『美人局』 池田さり様作 |
〜 一 〜 その日、珍しく美童は荒れていた。いつもなら芝居がはねた後は、猿若町にある市村座からタニマチの娘や大店のお内儀(おかみ)たちを引き連れて、柳橋にある有名な料亭に繰り出し美酒美食に酔いしれるのだが、今日だけはそんな気になれなかった。 先日、初日を迎えた芝居は「仮名手本忠臣蔵」で、美童は初役となるお軽の役をもらったのだ。清元の舞踊「道行」と短い演目だが、美童の憂いを含んだお軽は、市村座に押し掛けた女たちの熱い視線の的で、勘平を当たり役と、自他ともに認める人気役者までも霞んでしまうほどの熱狂ぶりである。 女たちにちやほやされるのを生き甲斐としている美童には、もちろん得意の絶頂にあったのだが、今日、彼にしては珍しく失敗をしでかしてしまった。 踊りの振りを間違えてしまったのである。一つのささいな間違いが大きな齟齬をきたし、この日の「道行」はさんざんなできになってしまった。その後、出演した「九段目」の力弥もあまりいい出来とはいえず。 当然、美童は大目玉を食らった。今後このような間違いを犯したら、お軽役から降ろさせる──と。 そうして、美童は一人上野まで出かけて、見かけた居酒屋にふらりと入り──やけ酒を飲んでいるところなのである。 美童の、体内を流れる異人の血を濃く表す白い面を、居酒屋の安酒で紅く染め、申し訳程度の肴で盃を重ねる。空の銚子が一つ二つと増えてゆくたび、怒りと苛立ちで満ちていた頭に酔いが満ちていった。口には出さず、頭の中で勘平役者に悪態をつく。何度も何度も。 そうしてどのくらい時がたったのか。 ふと気づくと、目の前にほんのりと顔を上気させた色っぽい熟女が、美童の銚子から酒を注いで飲んでいた。 「あたしもねえ……あんな亭主帰ってこなくていいって、心の底じゃあ思っているんですよ」 女は憂い顔で、酒色に染まったため息をこぼす。 (あれ……この人誰だっけ?) 美童はとろりとなった頭で考えた。朦朧となった記憶をたぐり寄せ、ようやく思い出した。この居酒屋に入ってまもなく、「あら、いい男が一人で酒を飲むもんじゃないわよ」と声をかけてきて、なかなかいい女だったので美童もうなずき──差しつ差されつとなったのだった。 「上方で一花咲かすんだと出ていって、もう半年ですよ。その間、便りもなし。その日暮らしの生活がいやになったからって、あたし一人を置いて出ていくなんて、ひどいと思いませんか。ねえ?」 女はねっとりとした視線を美童に絡ませてくる。つんと上向いた鼻は小振りで鼻筋が通り、紅をさしたくちびるはぽってりとした肉感に溢れ、左側の下にほくろがあった。それがまた、男の情欲をそそってくる。 「こんないい女を一人寝させるなんて、どういうつもりなんだか。あの男を待っている間に、あたしは枯れてしまいますよ」 この言葉が意味するところは明瞭である。女は目だけで笑いかけ、手をのばして美童の首筋に触った。熱をもってほてった手のひらが、美童の身体に回っていた酔いをじんわりと醒ましてゆく。 美童はうなずいた。勘平役者に対する苛立ちが、きれいさっぱり消えてしまっていた。 「それで? 女の言うとおり不忍池中島にある出会い茶屋に入って、事に及ぼうとしたら、女の亭主とやらが出てきたわけですか」 ここは根津権現近くにある、瀟洒な寮である。暮れ六ツ半(午後七時ごろ)の鐘がなってようやく全員が集まり、美童の友人──御殿医の嫡男、清四郎はあきれ顔で言った。 「うん」 美童はしゅんと小さくなってうなずいた。 「美人局(つつもたせ)に合うとは、お前らしくないな」 笑い含みに言うのは南町奉行の嫡男、魅録である。 「美人局、ってなんですの?」 人形のごとき小作りの顔を傾けて尋ねたのは、江戸でも有名な絵師の娘、野梨子。箱入り娘の彼女が美人局を知らないのは、当然であるかもしれない。 「知らないの? 男を騙して情事に及ぼうとした瞬間に、亭主を名乗る男がその現場に飛び出して、相手からお金を脅し取ることよ」 まあ飲みなさいよ──と、うなだれている美童に酒を酌している娘は、小間物問屋の娘、可憐。数々の男と浮き名をながすだけあって、まことに色っぽい娘である。 「まあ、そうなんですの」 「ばっかだなー、美童。女を騙すのがお前の特技じゃなかったかー?」 がはは、と豪勢な笑い声を放ちながら美童の背中をばん、と思いっきり叩いたのは、江戸でも有数の豪商、剣菱屋の娘悠理だった。女の身でありながら男物の小袖に袴、長刀を腰に落としているのは、彼女の身体に流れる尊き血のお陰である。 美童は、口に含んだ酒を思いっきり吹き出してしまった。 「痛いなー、何するんだよ、悠理。それに、僕は女性を騙したことはないよ。向こうから言い寄ってくるんだからな」 「きっとね、女をとっかえひっかえする罰があたったのよ。天罰よ、天罰」 「可憐にだけは言われたくない」 「何ですって?」 ぎろっとにらみ合った二人を、清四郎が止めた。 「まあまあ、二人とも。美童も、今回は諦めることですね。勉強したと思って」 「そんなぁ」 「しかし、美童を狙うってのも驚きだな。美人局ってやつは、普通裕福な商人とかを狙うもんだろ? 美童が役者だって知ってて、やったのかね」 魅録の問いかけに、清四郎も眉を寄せて首を傾げた。 「そうですね……美童、その女に自分が誰だか言いましたか?」 ううん、と美童は答える。額に手を当てて、ふうと小さく吐息を漏らしてから付け加えた。 「酔ってたからあんまり自信はないんだけれど……」 「でも、この顔ですもの。ひと目見ただけで、役者って分かるのじゃありません?」 「役者ならなおのこと、美人局の獲物には相応しくないだろ。女には困ってない。そう簡単に引っかかりはしないだろうし、金だってそんなに持ってないからな」 魅録は吐き捨てるように言い、煙草の煙を横を向いて吐いた。美童には金持ちのタニマチが数え切れないほど付いているが、人気役者といえどもなにかと世情が騒がしい昨今、悠理たち豪商のごとく大金を持っているわけではない。 「それで、いくら払ったんです?」 美童はうつむいたま右腕をわずかに伸ばし、指を五本広げた。 「五十両?」 「……五両」 ぼそり、と答える。 「五両? たった?」 呆れたように呟く可憐に、美童は顔を跳ね上げて言葉を継いだ。 「だって、持ち合わせがなかったんだよ。仕方ないじゃないか」 「五両なら、すっぱり諦めたらどうです? 美童太夫の意地にかけて、なんて言わないほうが粋ってものですよ」 「欲がない野郎だったんだな。5両くらい、くれちまえ」 「なんだあ、五〇〇両かと思ったぞ」 「まあ、美童も安くみられたものですわね」 「大体、酔っていたからって簡単に女についていく美童も美童よ。そんなにいい女だったの?」 勝手にいいあう友人たちに、美童は恨みの目を向ける。 確かに、美人局にひっかかった自分が悪い。役者としての見栄があって、突然現れた女の『亭主』とやらに素直に金を差し出したのだから。やっぱり、友人たちに話すべきではなかったか、とも思う。 だがしかし──そのときに金を支払っただけではすまなかったのだ。 「その男……何度も何度も市村座に来るんだ」 消え入りそうな声で呟き、顔を覆ってしまった美童に、清四郎が鋭い目を向けた。 「今、なんて言いました?」 「男が、三日とあけずにお金をせびりに来るんだ。あのとき、手持ちに五両しかなくって、男は五十両払えって言ってたから──今はこれしかないけど、残りも用立てて渡すって言っちゃって……それで」 「道行」の演目が終わり、楽屋に入って化粧を落とした頃を見計らって、男はやってくる。無視していると、楽屋口であの日の出来事を大声で話しはじめるのだった。仕方なく付き人を追い払い、楽屋で手持ちのお金を不承不承ながら渡すと、男は美童の目の前で金を数え──また来ますぜ──と凄みを聞かせた声で言い、その日はなんとか帰ってゆくのだが、数日経ってまたやってくる。 その繰り返しが、もう三回も続いているのだ。最初は美人局に遭ったなんて恥ずかしくて清四郎たちに言えなかったが、ここまでくると美童の我慢も限度がやってきた。なんとかしてもらえまいか、と藁にもすがる思いでうち明けたのだが。 「こんの……大馬鹿!」 と五人が一斉に、美童に罵倒の言葉を浴びせかけた。 「男は市村座にやってくるんだろ? そこをひっつかまえて、こてんぱんに打ちのめしてやっちゃえばいいじゃんか」 悠理が顔を輝かせ、腕まくりをして殴る恰好をした。 「それとも、奉行所に突き出すか?」 魅録の父親は南町奉行だ。悪人を捕まえたとて、文句は出はしないだろう。 「でも、それでは美童の気がすまない──ってところですか?」 憮然とした顔つきの美童に、清四郎が尋ねる。しばしためらって、うん、と美童がうなずいた。 「あんた、お金を取り戻して欲しい、なんて言うんじゃないでしょうね」 「そうじゃないけど……できたら、向こうをひっかけてやりたいなあ、なんて」 話に乗ってきた友人たちにほっとしながら、美童は顔色を窺いつつ言った。 「それってつまり、美人局をやり返したい──そういうことですの?」 「うん……駄目かな?」 金も権力も、ありとあらゆるものを持つこの友人達ならできないことはない。期待して皆の顔を見つめると、五人はまじまじと美童を見つめ返したあと、くるりと首を回してお互いの顔を見合わせた。 顔がほころんでゆく。好奇心のかたまりといった瞳が輝き、もぞもぞと身体を動かし始めた。 「そりゃあ、他ならぬ美童のためだし?」 「六月はたいした行事もなくて暇ですから」 「面倒が起こっても、悠理の『生涯御勝手』があるものね」 「女を道具にする男って許せませんわ」 「決まりだい!」 ぴょんと飛び上がった悠理に、みんなの笑い声が重なる。 「みんなぁ」 ぐすん、と涙を浮かべた美童を放っておいて、清四郎は早速作戦会議に入った。 美童の楽屋を見張って三日目、ようやく獲物がやってきた。美童が話した通り「道行」が終わって四半刻(三十分)ほど経った頃である。 男はすり切れた縞柄の木綿を身につけ、月代は綺麗に剃ってあるが顎には無精ひげが目立っていた。どこかやさぐれた雰囲気を持っているが、歳のころは三十代そこそこか。頬がこけ、落ちくぼんだ目は凄みがあって、なるほどこれなら美童がびびって素直に金を支払うだろう、言いしれぬ迫力がある。美童の楽屋に通した付き人の童次も、芝居小屋に相応しくない男の後ろ姿に、不安げなまなざしを送っていた。 男はすぐでてきた。にやりと笑い、懐紙に包んだ金らしきものを懐にしまった。 清四郎、魅録、可憐、悠理の四人が後をつける。まかれないように、念には念をいれてだ。野梨子は美童と共に、芝居小屋で報告を待つことになっている。 清四郎の計画はこうだ。 まず、男の居所をつきとめる。それから男がどのあたりをシマにしているのか確認をしてから、罠にかける。美人局の妻役は当然可憐。亭主役は魅録に決まった。可憐が男を出会い茶屋に誘い、事に及ぶ寸前に魅録が飛び出し男に金をせびる。男が承諾したところで美童がでてゆき、もう二度と金をゆすりに来ないよう念書を書かせる──というわけだ。 男が芝居小屋が並ぶ猿若町をでてゆく。この四人が並んでいると目立つので、まず魅録が先に立った。後を可憐。次に悠理──というところで、悠理が清四郎の袂をくい、とひっぱった。 「何ですか、悠理」 六月もなかばを過ぎ、夏の熱気を含んだ風が、芝居町特有の人いきれと混じり合っている。そんな中、清四郎は端正な顔に汗ひとつも浮かばせず、滑るような足取りで歩いていた。 悠理がめずらしく、真面目な何か考えるような顔つきで清四郎を見た。 「うん……なんだか、気になってさ」 「美童のことがですか?」 「ううん、そうじゃなくて。なーんか、こう、もぞもぞとひっかかって。喉に魚の骨がひっかかったみたいに、苛々するんだ」 胸にわだかまるかすかな疑問を言葉にしようとするのだが、悠理の頭では適切な言葉が見つからないらしい。きちんと町娘の恰好をすれば美形とも言える顔をしかめて、くしゃくしゃと髪をかきむしった。若衆髷に結った頭から、ぴんぴんと髪が逆立つ。 それを眺めて、清四郎が微笑んだ。悠理の頭をなでつけながら言う。 「悠理でも、魚の骨がひっかかることがあるんですか? てっきり、骨ごと飲み込むのかと思ってましたが」 「馬鹿にすんな。あたいだって、さすがに骨は飲み込んだりしないぞ」 ぷうとふくれっ面になって、悠理は清四郎の手をはねのけた。 「あああ、もう、清四郎が余計なこと言うから、何が気になってたのか分かんなくなっちゃじゃないか」 「はいはい、分かりました。じゃあ、思い出したらでいいですから、そのときは言ってください」 うん──と元気よくうなずいて、悠理は先に駈けだしてゆく。後ろ姿だけを見れば、女らしい丸みに乏しい侍姿は、男としか見えない。振り袖姿を清四郎は見たことがあるが、なかなか似合っていたと思う。だが、清四郎は悠理の侍姿が好きだった。本来あるべき姿になってしまうと、どこか遠くに悠理が行ってしまう──そんな気がする。 清四郎は悠理の後ろ姿を微笑ましく見つめた。 そして、悠理のこのときの言葉の意味を知るのはもっと後になってからで──それを清四郎は悔やむことになる。 男は猿若町を抜けて花川戸町を通り、吾妻橋を渡った。後ろを警戒する様子は見えない。尾行は驚くほど簡単だった。 本所に入り、吉原に向かう船が幾艘も浮かぶ大川の川沿いを歩き、南割り下水に突き当たったところで東に曲がった。 魅録は店や表長屋の角々に隠れながら後を付けていたが、途中でそれもやめた。美童相手に美人局をやるくらいだから、相当場数を踏んだ無頼者かと推測していたのだが、ずぶの素人かと思えるほどの無警戒ぶりである。一度も後ろを振り向かず、複雑な道を通ることもなくまっすぐに進んでいる。 そうしてたどり着いたところは本所入江町の一角。わずかな風も入らないような、おんぼろの貧乏長屋だった。 長屋の入り口木戸はすべて炊きつけに使われたのか、影も形も見えない。割長屋のずらりと並んだ入り口障子は、わずかな涼を求めてすべて開け放たれている。 魅録は長屋が見渡せる場所で足を止め、他の三人が来るのを待った。 三人はすぐにやってきた。 「こんなところに住んでるの?」顔をしかめて袖で鼻をおさえ、可憐が言う。「なんかここ、臭くない?」 「おそらく、どぶの掃除を誰もしてないんでしょう。差配人は何をしているんだか」 「それにしてもな、美童からせしめた金があるだろうに、何を好きこのんでこんな汚い長屋に住んでいるんだろうな」 日暮れが間近に迫っている。長屋に住む女達が出てきて、夕餉の支度を始めた。小汚い、つんつるてんの着物を着た子ども達が、井戸の回りで遊んでいる。 「なあなあ、これからどうすんの?」 「とりあえず、男について調べましょう。可憐、ちょっと行って、長屋の人たちに聞いてきて貰えますか?」 「ええっ、あたしが?」可憐が大仰に顔をしかめて叫んだ。「いやよ、こんな臭いところ。着物に臭いが染みついちゃうじゃない」 「といって、僕や魅録、こんな格好の悠理じゃあ余計怪しまれますよ」 清四郎が涼やかな顔で言う。可憐は口ごもった。確かに、こんな貧乏長屋にもっともふさわしくない顔ぶれだ。 (かといって、あたしだってふさわしくないと思うんだけど) 前もって清四郎に言われて、手持ちの着物の中でも一番地味なものを着ているが、少なくともこんな裏長屋に住まいを構える町人の身なりではない。簪だって、鼈甲の上等なものだ。長屋に住む女たちの生活にくたびれた顔と、毎夜手入れをかかさない可憐の自慢の顔とでは、天地の違いがある。 救いを求めるように、魅録と悠理にちらと目を向けた。だが二人とも、可憐が行くのは当然──といった、納得の顔つきだった。 可憐はこれみよがしに大きなため息をついた。 「分かった、分かったわよ。あたしが行くわよ。まったくもう、後で美童になにか奢ってもらわなきゃ割に合わないわよ」 なんだかんだいって、六人の中で一番面倒見のよい娘である。やけくそのように呟いて、胸を膨らまして一度大きく息を吸うと、まっしぐらに長屋の小路に向かっていった。 長屋の一番とっつきにある住まいの女に、可憐は声をかけている。女の顔には不審の色が見えていたが、相手が若い娘だという安心感からか、素直に可憐の問いかけに答えているようだった。 すぐに可憐は戻ってきた。口をぽっかりと開けて、何かをこらえているかのように眉根を寄せ、小走りに駆けてきた。 「御苦労さん」 角にあるそば屋の壁に背をもたせかけて、魅録が言った。 三人の元にたどり着いたとたん、可憐は大きく息を吐いてせわしなく呼吸を繰り返した。衿元から懐紙を取り出して、鼻の前をぱたぱたと扇ぐ。 「あー、もう、まったく、地獄の苦しみとはこのことよね。死ぬかと思った」 悠理がまじめな顔で可憐に近寄り、くんくんと鼻をうごめかす。そして、にっかりと笑う。 「大丈夫だよ、可憐。なーんも臭わないぞ」 「あ、あら、そう?」 それでも可憐は不安そうに、着物の袂に鼻を近づけてくんくんと確かめている。清四郎が笑った。 「悠理が言うんだから大丈夫ですよ。それよりも可憐、どうでした?」 「ああ、うん。それがね」 「なあ、やつの居場所も突き止めたんだ。場所を移そうぜ。美童もやきもきしているだろうしな」 折しも入江町にある時の鐘が、暮れ六ツ(午後六時ごろ)を知らせた。茜色の夕闇は、すでに薄暮と変わり始めている。清四郎は天を振り仰いで言った。 「そうですね。では一旦、市村座に戻りましょうか。話はそれからです」 時代劇部屋 |