大江戸有閑倶楽部事件帖
刹那の恋〜二〜 かめお様作




「これは、これは…」
美童は、深川の寮に駆けつけると、寝床で意識のない祐也と、野梨子の顔を見比べた。
「酷いな、熱が」
美童は、祐也の額に手を当てた。
美童は、茂平を呼ぶと、紙に書きつけをし、
「疲れているところ悪いけど、この先生を呼んできて。美童からといえば来るから。大川沿いに家があるから舟が早いよ」
「へい、すぐに」
茂平は、野梨子と美童のために握り飯を置くと、慌ただしく出ていった。
「ごめんなさい…美童…」
「謝ることはないよ…ただ、清四郎じゃなく、僕を呼んだ理由がね…」
「え…?」
「病人なら、清四郎を呼んだほうが早いでしょ…茂平さんから聞いた話とは違うみたいだね…この男、何者…?」
「…知りませんの」
美童は、少しだけ悲しげな顔をして、
「清四郎ならこう言うね。素性の知れないものを家に入れるなんて、野梨子らしくありませんね…って」
「美童…」
困ったような顔をした野梨子を見て、美童は微笑むと、
「いいよ。みんなには内緒にしてあげるよ。ただし、傷が治ったらそれで終わりだよ。分かっていると思うけど、野梨子とは住む世界が違う男だと思う…」
「ええ…承知しておりますわ」
野梨子は、俯いたまま頷いた。
「お茶をいれてきますわね」
野梨子が去った後、美童は縁側から中庭越しの空を見上げた。
「恋は…落ちるものってのは…ほんとうだね…」
はあと、美童の口から漏れたため息は、白い煙のように空に消えた。

茂平が、本所の室井了庵という医者を連れてきた。
了庵は美童の贔屓で、裏家業のものでも隔てなく診てくれる。
了庵は、傷を縫い合わせると、美童を隣室に呼んだ。
「傷はな、上手いこと急所を外れておる。まあ、見た目より酷くないじゃろ。それよりも…」
了庵は声を潜め、
「あの男、臓腑に腫れ物がある。たぶん、そう長くはもつまいよ」
美童は、隣室で祐也の側に座る野梨子の後ろ姿を見た。
(初恋だろうに…なんて言うことだ)
美童は、野梨子の心を慮り、暗澹とした気持ちになった。
「美童、お医者さまは何て…」
「急所は外れているから、熱が下がれば大丈夫だろうって…」
「まあ…よかった」
野梨子は、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「僕は、舞台があるから戻るよ。夜、また来るから」
「まあ、美童。ごめんなさい…舞台があるのに、わたくしったら…」
「野梨子が僕を頼ってくれて嬉しいよ」
「美童…」
野梨子が美童の手を取った。
野梨子は、美童を見上げると、
「美童の手は、とても温かいですのね」
「知らなかったの、野梨子は。心も温かいんだよ」
美童は、片目を瞑って、おどけてみせた。
「落ち着いたら、また稽古をしよう。ね」
「ええ。きちんと踊りたいですわ」
名残惜しげに、美童は野梨子の手を解くと、
「気をつけるんだよ」
と、微笑んで、踵を返した。

君の心は汲みにくい、さりとは実に誠と思わんせ…
美童は、ひらひらと舞台の上で舞い踊る。
「今日の太夫、いつもよりも気が入り込んでいますね」
「ああ、素晴らしいな」
舞台の袖で見ていた役者同士が、ひそひそ話す。
観客からも、ため息が絶え間なく漏れていた。
その頃、野梨子は祐也の枕頭でうとうとしていた。
茂平は、夕飯の支度のため台所にいる。
遠くから、煮炊きの音が聞こえてきた。
祐也は、こくりこくりと船を漕ぐ野梨子を見ていた。
祐也の手は、野梨子に握られたままだ。
野梨子の体がぐらりと揺れるのを、祐也がとっさに抱き留めた。
「あ…」
「眠るなら、横になった方がいい」
一瞬、驚いた野梨子だが、祐也に抱きついたままの自分に気がつき、顔が熱くなっていくのを感じた。
「わたくし、つい、うとうとしてしまって…」
「すまねえな…こんな見もしらねえ男のために…」
野梨子は、祐也の額に手を当てた。
「熱は、下がりましたのね」
「ああ…」
祐也は、脇腹を押さえながら、横になった。
「なあ」
「はい?」
「なんで、俺なんか助けたんだ」
祐也は、じっと野梨子を見た。
「たぶん…わたくしの友人にあなたが似ていましたから」
「…あんたの好きな男か」
「いいえ…わたくしの親友の想い人ですわ…」
「へえ…いい男だろ。俺に似てるんならさ」
「まあ…」
野梨子は楽しげに笑った。
祐也は、そんな野梨子をじっと見つめている。
野梨子は、気恥ずかしくなり、顔を背けた。
「…こっち見てくれよ」
「でも…そんなに見つめないでくださいな」
「あんたみたいに奇麗な人は、初めて見るんだ…この目に焼き付けておきたいんだ…どうせ、直に…」
そう言いさして、祐也は口を閉ざした。
野梨子は、何故か心が苦しくなり、逃げるように部屋を出た。
(わたくしは、あの目をどこかで見たことがある…どこで…いつ…)
野梨子は、胸の鼓動が早まるのを感じた。
「…美童…はやく、ここへ来て…」
野梨子は、無意識のうちに美童の名を呼んだ。

美童は、夜半に深川の寮にきた。
少し、酒が入っているのか、顔が上気している。
美童の姿を見て、祐也の目に殺気が走り、体を起こしかけた。
「祐也さん。大丈夫、わたくしの友人ですの。お医者さまを呼んでくださったのも、彼ですのよ」
野梨子に言われ、祐也はまた身を横たえた。
美童は冷笑を浮かべると、
「野良犬みたいな目だね」
「美童」
野梨子が気色ばむのを見て、肩をすくめた。
「野梨子、少しお眠り。僕が見ているから」
「でも…」
「酔いざましさ。しばらくしたら、起こすよ」
野梨子は祐也をちらりと見た。
祐也は、微かに頷いた。
「少し休みますわ。美童、あなたも疲れているのに…ごめんなさい」
野梨子が部屋に引き取ると、祐也と美童はお互い口をきかないまま、しばらくすぎた。
「…なあ、異人の役者さんよ」
祐也が、天井を見据えたまま、声をかけた。
「なんだい、野良犬さん」
美童の返事に、祐也は苦笑を浮かべ、
「医者を呼んでくれたんだってな…」
「ああ。余計な事をしたね」
「ほんとだ…な。どうせ、長くない命だ…」
祐也は、美童に顔を向け、
「医者は、あとどのくらいと言っていた」
美童は、眉を少し動かすと、
「知っていたのか?」
「ああ、俺の体だ」
「そう長くはないと言っていたよ」
「そうか…」
祐也は、ほうと息をつくと、
「安心しなよ…二三日中にはここを出て行く。お嬢さんに無体な真似はしやしねえよ…」
「もう、遅いよ」
「え…」
美童の呟きに、祐也が問い返した。
「いや…そうしてくれ。野梨子とあんたとじゃ、住む世界が違いすぎる…」
「ああ」
美童は、溜め息を漏らし、
(頼む…野梨子がこれ以上、お前に魅かれないうちに、消えてやってくれ…)
と、声にならない声で呟いた。

翌朝、祐也はわずかの重湯を飲んだ。
傷はまだ痛むようだが、熱はない。
野梨子は薬を煎じ、祐也に与えた。
「なあ…」
「はい?」
「今日は、何日だ…」
「今日は、十日ですけど」
「十日…」
祐也は、起き上がると、
「すまねえが、墨と紙を貸してくれ」
「お手紙なら、わたくしが書きましょうか」
「いや…頼む」
「はい」
野梨子は小さな文机を寝床の側に置くと、墨を磨り、紙と筆を用意した。
「しばらく一人にしてくれないか…」
野梨子は、部屋を出ていった。
半刻ほど後、祐也は台所まで行き、茂平に、
「頼むが、この文を届けてほしい」
「へい。どちらに…」
祐也は、声を潜め、
「南町奉行所の松竹梅魅録さまにだ」
「え…?」
「なんだ?」
「あなた様は魅録ぼっちゃまのお知り合いで…」
「魅録を知っているのか」
「知っているも何も…お嬢様は魅録さまとはご昵懇で…」
「もしや、菊正宗清四郎も知っているのか」
「清四郎さまは、お嬢様の幼なじみでございます」
「何てことだ…」
「そうですか、魅録さまと清四郎さまの…」
内心、祐也を胡散臭く思っていた茂平は、魅録や清四郎の名が出たせいか、愛想よく使いを引き受けた。
「茂平さん。お役目にかかわることだ。ここのお嬢さんには行き先は内緒に…それから、この文は門番に預けてくれればいい。返事はいらねえ。事情があって、俺がここにいるのが知れるのはまずいんだ…」
「承知しました」
祐也が部屋に戻ると、野梨子が着替えを用意していた。
「美童が届けてくれましたの」
そう言って、祐也に着物を着せかけた。
「茂平さんに使いを頼んだ。すまねえ」
「…どなたか、お迎えが参りますの」
「いや…」
祐也は、着物を着ると、
「世話になった」
と、足下も覚束ないまま、出て行こうとした。
「待って」
野梨子は、祐也にすがりつくと、
「お願いです…行かないで…行かないでください」
と、祐也の体に回した手に力を込めた。

松竹梅魅録は、役宅の居間で内与力の大関主税に見せられた人相書きを見て、顔をしかめた。
「いや、その、この男の人相書きが坊ちゃんに似ているからではなく…その、裏世界にお詳しい坊ちゃんならば、見知っている者かも知れぬと…」
大関はへどもど言い訳をする。
魅録は、じろりと大関を見ると、
「こいつは、本当に人を殺めたのか」
「はい。清州の政五朗という凶盗の一味でございます」
魅録は、はあとため息を漏らすと、
「清四郎を呼んでくるよう使いを出してくれ。日本橋の剣菱屋か、根津の寮にいるはずだ」
「は、はい」
「清四郎が来たら、お前に話してやるよ」
「承知いたしました」
大関が去ると、魅録は人相書きを手にし、
「馬鹿野郎…盗っ人なんぞに落ちぶれやがって…」
そう呟くと、苦しげに顔を歪めた。
「魅録ぼっちゃま」
用人の石清水新左衛門が、門番から文を預かってきた。
魅録は、その文を読むと顔色が変わり、
「誰が届けたんだ」
「さて…どこぞの老爺が頼まれたと…」
「門番の誰だ」
「い、伊蔵でございます」
魅録は、伊蔵を呼んだ。
「これを持ってきたのは、老爺といったな」
「はい…」
「誰かから頼まれたのか」
「はい、そう申しておりましたが…」
「なんだ、何かあるのか」
「はい…どうも、その爺さん、どこかで見たような」
「思い出せ。思い出したら、俺に言え。おい、誰か、大関を呼べ」
大関がやって来ると、魅録は文を差し出した。
「坊ちゃん、これは…」
「お前が持っていた人相書きの男からだ」
「え…?」
「こいつは、俺と清四郎の昔馴染みなんだ」
「本当でございますか、坊ちゃん」
「すぐに親父に言って、捕物の支度をしろ。これは、当たりの話だ」
「承知しました」
南町奉行所がにわかに慌ただしくなった頃、菊正宗清四郎が奉行所の門をくぐった。
見知った同心に断りをいれ、清四郎は役宅の魅録の部屋に向かった。
「騒がしいですね。捕物ですか」
清四郎が部屋に入ると、魅録は人相書きと文を差し出した。
それを見て、清四郎の顔色が変わった。
「これは…祐也…?」
「ああ、そうだ。因果小僧なんて二つ名を持ちやがって…あの馬鹿野郎…」
「悪徳金貸しに騙され、母上が自害されたと聞きましたが…」
「ああ。その金貸しを刺して、江戸を売ったのに…盗っ人なんかになって戻って来やがって…」
魅録は、やり切れないというように、首を振った。
「この文によると、前非を悔いて盗っ人仲間を抜けたとありますが…」
「ああ。仲間を裏切って、押し込み場所を教えてきた」
「浅草寿町の両替商、大阪屋ですか…豪商ですね」
「こいつら、人殺しなんかなんとも思ってねえ奴らだ…お前さんも手伝ってくれるか」
「もちろんですよ」
魅録は立ち上がると、
「大阪屋が片づいたら、祐也を探す。江戸にいるのは間違いなさそうだ…」
「探して…捕らえたらどうなります…」
「…話し次第だが…」
魅録は、苦渋に満ちた表情で、
「よくて遠島…死罪かもしれねえ」
「死罪…ですか」
魅録は、清四郎の肩を叩き、
「まずは盗人だ。頼むぜ、清四郎さんよ」








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