「風にあおられて2」

後編

「わ、私、もうダメですわ…」
斜面ぐらい平気だと言ったことを取り消したいくらいに、野梨子はすっかり平衡感覚を奪われ、比較的平坦に置かれているようにみえる椅子に座りこんだ。
「休憩所に行きますか？」
いつもと変わらぬ微笑みを向けてくれる幼馴染みの心中を野梨子は思いやる。
今日は、いつにも増して悠理と魅録の距離が近い。内心穏やかではないだろうに。
「他の所が気になるのでしょう？行ってきてくださいな」
悠理と魅録が、とは言わない。
「でも…」
いくら悠理と魅録が気になるからといえ、目立つ美貌と雰囲気（加えて今日は足下が危うい）を持つ野梨子をひとり置いていくのは気が引ける。
野梨子は、明らかに自分と同じように疲れた顔をしてこちらにやってきた可憐と美童を見つけると、声をかけた。
「可憐！美童！一緒に休みませんこと！？」
（可憐、どうする？）
（ちょっとくらい良いんじゃない？どうせ休むとこだったんだし）
野梨子の誘いに応じて、美童と可憐は野梨子の元へとやってきた。
「美童じゃちょっと不安ですな」
まだ躊躇う清四郎を後押しするように、野梨子が続けた。
「清四郎が行って、代わりに魅録が来ればよろしいんですのよ」
（？どういうこと？）
（は…ん。やっぱりねぇ）
悠理の指示では、“公園内はなるべくふたりきりにさせてやること！”であるのに、清四郎と野梨子はふたりきりになるどころか、ひとりずつになることを厭わない。
それどころか、悠理の元へ行ってこいと言わんばかりの野梨子。
悠理の見立てとは全く違う方向で話が進んでいく。
「…すみません」
軽く謝ると、清四郎はその場を後にした。

すり鉢状になっている公園なので、全体を見下ろす方が見つけやすいだろうと、清四郎は斜面を登り、すり鉢でいうところの淵にあたる部分に立つ。
心のどこかで焦っている自分がいる。
そうそう居る組み合わせではない、明るい茶色の髪とピンク色の髪の２人を探そうと、目を凝らす。
２人は楕円形の公園のちょうど中央にある、低い壁で構成された“宿命の家”にいた。
何やら下を覗きこんでいるようだ。
少し離れたところにいた魅録を、悠理が手招く。額をくっつけるようにして足下を覗いては、楽しそうに笑い合うふたり。声なんて聞こえないのに、聞こえてくるような錯覚さえ起こる。
清四郎は、いつか悠理が自分を見てくれる日が来るのではないかと、今まで悠理への気持ちを表に出すことなく我慢してきた。
（いつかは、来ないのでしょうね）
端から見ると、悠理と魅録は完全に恋人同士だ。
今は男同士のような付き合いかもしれないが、悠理がその気になれば、魅録は受けとめるであろう。それだけの度量が魅録にはある。
知らず知らずのうちに、握る手に力がこもる。
魅録が悪いわけではない。悪いのは黙って見てきた自分だ。
あの笑顔をひとり占めしたい訳ではない。でも自分だけに向けて欲しい。
相反する感情。
想いが、傾斜を転がるように加速する。真っ直ぐに悠理の元へ。

目の端に清四郎が映った気がして、魅録はふと振り向いた。
（おいおい…）
魅録にさえわかる、清四郎の表情の真意。
少し離れたところからやってくる清四郎の視線は、痛いほどに焦がれている。
（何が野梨子だよ）
あんなに一身に注がれる視線にすら気付かない悠理に、やはり色恋の勘が働くわけがなかったのだ。
（ちょっと待て。そうすると、この状況はまずいだろ。すっげーまずいだろ！）
真実がわかってしまった今となっては、清四郎と野梨子への計らいなどむしろ逆効果だ。
「ゴメン、俺ヤニ切れ」
相変わらずガラス張りの床を覗いている悠理にそう言い残し、魅録は清四郎へと歩み寄る。
「誤解だけはしてくれるなよ」
魅録は唸るように呟き、清四郎の肩をひとつ叩いた。
「あれ？清四郎！？」
すっと近づいてきた人影に、悠理は顔を上げる。
（魅録のヤツぅ～。どこ行ったんだよ！）
それでも、心のどこかで嬉しがっている自分がいる。
「魅録でなくてすみませんね」
「何も言ってないだろー」
そういうのヒガイモウソウっていうんだ！と続けながら、悠理は目についた別のモニュメントへと向かう。

「何か、企んでいらっしゃいませんこと？」
休憩所に移動した３人に魅録が合流したところで、野梨子が口を開いた。
清四郎のあの表情を見てしまった魅録にとって、悠理の勘は当たっていないことは明白だ。
（後々を考えると…ここは、暴露しておいた方が俺らのためだろうな…）
そう考え、魅録は全てをばらすことにした。
「…悠理が、清四郎は野梨子のことが好きなんじゃないか…って」
「魅録！」
とがめるような視線を向ける可憐を、魅録は手で制する。
「でも、違うんだろ」
「…違いますわ」
魅録を真っ直ぐに射貫く視線は、その言葉に嘘がないことを証明している。
「…野梨子は、違うの…？」
悠理との結婚話が持ち上がったときに、あれだけ強く抵抗した野梨子だ。
清四郎の気持ちが無いとしても、野梨子の気持ちがあれば、また話は変わってくる。
可憐の質問の意図はそこだろう。
しかし、野梨子はそれすらも「違いますわ」と笑みを浮かべて一蹴する。
野梨子にとって清四郎は一番身近な異性だ。でもそれは身内の感覚に近く、恋愛感情とは違う。
（ちょっと待って…。でも…、そうすると…。うそ、でしょお…！）
話が転がっていくなかで、可憐の考えはある一点で行きどまる。
はたと動きを止めた可憐に、苦笑いを含んだ美童の声がかかる。
「当たってると思うよ。恋愛に関して、悠理の勘を信じたぼくたちが悪かったんだ」
可憐と美童が意外な真実に突き当たっていたころ、野梨子はひとり憤慨していた。
（これでは、清四郎があんまりですわ）
あんなに優しい瞳で悠理のことを見ているのに。
必死に気持ちを押し隠してそばにいるのに。報われなさにもほどがある。
「なるようにしか、なんねぇんだろうな…」
ぼそりと魅録が呟いた一言が、今の状況を正確に言い当てているようであった。

しばらく悠理と共に歩いていて、清四郎はひとつのことが気になっていた。
それは悠理と清四郎の距離。
悠理は常に清四郎と一定の距離をとっている。
魅録と並ぶときのような気軽さが、清四郎との間には無い。
（これが、僕の置かれた現状ですか）
手を伸ばさないと触れられない。伸ばせば、逃げられる。
そのもどかしさに気持ちだけが募る。
愛しすぎて、息すら出来ない。
（どうにかしてくれ）
それでも全身で悠理を追いかけてしまう。
急な斜面を下りていた悠理の背後から、突然、強い突風が吹いた。人並み外れた反射神経を持つ悠理でも、体重が軽い分、咄嗟に対応できない。
前につんのめるようにバランスを崩す。
「わわわっ！！」
転ぶ！と悠理が目をつぶった瞬間、背後から伸びてきた腕に抱きとめられた。
背中に当たる清四郎の胸が、一度大きく上下するのがわかる。
「…びっくりしたー。ごめん」
こんなことでもなければ、悠理は自分の腕の中には入らない。そう思うと居たたまれなくなる。
たまらず、清四郎は悠理の頭に顎を乗せた。
「お前に何かあったら、僕がみんなに怒られる」
悠理が必死で掻き集めた平常心は、頭に直に響くかのような清四郎の声に乱されていく。
悠理を抱く清四郎の腕。清四郎の匂い。背中越しに伝わる体温と鼓動。
好きすぎて、息が出来ない。
（どうにかなっちゃいそうだ）
このままこうしていられたらどんなにいいだろうか。
委ねてしまいそうになる自分を叱咤して、悠理は自分のお腹を抱えている清四郎の腕をほどいた。
「そろそろ戻ろうよ」
そして、振り返らずに傾斜を下りる。

（あの風さえ吹かなければ）
（こんな思いはしなくてすんだのに）

切なさが、風にあおられる。
いっそ、風にすくわれて指先からでも零れてしまえば楽になるのに。

すぐそこに同じ想いがあることを、ふたりはまだ気づかない。