい秋の風が吹くようになっても、約束した根津の寮に、魅録は姿を現さない。
「可憐、僕、タニマチの人たちに魅録の人相書きを渡して、それらしい人物を見かけたらすぐ連絡してくれるよう頼んであるから」
 美童は世の中の流れに変わりなく、役者を続けている。
 今までの生活を変えない──それだけが、僕が唯一出来る戦いだからね。
 美童の芸は、新政府軍となった薩長の連中にも好評だという。そのうちきっと、美童は新政府を支える重鎮たちの妻子まで、虜にしてしまうのだろう。
「私、昨日菊翁の小父さまのところに行ってまいりましたのよ。以前、魅録が身を隠していたとき、お世話になっていたとおっしゃってましたでしょ」
「そうよ、そうだったわ。菊翁の小父さま……あたしったら、こんな大事なこと、忘れてたわ。何か分かったの?」
 そうよ、忘れていたわ。あいつのことだから、あたしに迷惑がかかるのを恐れて、前みたいに隠れているのかもしれない。
 だが、可憐のわずかな期待もむなしく、野梨子は首を振った。
「ごめんなさい……可憐。でも、魅録の噂を耳したら、すぐに私たちに連絡してくれるそうですわ」
「ううん、いいのよ。みんなが探してくれてるのよね。だから、きっと、もうすぐ魅録は見つかるわよ」
 魅録の無事を祈っているのは、なにも自分だけではない。魅録の父松竹梅時宗は、今は南の市政裁判所と名を変えながらもそこに残ったかつての部下たちに、 密かに魅録の行方を捜すよう命じているという。そして、魅録が可愛がっていた岡っ引きたちも。
 生きているなら、きっと、近いうちに見つかるかもしれない。
「あたしは、無事で戻ってくることを信じて待ってるって、あいつに言ったのよ。約束は、守らなくちゃね。でなけりゃ、あいつが戻ってきたときひどく叱られるわ」
 可憐は、きり、と強い視線を不忍池に向けた。この紅く染まった上野の山が雪に覆われても、冬が過ぎて桜の季節になっても…… またあの暑い夏がやってきても、あたしは信じて待っている。
 あたしの傍にいてくれる野梨子や美童と一緒に、いつまでも待っているんだから。



 いつものように、変わらぬ毎日の始まり。可憐は「黄桜」ののれんを出すために、朝日がまぶしい表通りに出た瞬間、 裏の路地からにゅっと伸びた手に腕を掴まれ、悲鳴を上げる間もなく裏路地に引きずり込まれた。
「だ、誰!」
 思わず身構えながら振り向くと、「剣菱屋」の印半纏に縞の着物という奉公人姿の小助が、しぃーと、指を唇に当てていた。
「可憐さん、お静かに」
「こ、小助さん! びっくりするじゃない、もう」
 手を胸に当てる。心の蔵がひっくり返ったように、まだどきどきしていた。
「驚かないでくださいよ。魅録さんが……見つかりました」
「えっ!」可憐は小助の半纏を掴んだ。「どこに? どこにいるの?」
「申し訳ありません、今はまだ言えません。ですが、あっしについてきてください。それと……お母上にはご内密にお願いします」
「分かったわ」
 それ以外に何と答えられただろう。可憐は先に立って小走りに駆けてゆく、小助の後を必死に追った。
 小助は日本橋駿河町にある、「剣菱屋」の屋敷に入っていった。玄関口で待ちかまえていたらしい万作が可憐を手招きする。
「可憐ちゃん、こっちだがや」
「小父さま……魅録がここに?」
 万作の後に従って延々と続く廊下を歩きながら、広大な剣菱屋の屋敷を見渡す。今まで何度となく悠理に会いに訪れていたが、 今日ほどここまで広いと思ったことはない。
「うんにゃ。ここにはいねえだ。薩長の奴らの目をごまかすために、あんたにここに来てもらっただけだがや」
「じゃあ、一体どこに?」
 言いようのない不安が胸を押し寄せてくる。こうまでして人の目を憚らねばならないほど、魅録が置かれている状況は厳しいのだろうか。
 ううん。それよりも……無事でいるんだろうか。すぐに会わせてもらえないのは、もしかしたら……あたしと顔をあわせられないほどの、 ひどい怪我を負っているんじゃあ。
「小父さま……魅録は無事で?」
「さあ……それはわしも知らん」
 万作は、すまなそうに首を振った。
   枯山水の中庭をぐるりと回って、ようやく、裏口らしい場所に出た。外に出ると、駕籠が待っていた。
 可憐は、万作に促されるままに駕籠に乗った。駕籠かきが威勢の良いかけ声を発しながら、走り始める。
 いつも以上に、可憐には駕籠がのんびりと感じられた。もっともっと揺れても構わないから、早く魅録の所に連れて行って。
 どこに行くか分からない不安はまるでなかった。ただ、一刻も早く魅録の無事の姿を見たかった。
「お嬢さん、つきました」
 四半刻もしないうちに声がかけられ、可憐ははやる鼓動を押さえながら駕籠を降りた。
「ここは……」
 可憐は息を飲んだ。
 根津の剣菱家の寮が目の前にある。門の入り口に、深々と頭を下げた老夫婦がいる。
「ここに、魅録がいるの?」
 だが、老夫婦は言葉もなく、ただ頭を下げ続けている。
 可憐は息を整えて、中に入った。もしも、魅録が無事な姿でなくとも、あたしは絶対にあいつを責めたりはしない。ただ笑って、「おかえり」って言ってあげよう。
 いつもの座敷。六人で集まってご飯を食べたり、くだらない話に花を咲かせたりしたあの場所。魅録が待っているなら、きっとあの部屋のはず。
 可憐は震える手を伸ばし、閉じられた唐紙をゆっくりと開けた。


 
 そこには魅録がいた。障子を背に、秋のささやかな花が咲く庭を眺めるようにして。
「……魅録」
 可憐の涙混じりの声に、魅録が振り向いた。五月のあの晩、伸びかけていた月代はすでになく、総髪になっている。 陽によく焼けていた肌はまるで病み上がりのように青白く、精悍な顔つきは影をひそめ、痩せて尖った顎だけがただ目立った。
「……よう」
 穏やかに笑いかけてくる。左手を挙げて可憐を手招きした。その拍子に、肩に羽織っただけの羽織がするりと落ち、 着物の上からもそれと分かるほどの痩せた肩に、また可憐は泣きそうになった。
「………」
 言葉がでなかった。いろんな思いが頭の中を駆けめぐり、なにひとつ形にならない。
 可憐は魅録に駆け寄った。だが、その身体に抱きつくことさえ躊躇われて、羽織を肩にかけてあげることしかできない。
「待たせたな」
 羽織を掴む手に、魅録の手が重なった。その掌さえ、こころなし薄くなったように感じる。
「ううん……あんた、ここであたしを待っていてくれたんでしょ。だって、女を待たせない主義って、言ったじゃないの」
「そんなことも言ったっけな」
 目元に浮かぶ苦笑い。あたしが知ってる、魅録の笑い。
「だが、おめえとの約束は守れなかった」
「ううん。あんたは、ちゃんとあたしの所に戻ってきたじゃない。約束した、この場所に」
 背中から抱きつく。腕を回すと、以前より魅録の身体が小さくなったのが分かった。また、涙が浮かぶ。でも……それでも、ちゃんとあたしの元に戻ってきてくれた。
「それでも、三月は長かっただろう」
「………」
 答えられなかった。こうやって会ってしまうと、三月でさえも短かったような気がしてくる。
「あの日、なんとか上野から逃げた……でもな、ここには来られなかった。ここは上野に近すぎる。東征軍の兵士がいたるところにいてな。 江戸中を逃げ回っていたんだ。一度は、江戸から出ることも考えた」
「前みたいに、菊翁の小父さまを頼ることは考えなかったの」
「あそこにも、手が回っていたんだ……あの時はな」
 魅録の左手が、優しく可憐の手を撫でる。
「あんた、こんなに痩せちゃって……病気でもしてたんじゃない? まともな食事もしてないんじゃないの」
 可憐はくるりと魅録の正面に回って、しっかりと見据えた。病み上がり──と言ってもいいほどの、覇気のない表情。手も筋張って、腕まで細くなったようだった。
 可憐は魅録の膝に置かれた右手を取った。そして、目を見張った。
 力のない右手。まるで、何か重い棒を手にしているかのような。
「魅録……あんた」
 掌を触る。少し力を込めて──だが、少しも反応は返ってこない。筋肉まで失われて、ただの柔らかな感触しかない。
「俺の右腕は、どうやらもう使い物にはならないらしい」
 じんわりと広がる、自嘲の笑み。魅録は、なんの感慨も浮かばない静かな目で、自分の右手を見下ろした。
「逃げ回ってるうちに、東征軍のやつらとやり合いになった。向こうにも、手練れはいるみたいだな。右腕をやられた。 こいつはいかん──と思った。瞬間、死も覚悟した。覚悟がきまりゃ、人間なんでもできるもんだな。 小助を頼ったんだ……あいつは俺のために、危険を冒して菊翁のじいさんにつなぎをつけてくれたんだ」
「菊翁の小父さまが」
 野梨子が行ったときには、魅録のことは知らないと言ったのに。
 可憐の気持ちに気づいたのか、魅録が釘をさした。
「じいさんを恨むなよ。俺が、教えるなって言ったんだ」
「でも、あたし……野梨子も美童も、それこそ夜も眠れないほど、あんたを心配してたのに」
「怪我が思っていたよりひどかったのさ。医者に、右腕を切り落とした方がいいって言われた」
「そんな!」
「でもな、おめえと約束しただろう。無事におめえの元に戻ってくるって。腕一本でも失ったら、無事とはいえねえだろ? だから俺は、腕は死んでも切り落とさねえって言ったんだ」
 魅録が笑う。なにもかも吹っ切ったとばかりに。
「ま、五体満足ってえわけにはいかなかったがな。右腕は動かなくなっちまったし。でも、俺には左腕がまだある。おめえを抱くためにある、この腕が」
 言って、左腕で可憐を抱きしめる。以前のように、息もできなくなるほどの強い抱き方ではなくなっていたが、それ以上に優しい抱き方だった。
「もう、侍の世は終わりだ。刀なんか持てなくても生きてゆける。おめえの傍で、小間物問屋の主人をやるのもいいかもな──って思えるようになった」
「……ばか」
 可憐は泣いた。嬉しさと哀しさが混じり合った涙が、魅録の胸の中でいつまでも流れ続けた。 




〜 終章 〜



『可憐、野梨子、美童。えっと、それから無事でいることを信じて、魅録。
 あたいと清四郎は今、宇都宮にいるんだ。うちで番頭やってた卯兵衛ってやつが、こっちでのれん分けして店をだしてるんだ。そこにしばらくやっかいになってた。
 今、清四郎は出立の準備とかで町にでてる。おまえらに書く手紙、清四郎が書けって言ったんだけど、自分が書くとみんなが余計に心配するから嫌だって清四郎が渋って、 結局あたいが書くことになったんだ。どうしてみんなが心配するんだろ? 無事を伝える手紙なのにさ。意味、わかんないよ。野梨子なら、分かるのかな?
 きっと、みんな、あたいたちのこと心配してたんだろうな。江戸にはもう、会津が負けたこと伝わってる?
 あたいたちは無事だ。会津の負けは──宇都宮に向かう道中で聞いた。それと、上野の負けも。どこもかしこも、薩長の連中が大きな顔をしてる。 宇都宮に入るまでは、あたいたちも大変だった。
 会津の戦さには、結局あたいたち、参加しなかった。薩長のやつらが会津を囲む前に、松本先生に言われたんだ。ここから出てゆけ──って。
 もちろん、清四郎は承知しなかった。あたいは、清四郎にどこまでもついていくつもりだったから、何にも言わなかった。先生は、困った顔してたな。
 なあなあ、松本先生ってすごいんだぜ。あの清四郎を言い負かしたんだからな! 清四郎が負けたのって、雲海のじっちゃん以外に、あたい、知らないよ。 医者としての腕もすごいもんだったけど、まさか清四郎に勝つなんてな!
 そいで、あたいたちは会津を出た。最初は仙台に行って船に乗るつもりだったけど、仙台も会津の味方をしてたから、 そう簡単は近づけなくて、陸路を行くしかなかった。薩長の連中を見かけるたんびに隠れたりしてさ。 これ言うと怒られるんだけど……清四郎はずっと難しい顔をしてたけれど、あたいは楽しかった。 清四郎とふたりっきりで旅をするなんて、初めてだったもん。怖いもんなんか、なんもなかったし。
  えーと、それでようやく宇都宮に入ったのが十月の終わりだったかな。ここからは多分、なんも問題なく江戸に戻れると思う。
 早く江戸に戻りたいよ。おまえらの顔が見たい。もしかしたらこの手紙より先に、あたいたちが江戸に着くかもな。だって、もう江戸は目の前にあるんだからさ。

 そしたら、また一緒に遊ぼうな。六人そろって、前みたいにさ! 世の中が変わったって、あたいたちは絶対変わらないって、薩長のやつらに見せてやろうよ。
 そんときが、今から楽しみだな。おまえらも楽しみに、あたいたちが戻ってくるのを待っててくれよな!』










**あとがき**

 幕末を舞台にした某小説を読んで、突然書きたくなりました。彰義隊士とその情婦の別れの逢瀬。
彰義隊士ならば魅録が似合うだろうと、魅録と可憐を中心に書かせていただきました。清四郎と悠理がほとんどなくて、申し訳ございません。
 幕末が舞台なので、将軍の孫という悠理の設定が使えなくなりましたので、「大江戸有閑倶楽部」の番外編とでも受け止めていただければ幸いです。
 そして、幕末ということで、ネットで出来る限り調べましたが、分からないことも多々あり、時代考証として嘘の部分があるかもしれませんが、 お目こぼしをお願いいたします。
 読んでくださいまして、ありがとうございました。

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