幕末有閑倶楽部番外編

『 約束 』

池田さり様作


 

 

 野梨子、後のことは頼みます。お前なら、きっとみんなを守ってくれるでしょう。

 

 

 清四郎、どうして私なんですの? 私は──魅録や悠理みたいに強くもありませんわ。むしろ、足手まといになるだけです。

 

 

 悠理が、おとなしくこの江戸で待っていると思いますか? それに……魅録はきっと、僕と同じように戦いに身を投じるでしょう。この江戸でも、最後の決戦が必ずあるはずです。僕よりも、何倍も命が危ない。可憐は今は平然と振る舞ってますが、心の中では魅録

の無事を、それこそ自分の命を削っても惜しくないほど心配しているはずです。

 

 

 それは……今の可憐の様子を見れば、私でも分かりますけれど。美童は? 美童では清四郎は心配なんですの?

 

 

 美童は今の自分の立場を守ることで精一杯でしょう。江戸の町を守ってくれた幕府はもうないんです。東征軍がやってきて江戸城が開城となると、芝居小屋や役者たちは、生き抜くために東征軍に付かざるを得なくなる。僕たちと違い、美童は自分の力で生きているんですよ。頼むわけにはいきません。

 

 

 それはそうかもしれませんけれど……でも、清四郎。私がどうやって、みんなを守ればいいんですの? 分かりませんわ。教えてくださいましな。

 

 

 今まで通りに。何があっても動揺せず、薩長の連中につけいる隙を与えないように。毅然としていればいいんです。

 

 

 ………

 

 

 特に可憐を守ってあげてください。魅録がいなくなった後の可憐を。支えを失った可憐は、きっと一番弱い……

 

 

 分かりましたわ、清四郎。私が、みんなを守ります。ですから、安心して会津に行ってらっしゃいましな。後のことはすべて、私に任せてください。私、あなたが帰ってくるまで、きっとみんなを守ってみせますわ。あなたが私に約束してくださったように、私もあなたに約束します……

 

 

 

 

 

 

 清四郎が会津に向い、その後を追って悠理が江戸をたってから、すでにふたつきの刻が流れた。

 この七月、東征軍によって江戸は「東京」とその名を変えた。「東の京」とはまた、なんという安易で陳腐な名。

 東征軍と上野彰義隊との決戦の場となった上野不忍池では、あの日、いくつも咲き乱れた蓮の花が誰の目にも明らかなほど元気をうしない、夏が過ぎ秋へと移りゆく時の流れを如実に表している。

 魅録は上野の戦いに加わり──まだ戻ってはこない。

 生きているのか死んでいるのか分からぬまま、可憐は黙って魅録の帰りを待っている。ただひたすらに、魅録の無事を信じて。

 そして野梨子は、いつものように可憐の店に向かった。あの上野の戦いの後、朝餉をすませるとすぐ可憐の店に行き、夕方店を仕舞うまで、可憐の側にいるのが野梨子の務めとなった。

 清四郎との約束を守るために。

 

 

 

 可憐は母親と二人、小間物問屋「黄桜」を他の商人と同じように、世情の移り変わりなど意に介せぬとばかりに、今までと変わらぬ明け五ツ(午前八時ごろ)に開け、暮れ六ツ(午後六時ごろ)に閉める。

 そうすることで、可憐は、魅録を待ち続ける勇気を奮い起こしている。傍にいる野梨子にはそれが痛いほどに分かる──可憐が時折見せる、心ここにあらずといった茫とした瞳と、我に返った瞬間に野梨子に向ける、痛々しいほどの明るい笑顔から。

 そうやって時は容赦なく過ぎていったが、この東京を治める上に立つ者たちが、徳川家から薩長に変わろうと、東京に住み商いを続ける商人たちの生活は変わらない。大きな顔をして江戸に乗り込んだ薩長軍は、江戸っ子の心意気を誇りと思う人々からすれば失笑ものの、無粋な言葉使いや横暴な振る舞いを続けているが、商人たちは損はせぬよう用心しながら、抜け目なく薩長の者たち相手に商売を続けているのだった。

 しかし、「黄桜」だけは別だった。

 どこから情報を仕入れたのか、一人娘の可憐が、先の南町奉行松竹梅時宗の嫡男の思いものだと知ったらしい。彰義隊の残党狩りはまだまだ厳しく、魅録の行き先はここしかないと思い定めたのか、可憐は薩長の連中に日々見張られているのだ。

 可憐が尋問のために薩長軍に連れて行かれないだけ、まだましなのかもしれない。

 でも──昨日までは無事だったけれど、今日は分からない。今日は無事でも、明日はどうなるか。魅録はもう江戸にはいないのだと──亡くなったのだろうと薩長軍が早く諦めてくれればいいが、焦るあまり、権力を笠に着て可憐を無体な目に遭わせないとも限らない。

 美童は、芝居小屋を離れるわけにはいかない。そして、いつも助けてくれた清四郎と悠理は、今は会津にいる。

 可憐を守るように──と清四郎に頼まれたんですもの。私が、できることをしなくては。

 店の戸に手をかけた時、野梨子はいつもと同じ、こちらを鋭く見つめる視線がないことに気づき──最悪の事態が起きたことを知った。

 

 

 

「やめて──! あたしはあいつの行き先なんて知らないわよ!」

「可憐!」

 店に飛び込んだ瞬間に、目に入ってきた惨状に野梨子は愕然となった。

 黒シャツにダンブクロといった恰好の男が三人がかりで、可憐の手を掴み、無理矢理連れて行こうとしているところだった。店の中に並べてあった櫛や簪や、白粉といった小間物が散乱し、無惨な有様になっている。

「野梨子、あんたからも言ってやってよ。あたしは、魅録がどこにいるかなんて知らないって! こっちが知りたいくらいなのに!」

 男に腕を取られながらも、床に座り込み全身で抗っている可憐に、野梨子は急いで縋りついた。

「可憐もそういってるじゃありませんの! 本当に、魅録からは何も連絡はありませんのよ! あなたがた、一体、どこに連れて行くおつもり?」

「死骸はない。だが、これだけ探しても見つからん。なら、この女が匿っとるにきまっちょる。市政裁判所に連行して白状させるんじゃ」

 長州者らしき男が、可憐と野梨子の二人を見下ろして、苦々しく吐き捨てた。

「さあ、立て。素直についてくれば、僕らも乱暴はせん」他の二人が可憐の背後に回り、恐怖に顔をゆがめた可憐の両腕を取った。

「いや! いやよ、やめてってば」

 可憐は髪を振り乱し、何度もかぶりを振った。涙がみるみるうちに浮かび、噛みしめた紅いくちびるを濡らした。

 可憐の心は今にも張り裂けそうになっている。

 なんてひどいことを。──可憐は夜も眠れないほど、姿を見せぬ魅録のことを心配しているのに。ふたつきも見張っていて、こんな簡単なことも、この方たちには分かりませんの?

 野梨子は、きっと空を睨んだ。眦に力をこめる。

「可憐を連れてゆくと言うなら、私を殺してからお行きなさいませ!」

 可憐に抱きつき、野梨子は隊長とおぼしき男に言葉を叩きつけた。私の命をかけても、可憐を守らなくては。

 男は唖然となり──すぐに、野梨子を馬鹿にするかのように笑いかけた。

「何を馬鹿なことを言っちょる。おんしには関係ないことじゃ。さあ、のけ。その綺麗な顔に、僕らも傷をつけとうはない」

 後ろにいる二人も、嘲りの笑みを漏らした。

 可憐がひしと縋りつく、その身体の温かさだけを頼みに、野梨子は可憐を背にかばい、清四郎がいなくなってから片時も離さなかった懐剣を抜き払った。

「野梨子……!」

 可憐の悲鳴が背に届く。野梨子は可憐を勇気づけるように、かすかにうなずいてみせる。

「おいおい……そんな危ないもの、あんたには似合わん」

 男はなおも笑いを浮かべながら、それを渡せ──と手を差し出してきた。

 私をか弱い女と見て、侮っていたら大間違いですわよ。これでも、清四郎たちと一緒にいくつもの危ない橋を渡っきましたの。

 野梨子はにこりと笑った。こぼれ落ちる花のごとく、美しく可憐な微笑みを。

 すらりと鞘を払い、刀身を閃かせて野梨子は自らの喉に突きつけた。切っ先が、ちくりと白い喉に触れる。そこから伝わる鋼の冷たさが、野梨子の心を逆に落ち着かせた。

「な、なにをするんじゃ!」

 男が目を剥いた。ざわり、と回りの空気が震えた。

「一歩でも可憐に近づいたら、私は喉をついて死にます!」

「やめて! 野梨子、あたしのためにあんたが死ぬ必要なんてないわよ」

 可憐が背後から、野梨子の懐剣を奪おうと手を伸ばしてきた。野梨子は身体をよじってその手をさけ、入り口に立つ男と、野梨子の気迫に圧されて可憐の腕を放した二人の男を等分に睨みつける。

「私は、本気ですわ。約束したんですの、可憐を守るって」

 ですから、私の命賭けて、可憐を守ります。

 部下らしき男たちが、困惑した目を隊長に向けた。男の困惑顔が、次第に色を失ってゆく。懐剣を突きつけたまま微動だにしない野梨子に、揺るぎない決意を感じ取ったようだった。

 男の顔が憤怒に燃えた。

「ええい、この娘には構うな! 死にたければ、勝手に死ね!」

 可憐が息を飲む音が、野梨子の耳に届いた。男達が一瞬とまどいの声を上げたが、一拍の間を置いて、再び可憐に手を伸ばしてきた。

 野梨子の心は静かだった。江戸を奪った薩長の連中に対する怒りでさえも、どこかに消え去っている。とるにたらないたった一人の小娘相手に、嘲り、笑い、怒り──声を荒げる男たちの無様な姿に、笑みさえ浮かんだ。

「本当に、よろしいんですの?」喉の奥から乾いた笑いがこみ上げた。「私が死んだら、困るのはあなたがたですわよ。 いいえ、あなたではありませんわ。薩長軍をまとめる──薩摩の西郷とかおっしゃるお方。あのお方が困ることになりますわよ?」

「な、なんじゃと? それはどういう意味じゃ」

 思わぬ名に、男達の顔色が瞬く間に変わった。

「今年に入ってから、息もつけぬほどの戦い続き。さすがの薩摩も、お金の工面に苦労していると聞いておりますわ。そして、まだまだ戦いは続くのでしょう? ここで、日本橋の商人たちを敵に回すのは、とても得策とは思えませんわね」

 相手は言葉を失っている。動揺している──この機会を逃すわけにはいかない。

 野梨子は懐剣を握る手に力を込め、畳みかけた。

「この江戸──いいえ、もう東京と言うんでしたわね──であなたがたに抗う者はもうおりませんわ。けれど、彰義隊の残党たった一人と、日本橋商人たちの莫大なお金、どちらが大事かしら? 少し考えれば、あなたにも分かるんじゃありません?」

「おのし……なにもんじゃ」

 男の声に、野梨子を見つめる目に、怯えの色が見える。野梨子の気迫に負け、すでに及び腰になっているのが一目で分かる。

 野梨子にしがみつく、可憐の力がゆるむ。

 この勝負、私の勝ちですわね。

 野梨子は声高らかに言い放った。

「いくら田舎者のあなたでも、日本橋一──いいえ、この日の本一の豪商、剣菱屋万作の名を聞いたことがおありでしょう。覚えておきなさい──私は絵師白鹿清州の娘、野梨子。剣菱屋の跡継ぎ、豊作どのの許婚ですわ」

   

   

 

「野梨子……助かったわ、ありがとう」

 店中に散らばった商品を片付けながら、可憐が深い吐息と共に言った。

「こんな私でも、可憐の力になれて嬉しいですわ。清四郎と……清四郎が会津に行く前に、私に言ったんです。可憐を守ってくださいって。その約束を守ることができて……今、私が一番ほっとしていますのよ」

 野梨子は微笑んだ。今思い出すと……よくぞ腰が抜けなかったと思う。

「それにしても、豊作さんの許婚だなんて、よく思いついたもんね」

「あれは咄嗟の思いつきなんですのよ。以前、清四郎が言ってましたの。戦争というものは金がかかる。幕府にも金はないだろうが、薩長も金に困ってるだろうって。この江戸──いえ東京で、お金を持っているのは大店の商人たちでしょう? それに──何かあったら、剣菱の小父さまを頼れって言ってましたもの」

「今の言葉……豊作さんが聞いたらきっと腰を抜かすわね」

 可憐が、こぼれてしまったへちま水の瓶を取り上げながら、くすりと笑った。笑えるほどの心のゆとりが、ようやく生まれてきたようだった。

「ええ、本当に。後で、話を合わせてもらえるよう、剣菱の小父さまにお願いしなくちゃいけませんわね」

「それで、豊作さんが間に受けて、嘘からでたまこと……になったらどうする?」

 その可能性を少し考えて──野梨子はかぶりを振った。そして言った。誰にも負けない強い微笑みを、その白く整った顔に浮かべながら。

「可憐、頼りにならない殿方なんて、私ご免ですわ。男は私たち女を守るために、存在しているんじゃありませんの? 私を守ってくださる方でなくては、お嫁には参りませんことよ」

「今のあんたに勝てる男なんて、この世のどこにもいないわよ」

 呆れ顔の可憐を横目に、野梨子は胸のうちでそっと呟いた。

 

 

 清四郎、私は約束を守りましたわ。ですから、あなたも無事でここに戻ってこなくてはいけませんわよ。

 悠理と一緒に、傷ひとつない元気な姿で。必ず。

 

 

 

 

 

 

 


  

  フロさんのご厚情で、公開させていただきました。幕末有閑倶楽部の 番外編です。  人によっては野梨子×清四郎にも見えるかな〜と思って、ちょっと躊 躇っていたのですが、野梨子らしいと言ってもらえたのでほっとしました。  本編で可憐と魅録がつらい思いをしているその傍らで、ほかのメンバ ーがどんな思いでいたのか書いてみました。というよりも、懐剣を喉に 突きつけるシーンが書きたいがために、作った話です。  豊作さんには失礼をしました(苦笑)ファンのみなさま、お許し下さい。

 

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