大江戸有閑倶楽部事件帖
黄桜騒動記 〜序章〜 かめお様作




雷鳴が轟く。
あたりの空が暗くなると同時に、雨が降ってきた。
古びた荒れ寺の、無人の堂に、男と女が駆け込んだ。
激しい雷鳴とともに、雨がいっそう強くなった。
光る。
雷鳴が轟く。
女の小さな悲鳴など、その音の前に掻き消されてしまう。
男は、無言で火をおこすと、濡れた着物を脱ぎ、下帯姿となった。
女は、男に背を向け、がちがちと歯を噛み合わせている。
「風邪、ひくぞ。お前も着物を脱げよ」
ぶっきらぼうだが、温かな声音の主に女は振り向き、
「この、雨男!」
と、憎々しげに呟いた。

「ああ、もう、こんなところで足止めなんて」
黄桜可憐が、襦袢姿で着物を火にかざしながら呟いた。
「おいおい、雨は俺のせいじゃねえよ」
松竹梅魅録は苦笑を浮かべて可憐を見た。
赤い炎に照らされて、白い肌が薄く染まっている。
ぬれ髪がほつれ、それがまた可憐の色香をましていた。
(まいったな…)
魅録は、ごくりと咽を鳴らした。
惚れた女のこのような姿を前に、平静でいられる男がいたらお目にかかりたい。
魅録は、こほんとひとつ咳払いをした。
「せっかく人が迎えに行ってやったのに、それはねえだろうよ」
「あたしは駕籠を頼んだのよ。それなのに、美童があんたを迎えによこすなんて…」
売れっ子役者、美童グランマニエが白鹿清州に錦絵を描かれることとなった。
その中で、男姿の美童と絡む女役で可憐を選んだのだ。
魅録と可憐の仲を知る美童は、気を利かして可憐の迎えを魅録に頼んだ。
身分違いを苦にする可憐が、魅録と二人きりになりたがらないのを知っていたから。
魅録は、可憐と美童の錦絵の下絵を見たが、その艶やかさは江戸で評判になるだろうと思った。
「あんなに晴れていたのに、あんたが迎えに来た途端この雨じゃないの。あんたは雨男なのよ。舟で戻ればよかったわ」
可憐は悪口(あっこう)を吐きながらも、魅録と視線を合わせない。
どこか恥じらいを含んだ面差しで、俯いている。
「お前さん、君は野に咲くあざみの花よ、見ればやさしや寄れば刺す…だな」
魅録が笑いながら唄うと、
「まあ、あざみなんて地味な花…せめて牡丹くらい言って欲しいわね」
そう口にすると、可憐もくすりと笑みを浮かべた。
炎を隔てて、魅録はじっと可憐を見つめる。
可憐はそれに気づいているが、わざと視線をあげようとしない。
「なあ、可憐」
「…なによ」
「お前、結城藩に武家奉公にでるんだってな」
魅録の言葉に、可憐はいささか慌てたように、
「…よ、嫁入り前の嗜みに、武家奉公して何が悪いのよ。ちょっとした町家の娘なら、みんなやっていることよ」
「嫁入り前ねえ…」
魅録の意地悪げな口調に、可憐は顔を上げ、
「何か、文句が…」
可憐が言いさした時、魅録が立ち上がった。
「…あるっていうの…」
可憐の言葉は消え入るように小さくなり、魅録に背を向けるように、体をひねった。
魅録は、後ろから可憐を抱きしめ、
「…俺のためだと思ってるぜ」
「…思い上がりよ。あたしは、ただ…」
「ただ…?」
「悠理と清四郎を見ていて…前に進むのも人生かと思ったのよ」
消えぬ証の彫り物を入れた、彼らの親友、剣菱悠理と菊正宗清四郎。
二人の姿は、仲間内にも少なからず波紋を投げ掛けた。
「あの二人を見ていたら…自分の気持ちに正直になってみようかと…そう、思って…」
「可憐…」
魅録の手が、可憐の胸元に差し入り、唇は首筋をやわやわと這っていく。
「だ、だめ…」
「可憐…」
可憐は、微かな喘ぎ声を出したが、急に胸元に差し入れられた魅録の腕を噛んだ。
「…っ」
魅録が思わず手を引いた時、可憐はくるりと体を入れ替え、
「あたしを抱くのは婚礼の晩だって言ったじゃない」
と、艶然と微笑んだ。
「…か、可憐、そりゃあねえぜ」
魅録は、困惑したような顔を向けた。
「男が一旦口にした言葉は守らなきゃ」
「お、おい…」
可憐は着物を羽織ると、
「雨、止んだわよ」
と言い、魅録に晴れ晴れとした笑顔を向けた。







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