外伝 〜大川情話〜 かめお様作 |
大川を滑るように舟が行く。 船頭の魯が、水面(みなも)を掻くたびに、水が渦になってはまた消える。 くるり、くる、くる。 緋色の頭巾を緩め、黄桜可憐はその水面を飽くことなく眺めている。 まるで、いまの自分の心のようだわ。 可憐は、声にならない声で、嗤う。 くるり、くる、くる。 可憐は、これから会うであろう相手との、その遣り取りを思い浮かべて、悲しげに溜め息をついた。 松竹梅魅録は、深川の船宿「喜千」の一間にいた。 主人が昔、父であり、南町奉行である松竹梅時宗に世話になった男で、魅録のことは下へはおかぬ。 魅録は細く開けた障子の影から、大川を行く船を眺めている。 今日は来ると約束をした。 今日来なければ、己が出向くと、半ば脅しのように告げると、あいつは悲しげに眉を動かし、頷いた。 未練たらしい男なのか、と、自分に問いかける。 いや、そうではない。 あいつは、この世の中の仕組みを越えられぬというだけなのだ。 それならば、この俺が壊してやる。 魅録の瞳には、決意にも似た色が浮かんでいた。 船宿の「喜千」の前に立つと、可憐は眉を顰めた。 自身の身を抱きかかえるように、腕を組むと、ぶるりと震える。 あの人と、ここであったことを思い出す。 甘く、切ない、あの日を。 己(おの)が純情の証として、この身をまかせた。 それを後悔などしていない。 ただ、それがあの人の枷となるのが嫌なのだ。 女中の案内で、部屋の前に立つと、可憐は緋色の頭巾をするりと取り、小さく息を吸った。 「ごめんなさい。待たせたようね」 満面の笑みで、可憐は魅録に笑いかけた。 「いま、いろいろとやらなきゃいけないことがあって、店を抜けてくるの大変だったのよ」 可憐は明るい声でそう言うと、魅録の前へ座った。 「やらなきゃいけないことって、養子取りのことか」 魅録の言葉に、可憐の笑みが固まった。 「浅草の蝋燭問屋の戎屋の次男坊と、縁談話があるそうだな」 可憐は薄く笑うと、 「さすが、魅録。あんたに隠し事はできないわねえ」 可憐は杯に酒を注ぐと、くいっと飲み干し、唇の端を赤い舌で舐めた。 「戎屋の縁談は、破談になるぜ」 「なんですって」 「あの新三郎って次男坊には、芸者との間に子供までいるんだよ」 「…別に、隠し子くらい、あたしは気にしないわよ」 可憐は、魅録を睨むように、 「でも、もうあんたが戎屋さんに手を引くように動いてるんでしょ…仕方ないわね…他を当たるわよ。あたしには降るように縁談があるんですからね」 「どんなとこから話があったって、俺がみんな壊すぜ」 「あんた、あたしを行かず後家にするつもりなの」 可憐が気色ばむと、魅録が笑いながら、 「お前は俺の女だ。誰にも渡しやしねえよ」 魅録の指が、可憐の唇をなぞるように触れた。 可憐は一瞬うっとりとした表情を浮かべたが、すぐに顔を背けると、 「たかが一度、あんたと寝たからって、俺の女呼ばわりされちゃ…可憐さんの名がすたるわねえ」 「たかが一度じゃねえ。お前にとって、大切な一度だ」 魅録の手が、可憐の顔を挟み込むようにし、己の方を向かせた。 「世間ではいろいろな浮き名を流してるが、お前がどれほど身持ちの堅い女かってことは、俺たちが一番知ってる。そのお前が、この俺に身をまかせたんだ。その気持ちが、わからねえほど俺は唐変木じゃねえよ」 「魅録…」 「お前は、俺の妻になる女だぜ」 可憐は、魅録の手を振りほどくと、 「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ。あんたは三千石のご大身の若さま。あたしはしがない小間物問屋の娘よ。身分違いもいいとこじゃないの」 可憐は、魅録に背を向けると、 「いつまでも子供気分じゃいられないのよ。こうしてつるんでいることだって、あんたにとってはいいことじゃない。たがか小間物問屋の娘とあんたとじゃあ、世間様が許さない。松竹梅家のお名に傷がつくようなことがあったら、お奉行さまの身にもご迷惑がかかるのよ。あんたも嫡男なら、その辺をよく考えなさい」 「世間が何と言おうが、俺は構わないぜ」 「あんたが構わなくったって、あたしが構うのよ」 可憐の背が、小刻みに震えている。 魅録は、そっと後ろから抱きかかえるように腕を回すと、 「侍だ、町人だって、馬鹿げた身分制度がなくなる時代がじきにやってくるさ。今だって、俺たち武家より、町人の方がよほどいい暮らしをしているじゃねえか」 「…そんな時代がくるまでなんて、待てないわよ…」 「待たなくてもいい。俺が、そんなもの、壊してやる」 魅録が、可憐のうなじに唇を付けた。 可憐は、甘い吐息を漏らしたが、 「…お願い…やめて」 と、懇願するように、魅録の腕を振りほどいた。 「縁談の話は当分見合わせるわよ…あんたに壊されて噂でも立てられたら困るもの」 可憐は立ち上がると、魅録の目を見つめ、 「でも、あたしは、もうあんたとは寝ない」 と、きっぱりと言った。 「俺が、この次にお前を抱くのは、婚礼の夜だ」 魅録は、そう答えて笑った。 男は、その女の目の中に、己のために身を引こうとする健気さを見、 女は、その男の目の中に、一途な情熱を見た。 可憐は、泣きそうな、嬉しそうな、複雑な笑みを浮かべ、部屋を出る。 障子を閉めると、涙が溢れてき、それを隠すように緋色の頭巾をかぶった。 「船頭さん、呉服橋までお願いね」 船頭が櫓を入れると、するりと舟が川へ出る。 横目で「喜千」を眺めると、大きく開いた窓から、魅録がこちらを見つめていた。 魅録は、可憐の乗った舟を見ていた。 緋色の頭巾の下で、あいつは泣いているのだろう。 この世の中は、力さえあれば道理が引っ込む。 町家の娘を武家の嫁にする手だてくらい、俺だって知っているさ。 お前を手に入れるなら、俺は悠理の母上にだって頭を下げる。 家を出ることも厭わねえが、そう言ったらお前のことだ、俺の前から消えちまうだろう。 だから、俺は、堂々とお前を手に入れる方策を考えるさ… 「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす…か」 魅録は、こちらを振り向かぬまま、ゆらゆらと揺れる舟で遠ざかる可憐の後ろ姿を見送った。 夕暮れ時、夕日が川面を赤く染める。 年配の船頭が、唄を口ずさみながら、櫓を入れていく。 水面に泡が立ち、戻る。 波風が立っても、そのうちに凪ぐだろう。 魅録とあたしの間も…きっといつかは… 可憐は、緋色の頭巾を取ると、まっすぐ前を見据えた。 夕日が可憐の白い肌を染め、その横顔にはもう涙の跡はなかった。
新幹線の中で、ふと浮かんだ光景が、大川を舟でいく可憐の姿でした。可憐と魅録の組み合わせが好きなのと、また、この二
人の方が身分的にも物語になると思いまして、カップリングしてみました。 時代劇部屋 |