大江戸有閑倶楽部事件帖
刹那の恋〜一〜 かめお様作




走れ、野梨子。
悠理の言葉に、わたくしは駆けた。
白い打ち掛け姿のまま、江戸の町を。
ただ、一目でも見せたくて。
そう、あの人に。
わたくしの、晴れ姿を。



『 刹那の恋 』



「ほんと、奇麗ですわね」
舞台の上の美童グランマニエの姿に、白鹿野梨子はため息をついた。
「鷺の精から町娘に、そしてまた鷺へ…見事だわ」
黄桜可憐が涙をぬぐいながら呟く。
「恋に迷って、地獄の責め苦ですか…」
「奇麗だが、女の情念も感じるなあ」
菊正宗清四郎と、松竹梅魅録が小声で囁きあう。
「なあ、あれって悲しい話なのか?」
菓子を食べながらの剣菱悠理の問いに、可憐も野梨子も呆れたように、
「あんたに恋の悩みなんかないわよね」
「羨ましいですわ、幸せな悠理が」
と言い、頷きあった。
「な、なんだよ、それ…」
ぷ?っと頬を膨らませた悠理の頭を、清四郎がよしよしと撫でる。
それをみて、ほらねと言わんばかりに、可憐と野梨子の口元が緩んだ。

満場の拍手とともに、舞台は跳ねた。
手土産を持ち、楽屋に美童を訪ねた五人は、まだ息も荒い美童に賛辞の言葉をかけた。
「嬉しいよ。みんなにそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」
美童は、息を整えるように、茶を一口飲んだ。
「ほんと、素晴らしかったですわ。夢のように奇麗で、儚くて…」
「悲しい話でも?」
「ええ。悲しいからこそ、美しいのかもしれませんね」
野梨子の言葉に、美童は微笑んだ。
「これが、最初の場面の打ち掛け?奇麗ねえ」
「ほんと…」
可憐が手にした白無垢を野梨子に羽織らせると、
「うわ、あんた、似合いすぎよ」
「ほんとだ。人形みたいだな」
可憐と悠理の感嘆に、野梨子は困ったように微笑んだ。
「ねえ、野梨子。あんた美童からこの踊り習ったら。ほら、前から言ってたじゃない。舞踊に興味あるって」
「無理ですわ…こんな難しい踊り…」
「大丈夫だよ。野梨子なら踊れると思うよ。僕でよければ教えるけど」
「いいじゃん。今度、上方の剣菱屋の分店から客が来るんだ。そこで野梨子も踊ってよ。江戸一番の小町娘が踊りを披露してくれたら喜ぶぞ?」
「そんな…」
野梨子は、困った顔をして清四郎を見た。
「やってみたらどうですか?お客様の前で踊るとかはともかく、この踊り、野梨子には似合うと思いますよ」
幼なじみの言葉に、野梨子は意を決したように、
「美童…お教え願えますの」
「喜んで。でも、厳しいよ、僕」
と、美童は片目を瞑って見せた。
野梨子は三つ指をついて、
「では、お願いいたします」
と、頭を下げた。

「野梨子は僕が送っていくから」
深川の清州の寮に、野梨子は美童に送られて帰っていく。
船宿で舟を仕立てて、美童らは深川へ、悠理らは日本橋へと向かった。
「お前ら、野梨子に踊りを習うようずいぶんと勧めていたじゃねえか。何かあるのか?」
魅録の言葉に、悠理が間髪を入れず、
「美童は、野梨子に惚れてんだよ」
と答えた。
「えっ…あいつが?」
「野暮天のあんたと、当の野梨子くらいよ。気がついてないのは」
可憐の言葉に、魅録は苦笑し、
「悪かったな」
と言いながら、可憐の肩を突いた。
「美童には我々も、あななたち二人も、ずいぶんと助けてもらいましたからね」
清四郎の言葉に、みな頷いた。
色恋沙汰に長けている美童は、それとなく恋に不器用な仲間たちを手助けしてくれる。
喧嘩の時の仲裁や、困難があったとき、さりげなく支えてくれた。
「あいつはさ、自分に異人の血が入ってること気にしてるから…野梨子に気持ちを告げることはないんだ」
「そうね…もしも、それが野梨子に知れたら、あいつは消えるわ…」
「なら、なんで、踊りの稽古なんか勧めたんだ?野梨子が、美童の気持ちに気がつくかもしれねえじゃねえか」
可憐は、魅録の手を取って、
「美童はそんな素振りは見せないわ。場数が違うもの…あたしと悠理が美童の気持ちを知ったのだって、偶然よ。あいつ、いつも野梨子の錦絵をお守り代わりに持っていて…それを知ってからかったら、真面目な顔で気持ちを聞かされたの。一生、野梨子に気持ちを告げることはないともね。それでも、好きな人とは一緒にいたいじゃない。たとえ、思いが叶わなくても…野梨子に好きな男ができるまでは」
「それって…悲しいな…」
魅録は、ため息をついた。
「あの踊りは、美童の気持ちなんですよ。野梨子があの踊りの意味を知るだけでも、彼は報われるんですよ」
「だからあたしたちは、変わらず見守らなきゃいけないの」
可憐は目に涙を溜め、魅録の手をぎゅっと握り、
「あんたが一番顔に出るんだから。いい、決して野梨子に悟られちゃ駄目よ」
「ああ…」
四人を乗せた舟は、大川をゆく。
ゆらゆらと揺れる川面を眺めながら、四人はそれぞれの相手の手を握りあい、口を閉ざした。

妄執の雲晴れやらぬ朧夜の、恋に迷いし、わが心…
美童は、鷺娘の一節を口ずさみながら、野梨子とともに舟の上にいた。
背が高く、異形の男は、江戸一番の役者でもある。
その美童と、絵師白鹿青洲の娘で、江戸小町といわれる野梨子が共に舟に乗っている姿は、錦絵のような艶やかさで人目を引いた。
「ねえ、美童」
「なに?」
「恋をすると、誰もがこの唄のように迷うのでしょうか」
「迷わない恋もあると思うけど…なんで?」
野梨子は、揺れる川面に視線を落とし、
「わたくしは、怖いのですわ…」
「恋をするのが?」
「ええ」
美童は、くすりと笑うと、
「野梨子の周りには幸せな恋人たちがいるのに。何を怖がっているの」
「悠理たちのことを言ってますのね…」
野梨子は、ほうとため息をつき、
「わたくしは悠理のように強くもないですし、可憐のように情熱的でもないですもの」
「野梨子は自分を知らないんだね」
美童は、まっすぐ野梨子を見て、
「悠理は強くなんかない。弱いんだよ。だからこそ、清四郎が悠理を守ろうとするんだ。可憐は見た目情熱的だけど、実は古風で健気だよ。魅録を想って一度は身を引こうとしたからね」
美童は、野梨子の髪に手を伸ばし、
「僕から見れば、最も強くて情熱的なのは野梨子だよ。野梨子が恋に落ちたら、相手を焼き焦がしてしまうかも知れないね」
「まあ…そんな…」
「野梨子に惚れるなら、命がけだねえ」
「酷いですわ、美童ったら」
野梨子は、怒ったように顔を背けた。
「はは。怒った?」
「たぶん…」
「え?」
「美童の言う通りですわ…」
顔を背けたまま、野梨子は呟いた。
美童は、笑うと、
「憐れみたまえ我が憂き身、語るも涙なりけらし」
と、暮れ行く空を見上げて、呟くように唄った。

野梨子は、美童の空いた時間に「鷺娘」を習った。
時には、深川の寮で。
時には、芝居小屋で。
そして、秋も深まったある日は、根津の剣菱屋の寮で習っていた。
「違う。そこは、こう」
美童が、ぴしりと扇子で野梨子の足を打ち、
「こう足を折って…そう」
野梨子は、美童の言う通りに体を反らせた。
「うん、いいよ。野梨子はさすがだね。一度で覚える。今日はこのくらいにしようか」
「ええ…」
野梨子はほっとしたように笑うと、美童に手をつき、
「ありがとうございました」
と礼を取った。
「美童、お前、おっかないな」
悠理が、上目遣いで美童を見た。
「まあ、悠理。習うということはあのくらい当たり前ですわ」
野梨子は、何事もないという風に笑う。
「お前には無理ですよ。辛抱がきかない」
「ちぇ!あたいだって、剣術の修業なら大丈夫だぞ。雲海名人はおっかないもんな」
「はいはい、そうでしたね」
二人のやり取りに、野梨子と美童は笑い出した。
ささゆきからの弁当が昼食に用意されていた。
野梨子が茶をいれながら、
「可憐は、週末は家に戻ることを許されたのですってね」
「ああ。結城藩のお殿さまが気を使ってさ。そのかわり、来年の夏過ぎまでは若さまのお守りだよ」
「ならば、秋頃ですかね…婚礼は」
「悠理たちも一緒に挙げたら?祝言をさ」
「ばっ!何いってんだよ。あたいたちは、祝言なんて…」
美童の言葉に、悠理は真っ赤になり、清四郎はそれを見てやれやれという顔で苦笑した。

美童は、一足先に根津を出た。
ご贔屓から宴席に呼ばれているらしい。
「神田の油問屋の女将さんらしいですわ。美人で評判の」
野梨子はくすくすと笑いながら言ったが、悠理と清四郎は、複雑そうな笑みを浮かべただけだった。
「わたくしも、帰りますわ」
「あ、送っていくよ」
「まあ、そんな野暮じゃありませんわ。駕籠を呼んでくださいな」
「わかった。五助に呼びに行かせるから。まってろ」
悠理は下働きの五助を、根津の籠政まで使いに出した。
剣菱屋で贔屓にしている、しっかりした駕籠掻きである。
「じゃあ、また。今度は可憐たちもご一緒できたらいいですわね」
野梨子は、ひらひらと手を振った。
見送った後、寮に戻った二人は、縁側で色づいた紅葉を見上げた。
「あたいたちには、何もできないな」
「恋の道はままならないのが常ですからね…」
清四郎は、悠理を抱き寄せると、
「いつか、美童にも、野梨子にも、こうして抱きあえる人が現れますよ」
悠理は、清四郎の胸に顔をうずめ、
「それが、あの二人だといいな」
「そうですね…」

江戸は、晩秋から冬へと移っていった。
深川の白鹿清州の寮も、色付いた紅葉は散り、庭の風景がどことなく寒々しくなっている。
われは涙に乾く間も袖ほしあえぬ月影に、忍ぶ其夜の話を捨てて、縁を結ぶの神さんに、取り上げられし嬉しさも余る色香の恥ずかしや…
野梨子は、唄の一節を口にしながら、踊りを反芻していく。
ふと、手を止めると、ほうとため息をついた。
(わたくしには、このような恋の舞いは踊れない…気持ちがついていかないもの)
野梨子の目には、艶やかな美童の舞姿が浮かんだ。
(…美童の舞いからは、情念が感じられますわ…決して女子相手に本気にならないと聞いてますけど…誰か想い人がいるのかしら…)
野梨子は、手にした扇をひらひらと目の前で舞わせてみた。
その時、ごん、と寺の鐘が鳴った。
「いけない…遅くなってしまいましたわ。木挽町に戻らなくては…」
野梨子は、立ち上がると中庭に出た。
父と母はいま、上方に出かけている。
両親が留守の間は、奉公人が多い木挽町の家にいるようにと、きつく言われていた。
深川の寮には、老爺である茂平が住んでいるだけだった。
「茂平、貴船に言って舟を出してもらってくださいな」
茂平を使いに出させ、野梨子は帰り支度を始めた。
ふと、庭に人影を見た。
「茂平?どうかしましたの」
野梨子が廊下に出ると、庭に匕首を握った若い男が脇腹を押さえて立っていた。
「し、静かにしろ…」
男は、そう言うと、野梨子に近づいてきた。
押さえた脇腹から、血が滴っている。
「あなた、怪我をなさっているのね」
野梨子に近づく前に、男は膝を折って、突っ伏した。
「畜生…」
男は苦しげに息をしている。
歪められた顔は端正で、面差しはどことなく魅録に似ていた。
野梨子は、そろそろと庭先に出ると、男の手を取った。
男は、驚いたように野梨子の顔を見た。
「酷い傷…刺されたのですか」
「…あんた、俺が怖くないのか…」
野梨子は、微笑むと、
「この傷では何もできませんでしょ」
「…奇麗な顔して、気丈な娘だな…はは、言う通りだ」
男は、匕首を投げ捨てた。
「お、お嬢様、どうなさったので」
貴船から戻った茂平が、脅えたような声を出した。
男はびくりと体を揺らし、縋るような眼差しで野梨子を見た。
「いま、この家(や)に無頼のものが入ろうとしたのです。それを、この方が止めようとしたら刺されてしまって…」
「な、なんと、まあ」
人のいい茂平は、男に頭を下げ、
「お嬢様をお助けくださいまして、ありがとうございます」
そう言うと、男に肩を貸し、部屋に上げた。
「医者を呼んで参ります」
茂平が言うと、男は野梨子に向かって微かに首を振った。
「茂平。出血に比べてたいした傷ではありません。それよりも、焼酎とさらしを…それから、貴船に戻って、木挽町には今日は戻らないと言付けを…心配するといけないので、悠理の家に泊まると言って来てちょうだい。それから、他言は無用ですわよ」
「へ、へい」
茂平は、焼酎とさらしを置くと、貴船に取って返した。
「…あんた、嘘がうまいな…」
男は、初めて笑みを浮かべた。
男の笑顔を見て、野梨子の胸の奥が疼いた。
野梨子は、男の着物を脱がせると、応急の処置を施した。
清四郎の手伝いをしたことがある野梨子は、簡単な傷くらいは手当てできる。
だが、男の傷は軽いとは言えなかった。
「お医者を呼んではいけませんの」
「…頼む…これで死ぬなら、それでもいい…」
男は、野梨子の手を握った。
冷たい手だった。
野梨子は、清四郎が処方しておいてくれた薬の中から、痛みを止める薬を煎じた。
煎じていながら、なぜ、あの素性もわからぬ男を救ったのか、自分でも戸惑っていた。
(魅録に似ていたから…かしら…でも、どうして…)
野梨子は、赤々と燃える火鉢の火を見ながら、分からないと言うように首を振った。

男は夜半から熱を出した。
野梨子は、寝ずに男の側についていた。
時折、苦しげな息の中、男は魘される。
まるで、悪夢を見ているかのように。
涙を流す男の手を、野梨子は握った。
熱があって、体が熱いのに、男の手は冷たい。
その手の冷たさが、野梨子の心も凍えさせた。
「お嬢様…やはり、お医者さまを呼んだほうが…何か、訳があるようなら清四郎さまを…」
「ええ…」
野梨子は逡巡した。
夜が明けると、野梨子は、茂平を使いに出した。
美童の元へと…
煎じ薬を飲ませるため、野梨子は男の頬を軽く打った。
男は、目を開いた。
「薬をお飲みになってください」
野梨子に促され、男は片口から薬を飲んだ。
はあと、息を吐くと、
「あんた…人形みたいに奇麗だな」
と、男は震える指で野梨子の頬に触れた。
「あなた、名前は」
「…祐也…あんたは?」
「野梨子…白鹿野梨子ですわ」
「…野梨子、か…」
祐也は、目をつぶると、また意識が混濁してきた。
野梨子は、ただ、祐也と名乗る男の、冷たい手を握っていた。








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