『美人局』 池田さり様作 |
〜 二 〜 六人は打ち揃い、いつものいきつけの料亭「ささゆき」の一室で夕餉となった。美童の奢りで、ずらりと大皿料理が並ぶ。いっただきまーす、と悠理が喜色満面で箸をとり、恐るべき勢いで料理を口に運んでゆく。そんな悠理の化け物のような姿を目にすると、空っぽになった財布の姿が目にちらついて仕方ないので、美童はできるかぎり悠理から目を逸らしていた。 料理があらかたなくなったあと、可憐が男についての情報を語った。 男の名は吉三(きちざ)。裏長屋に家を借りて、まだ一月ほどである。今は口入れ屋に通い、荷物つの上げ下ろしなどの日雇いで生活しているという。貧乏長屋に落ち着くまで一体何をして生きていたのか、同じ長屋の女も知らない。ほとんど顔を合わすこともないんですよ──と、女の身でありながら、棒手ふりをやって生活している彼女は言った。 「その吉三は独り身なんですか?」 食後の茶をすすりながら、清四郎が尋ねる。 「そう、そうみたい。あたしも不思議に思って訊いてみたんだけど、女が吉三を尋ねてやってくることさえないんですって」 「あれえ? 美童の話だと、声をかけてきた女の亭主じゃないのか?」 まだ悠理は饅頭を食べている。口をもごもごしながら訊いた。 「あのな、美人局ってのは、夫婦とは限らないんだよ。もちろん、本当に夫婦の場合もあるが、大抵は違う。中には、一回きりだけの仲間ってのもあるくらいさ」 「まあ、そうなんですの? よくそんな見知らぬ人と手を組めますわね」 「このご時世、生活に困ってる人間なんて掃いて捨てるほどいる。町人だけじゃない、小身の旗本、御家人、浪人……武士だってその日に食う米に困る連中が多いんだ。女は、そんな身分の奥方──かもしれないぜ。背に腹は代えられない、ってことさ」 魅録はちらりと、座敷に並んだいくつもの皿に目をやりながら言った。幸い自分は裕福ともいえる暮らしをしているが、生まれ落ちた家がよかっただけだ。一言でいえば、運がよかった。だからこそ、この厳しい現実が、天に向かって唾を吐きかけたいくらい腹立たしい。 「美童、女について覚えていることはないですか?」 「いい女だったよ」美童の答えは素早かった。「いかにも亭主もちって感じの、色っぽい年増でさあ」 「特徴は? 町人風でしたか、それとも武家の?」 「うーん、身なりは、そう悪いものは着てなかったけれど。どっちかっていうと、浪人の妻かなあ。はすっぱな物言いだったけれど、あんまり板に付いてないって感じで。そうそう、口の左下にほくろがあったっけ。それから……出会い茶屋でちらりと見えたんだけど、右の内ももにもほくろがあったかな。襦袢の裾が乱れたときにちらりと。それがまた色っぽくて」 そのときの光景を思い出したのか、でれり、と相好を崩しながら言う。 「まあ、美童ったら、少しも懲りてないんですのね」 野梨子が顔を赤らめた。美童が慌てて言い訳をする。 「だって、清四郎が女について覚えてることはないかって言うから」 「まあ、ともかく」清四郎が、ごほんと咳払いをした。「吉三について調べましょう。そうしているうちに、女の存在が見えてくるかもしれませんし。魅録、可憐、頼めますか?」 はいはい、と二人がふたつ返事でひきうけた。 「吉三がどこに出入りしているか。それ次第で、次の手を考えましょう。美童は、女の姿を見たら、絶対に僕に教えてください。いいですね」 「うん、分かった」 しゅん、と身体を縮めて美童はうなずいた。 翌日。魅録と可憐が見張る中で、吉三は長屋を出るとまっすぐに、米屋、酒屋に入っていった。店の向かいから窺ってみると、吉三はどうやら店の主人に、金を払っているようだった。 「どうやらあの様子だと、美童からせしめた金は、借金の返済に充ててるようだな。でも、全部ってことはないだろう。他の金はどうしたのかな」 「博打にでも使っているのかもよ」 「かもな。それとも、貯めているのかもしれんな。博打だとしたら、そう簡単にやめられないはずだ。見張っていたら、いつかは尻尾をだすだろうよ」 「そうね」 小声で言葉をかわす二人の数歩前で、吉三は背を丸めしょぼくれた姿で、奉行所に勤める与力や同心が住まいを構える八丁堀に向かって歩いている。 魅録は見知った顔に合わないよう、密かに祈りながら歩いた。声をかけられて、吉三に気づかれたらお終いだ。念のため屋敷の角々で身を潜め、辺りを窺いながら後をつけた。 吉三は八丁堀を抜け、築地に入った。海が近い。夏のまぶしい光を受け、海面は静かに凪いでいた。それでもときおり風が吹きつけ、白いさざ波がたつと、潮の香りが強くなる。大名の家紋を染めた旗印を立てている大型の船が、いくつか江戸湊に停泊しており、荷を移す小舟が幾艘も行き来していた。 どうやら吉三は、口入れ屋から紹介された仕事をしに来たらしい。海に面した大店に入っていった。それは荷揚げ屋の一つで、店先に掲げられた看板には「湊屋」と書かれていた。 そのまま吉三は暮れ六ツ(午後六時ごろ)まで出てこず──仕事が終わった後近くの一膳飯屋で夕餉をとり、まっすぐに長屋に帰っていった。女の姿も、賭場に出かける様子もない。 それは、翌日もまったく同じだった。 「いやですよ、旦那。そんなに焦らなくったって。夜は長いんですから、ねえ?」 わずかに隙間を開けた唐紙の向こうから、可憐の甘い声が聞こえてきた。男は荒い息を吐きながら、言葉にならない声を出している。 ここは柳橋にある船宿。荷揚げ屋から長屋に戻る最中の吉三を、行きつけの一膳飯屋で可憐は見事に引っかけたのだった。もちろん、最初から吉三を連れ込む店も部屋も、清四郎たちと打ち合わせずみである。剣菱の名を使い、邪魔は何一つ入らないように手も打ってある。 五人は可憐が連れ込んだ部屋の隣で、美人局にかける瞬間を窺っていた。 「しかし、さすが、男をその気にさせるのはうまいもんだな」 光が漏れている唐紙の隙間から、しっかりと目を離さないまま、魅録が感心したように囁いた。 「それはもちろん、吉三の酒に一服盛りましたからね」 当然です──と清四郎がうなずく。 「好機は一度きりです。失敗は許されません。ですから、念には念を入れて」 「清四郎、この前から作っていたのはそれだったのか」 「ええ。悠理も今度、試してみますか?」 懐から薬の包みを見せてにっこり笑った清四郎に、悠理が真っ赤になってばしんと腕を叩いた。 「ばっ、馬鹿ゆうな!」 思わず大声になった悠理に、野梨子と美童が口元に人差し指をあてて、しーっと言った。慌てて、悠理は口を押さえる。そおっと隣の部屋を窺ってみると、唐紙の隙間からは、しどけなく衿元をゆるめて布団の上に足を崩し、男を誘う目つきをした可憐が見えた。 「もう、そろそろだな」 息をつめて成り行きを見守っている魅録が呟く。彼は、この日のために無精ひげを伸ばし、古着屋で買い求めた粗末な綿の着物を身につけている。金に困った貧乏御家人といった風情である。 可憐がもったいつけたように、ゆっくりと帯に手をかけた。崩した膝から、ちらりと白い足が覗く。吉三がごくり、と唾を飲み込む音が隣の部屋にも届いた。視界に、吉三の汗の浮いた背中が入ってくる。すでに上半身裸で、今にも可憐に飛びかからん勢いだった。 可憐が男を手招きした。 吉三が可憐に手を伸ばす。 その瞬間。 魅録が飛び出した。刀の柄に手をかけて鯉口を切り、今にも斬りかかろうとする殺気をほとばせて、吉三を睨みつける。 「てめえ、人の女に手をだしやがって。生かしちゃおけねえな」 刀をぬき、切っ先を吉三の喉元につきつける。研ぎに出したばかりの白刃が、行灯の光をうけてきらりと輝いた。 「ひえっ」 吉三は奇妙な悲鳴をあげて、布団の上にあっけなく腰を抜かしてしまった。顔面蒼白、歯の根ががちがちと鳴って、今にも泡を吹いて気絶しそうだ。 素早く、可憐が着物を整えて魅録の傍に駆け寄る。 「あんた、助かったよ。この男が、あたしを無理矢理こんなところに連れ込んで、手篭めにしようとしたんだ」 可憐の演技はなかなかで、恐怖に怯える女房そのままだった。 腰を抜かしたまま、自分に向けられた刀からなんとか逃げようと、吉三は無様にもお尻で這って部屋の片隅に移動し、 「なっ、何を言うんだ。言い寄ってきたのはそっちじゃないか!」 と、震える指を可憐に突きつけて叫んだ。 「酒を勧めたのはどこのどいつだい!? それに、あたしには亭主がいるって何度も言っただろう? ねえ、あんた、あたしとこの男と、どっちの言うことを信じるのさ」 可憐が必死の目で魅録にすがりつく。魅録はそれを見やり、未だ恐怖で立ち上がることもできない吉三に、凄みのある双眸を向ける。そして、にやり、と笑った。 刀を突きつけたまま、吉三の惨めな姿を見下ろして言った。 「そうだな……命が惜しかったら、五十両払いな」 「ごっ、五十両!」 再び、吉三の顔中から冷や汗がどっと流れ落ちた。喉元に突きつけられた、微動だにしない切っ先に恐怖に怯えた目を貼り付けたまま、あわあわと口を動かす。 「ご、五十両なんて大金、俺は持ってない! 勘弁してくれ!」 「なにい? ないだと? ちっ……仕方ねえな。なら、命を貰うだけだな」 ちゃきり、と両手で柄を握り直し、一歩足を進めた。吉三がまた後じさった。だが、壁際に追いつめられて、もう後がない。絶望に彩られた顔を涙と汗でぐちゃぐちゃにし、両手を前につき出して、からくり人形のように何度も何度も無茶苦茶に振った。 「や、やめてくれ。命だけは、取らないでくれ」 「なら、金を払うんだな」 「い、いまは持ち合わせがない」 吉三は恐怖に混乱した頭を、なんとか働かせたようだった。一度ごくりと唾を飲み込み、今度は幾分落ち着いた声で言った。 「だけど、金が入るあてはある。たのむ、二、三日でいい。待ってくれ。金はきっと払う。払うから!」 「ほう、あてがある──と言うんだな」 「そうだ。金づるがあるんだ。人気役者の美童ってやつでな、あいつの弱みを握ってやったから、すぐに五十両くらい用意できる」 吉三は、自分にいい聞かすように何度もうなずいた。 「ふうん、なるほどな」 魅録は依然、刀を吉三に向けたまま背後を振り返った。くい、と顎をしゃくる。 成功の合図。 四人は飛び出した。 突然、隣の部屋から乱入してきた若者たちに、吉三は唖然として声もなかった。だが、その中に、最前口にしたばかりの美童の姿を認めて、ぐえ──と蛙がつぶれたような声を漏らした。 「ひっかかりましたね、吉三さん」 懐手で、清四郎が近寄る。魅録が刀を鞘におさめ、清四郎、悠理と三人で吉三の回りを固めた。 「美童の頼みで、美人局──やり返させていただきましたよ」 「おっ、お前ら! な、なにが望みだ? こいつからせしめた金なら、もうないぞ」 「残念ながら、僕たちの目的は金じゃあないんですよ」清四郎が酷薄な笑みを浮かべる。「美童が言うには、金は、もういいんだそうです。ただね、もう二度と、自分の前に姿を現してもらいたくはない……そうですね、美童?」 美童は吉三を睨みつけたままうなずいた。吉三と視線が合う。射るような鋭い視線が、美童の色の薄い瞳を捉え──吉三が憎々しげに舌打ちをした。 「俺にどうしろっていうんだ」 「なに、簡単な事です」 事も無げに言い、懐から折り畳んだ紙を取り出した。吉三の足下に広げる。書面には、二度と美童の前に現れない、美童を美人局にかけたと他言しない──とひらがなで書いてある。 「こちらに血判を。ああ、文字が読めないのでしたら、僕が読んでさしあげますが?」 「馬鹿にするな」 吉三は吐き捨てて、清四郎が用意した念書に目を走らせた。悠理が懐剣を取り出し、鞘を払って突きつける。だが、吉三はぴくりとも動かなかった。固く腕組みをして、書面を睨みつけている。 「面倒なヤローだな。こっちの要求がのめないってんなら、力づくで言うことを聞かせてやってもいーんだよ?」 先程から暴れたくて暴れたくて仕方なかった悠理が、吉三に顔を近づけてすごむ。 「仕方ありませんね。悠理、そいつの身体を押さえておいてください」 「なっ、何をするんだ!」 「よっしゃ」 懐剣を清四郎に渡して吉三の背後に回り、喜々として後ろから脇に腕を回して羽交い締めにした。暴れだそうとした吉三の足を、すかさず魅録が押さえ込む。 「美童はその念書を。吉三さん、こちらとしては暴力だけは使いたくないんでね」 変わらず、清四郎は笑みを浮かべたままだ。それが、吉三にえもしれぬ恐怖を与えたらしく、再び顔色が蒼くなった。 清四郎は吉三の腕を掴み、懐剣をかざして親指に押しつけた。わずかに力を込めただけで、ぶつりとかすかな音がして、刃が当たったところから血の玉が浮いてきた。そのまま書面の最後、「きちざ」と清四郎が書いた名の下に、親指を押しつける。血判を確認して、腕を放した。 「これは、僕が預かっておきますからご心配なく」血が乾いたのを確認して、清四郎は書面を懐に入れた。「言っておきますが、僕たちはいろいろな所に顔が利きますからね。約定を破ることがあれば、すぐさま奉行所にあなたを突き出しますから。それは、お忘れなきよう」 吉三は無言だった。ただ、憎い仇のように、美童をじいっと見据えているだけだ。 「そのうち、あなたのお仲間も見つけられると思いますよ。念書は、あの人の分も用意してありますから。どういう手を使って僕たちがその女性を捕まえるかは、あなたの想像にお任せします」 「なんだと……?」 清四郎の脅しともとれる台詞に、吉三の顔色が今度は赤く染まった。依然、悠理に身体を羽交い締めにされたまま、歯ぎしりをして清四郎を睨みつける。 「ま、その前に、お二人で江戸を出るのがよろしいと思いますよ」 吉三の抵抗が弱まった。それを確認して、悠理が手を離す。清四郎が吉三に背を向けた。野梨子と可憐を先に立たせ、部屋を出ていく。美童、魅録が続く。 悠理は部屋の唐紙に手をかけて振り返った。吉三は、部屋の隅でうずくまっている。彼らを追ってくる気配はまるでない。美童を強請るのは完全に諦めたのか。 もう一度、吉三の顔をじいっと見た。吉三が悠理の視線に気づいて、一瞬目を見開き顔を逸らせた。 何か、心にひっかかっている──だけど、どうやっても思い出せない。 (まあ、いっか。仕返しできたことだしな) 悠理はにっかりと笑って唐紙を閉めた。 その瞬間──ちくしょう、あの野郎……と吉三が悔しそうに呟くのが聞こえた。 時代劇部屋 |