大江戸有閑倶楽部事件帖
刹那の恋〜三〜 かめお様作




祐也は困惑していた。
「おい…お嬢さん。どうしたって言うんだ」
咽に何か絡まったように、擦れた声で祐也は言った。
野梨子は、震える手で祐也にしがみついたまま、
「わからない…わからないんですの」
と、呟いた。
「おい…」
祐也が、振り向いて、野梨子を見ると、野梨子の目からは涙が溢れていた。
「…何で、泣くんだ」
祐也は、野梨子の涙に濡れる頬に唇を押し付けたい衝動に駆られた。
が、ふと、美童の青い瞳が頭に過り、咄嗟に野梨子の体を引き離した。
「いけねえよ…お嬢さん。俺になんぞ触れたら、あんたが汚れる」
「そんなこと…」
祐也は脇腹を押さえると、
「いけねえ…また痛みだして来やがった」
「だから…もうしばらく…ここに」
祐也は微笑むと、
「あとしばらく、世話になるよ」
そう言うと、寝床に横になった。
「すまねえが、茶をもらえるか」
不安そうな野梨子に向い、祐也は笑うと、
「約束するよ…黙って出て行ったりしねえよ」
祐也の言葉に、野梨子は微笑むと、茶を入れに部屋を出た。
「…あいつらが来る前に…消えちまおうと思ったが…仕方ねえな…これも俺の運命(さだめ)なら」
祐也は、天井に向かい、誰に言うではなしに呟いた。

その夜、美童は芝居が跳ね、ご贔屓筋との宴席の後、浅草の茶屋を出た。
「恋に心も移ろいし花の吹雪の散かゝり、払うも惜しき袖笠や…」
美童は、鷺娘の一節を唸りながら、ふらふらと道を行く。
ふと、後ろから肩を叩かれ、びくりと身構えた。
「おう、いい調子じゃねえか」
「魅録、清四郎も…」
美童は、近くの居酒屋に連れ込まれた。
「珍しいね。男二人で差しつ差されつかい」
「馬鹿、そんな色気がねえ」
魅録は笑うと、美童の耳元に口を付け、
「捕物なんだよ」
「へえ…」
魅録は懐から人相書きを出すと、美童に見せた。
「芝居小屋なら人の出入りが多いだろ。こいつ、見覚えないか」
人相書きを見て、美童の愁眉が動いた。
「知ってるんですか、美童」
清四郎の問いに、美童は驚いたように目をむくと、
「知ってるも何も…魅録?」
美童の言葉に、清四郎と魅録が同時に苦笑を浮かべた。
「ちぇ、お前までそんなこと言いやがる。こいつはな、盗人の仲間で、因果小僧の祐也って言うんだ」
「へえ、盗人なんだ。こいつが、何かしたの?」
「今日の捕物はな、こいつからの情報なんですよ」
清四郎が小声で囁いた。
「…仲間を売ったの」
「まあ、そうです」
「なら、改心したんだろ。お目こぼしで、探さなきゃいいじゃないか」
「そうはいかねえんだ」
魅録も清四郎も、暗澹とした表情で、
「こいつはな、俺らの昔なじみなんだ…」
「え?」
「堕ちるところまで堕ちたこいつを、俺らが救ってやる方法は、こいつを捕らえる事なのさ」
「…」
美童は唇を噛みしめた。
親友であるこの二人の心が痛いほどわかったから。
そして、野梨子と、祐也のこの先を慮り、美童は泣きたいような気持ちであった。
「気をつけてね、二人とも」
「ああ、お前も。寿町辺りは近づくなよ」
美童は、二人と別れるや、夜道を駆けた。

「まあ、美童。そんなに息を切らせて…どうなさいましたの」
顔を真っ赤に走り込んできた美童に、野梨子が驚いたように言った。
美童は、水を勢いよく飲むと、
「い、犬に追いかけられてさ」
「犬?ですか?」
野梨子が、くすりと笑った。
「それよりも、何か食べさせてくれる。お腹空いちゃった」
「ええ。茂平が休みましたので、簡単なものしかできませんけど…」
「お茶漬け!それと、冷で一杯ね」
「はいはい」
美童は、祐也の寝間に入ると、急に表情を厳しくした。
「どうした…」
美童は、懐から紙入れを取りだすと、
「たぶん、五両ばかりは入ってると思う。これ持って、出て行ってくれ」
「…薮から棒だな」
美童は声を潜めると、
「魅録と清四郎を甘く見るな。あいつらは、必ずお前を見つけだすそ」
「なんで、お前、それを…」
「いま、二人に会ったのさ。浅草でね」
「そうか…」
祐也は、天井を見つめ、
「魅録の奴、俺の文を信じてくれたんだな…」
美童は、祐也の腕を引っ張ると、
「さあ、早く」
「俺は、逃げねえよ」
「なんだと」
美童は、祐也を睨みつけた。
「俺は、魅録にお縄になる…さっき、そう決心したんだ」
「勝手なこというな…野梨子にそれを見せるのか」
美童は紙入れを祐也に投げつけた。
「野梨子の気持ちを察してやってくれ。あいつはお前に魅かれてる。悔しいけどね。きっと、野梨子の初恋なんだ。その男が、自分の親友の手で捕らえられるのを見せるというのか」
低いが、気持ちのこもった美童の声に、祐也は心が揺さぶられた。
「俺は、逃げようとしたんだ」
「え…」
「ここから逃げようとした…その時、お嬢さんが止めたんだ…それで、決心がついたのさ…魅録の手でお縄にしてもらおうとね」
祐也は、美童を見ると、
「俺の手が血に塗られているのは変えようもない事実だ…俺は、お嬢さんにそいつをすべて話すよ」
「よせ…やめてくれ…」
「太夫よ、何を心配してるんだ。あのお嬢さんは強いよ…それに、一時は悲しんでも、あんたがいるじゃねえか」
祐也は美童の手を掴み、
「あんたも強いよ。あんたの生きてきた道は、きっと俺なんかよりずっと苦労が多かっただろうに…江戸一番の役者になって…俺は弱虫だ…世間を憎み、人を憎み、揚げ句の果てには人殺しの盗人さ…」
がちゃん…と、食器の割れる音がした。
障子の陰で、野梨子が目をむいたまま立ち竦んでいた。
「野梨子…聞いてたのか」
「祐也さん…人殺しの盗人って…どういうことですの」
祐也は、切なげに顔を歪めると、
「お嬢さん…あんたには何もかも話しておくよ…聞いてくれるか」
そう言って、野梨子を見上げた。

大阪屋の捕物は、壮絶を極めた。
盗人の抵抗は激しく、奉行所の捕り方や小者の数人が死傷した。
だが、魅録、清四郎の活躍もあり、一人も逃す事なく捕縛し、南町奉行所に連れ帰った頃には夜が明けていた。
「ずるいよ、お前ら」
南町奉行所では、悠理と可憐が待っていた。
「捕物だろ。あたいも連れてけよ」
悠理がぷうと頬を膨らませ、清四郎を小突いた。
「ご無事で…」
可憐が、魅録の顔を見て、ほっとしたように微笑んだ。
「湯を浴びてこようぜ。その後、飯だ」
魅録と清四郎が着替えを済ませ、朝餉の膳の前に座った時、門番の伊蔵が走り込んできた。
「ぼ、坊ちゃん。思いだしました、思いだしましたよ」
「何だ、そんなに慌てて」
魅録が言うと、伊蔵は不満そうな顔をして、
「坊ちゃんが思い出せって言うから、あっしは寝ずに考えたんですよ。で、さっき、剣菱屋のお嬢さんを見て、もやもやしてきて…いま、思い出したんですよ」
「だから何をだ」
「爺さんですよ、文を届けた爺さんを思い出したんですよ」
「それを早く言え。で、どこの誰だ」
「白鹿様の深川の寮番の爺さんなんですよ」
「何だって…」
魅録と清四郎は顔を見合わせた。
「どしたんだよ?野梨子んとこの茂平さんが、どうしたんだ」
魅録と清四郎は頷き合うと、刀を手にし、
「出かけてくる」
「お、おい、待てよ。飯はどうすんだよ」
「悠理がみんな食べてください」
あっと言う間に、二人は走りだした。
「あ、あたいも…」
立ち上がりかけた悠理の腕を、可憐が掴み、
「あんた、あたしの力作、食べないつもりなの」
「え?」
朝餉の膳には、可憐渾身の食餌が並んでいる。
悠理は、思わずごくりと咽を鳴らした。
「たぶん、あいつらは野梨子のところに行ったのよ。食べてから行っても遅くないと思うけど…」
「う、うん。そうだな」
悠理は、箸を持つと、端から膳のものを平らげていく。
それを見ながら可憐は、
(あの二人の様子から、何か事情があるようね…野梨子に関わりがあるなら、あたしたちにも来いと言うけど…来て欲しくなさそうだったわ)
可憐は、旺盛な食欲を示す悠理を横目で見て、
(さて、この子をどう言って足止めしようかしらね…)
やれやれという風に肩をすくめた。

魅録と清四郎は舟の上にいた。
掘割から、馴染の船頭に頼み深川へ向かった。
「いま思ったんですけどね」
清四郎が、空を見上げながら魅録へ言った。
「美童は…知っていたんじゃないですかね…祐也が野梨子の家にいた事を」
「ああ、俺もそう思ったよ…」
清四郎は苦笑し、
「何だかんだ言っても、あいつも役者ですね…」
「そうだな…」
魅録は、不安げな瞳を向け、
「それにしても、なぜ野梨子と関わる事になったんだ…それがわからねえ」
「ええ…たぶん、祐也は僕の家で野梨子とは一度くらい会ったとは思うんですがね…でも、ずいぶんと子供の頃ですからね…覚えていたとは思えない…」
「野梨子からも、祐也の名前なんぞ聞いた事がねえもんな」
「ええ…」
二人は、川面を眺めた。
深川の寮の前では、茂平が立っていた。
魅録と清四郎を見ると、茂平は驚いたように頭を下げた。
「ちょうど、美童さまからお二人をお迎えにいくようにと言われましたもので」
「美童が来ているんですか」
「はい。昨晩から」
茂平に案内され、二人は寮の一室へ入った。
「野梨子…」
そこには、きちんと身支度をととのえた祐也と、美童に抱きかかえられるようにして、憔悴し切った野梨子の姿があった。
「…さすがだな…魅録、清四郎。呼びに行くまでもなかったな」
祐也は、ほろ苦く笑った。
祐也は、野梨子の前に手をつくと、
「お嬢さん、いろいろと御厄介をおかけいたしました。ありがとうございました」
と、頭を下げた。
野梨子は虚ろな目で祐也を見ていたが、急に込上げてきたように、美童の胸に顔をうずめ、声を上げて泣き出した。
祐也の目からも涙が溢れている。
「魅録…」
美童が、口を開いた。
「結城藩に使いを出して、可憐を呼んでくれる」
「可憐なら、奉行所にいるぜ」
「そう…よかった」
「すぐにここへ来させる」
「頼むよ…僕、舞台があるからさ…」
「ああ」
魅録と清四郎に促され、祐也は立ち上がった。
部屋から三人が出ていくと、それまで嗚咽していた野梨子が、急に立ち上がり、裸足のまま寮の中庭を駆けた。
「祐也さん」
中庭の垣根越しに、野梨子が叫んだが、祐也は振り返らなかった。
「う、ううう」
ずるずると崩れ落ちる野梨子を、美童が支えるように部屋に上げた。
「…思い出しましたの…いま」
「祐也さんの事?」
「ええ…昔、子供の頃、清四郎の家でお目にかかった事があったのですわ」
「ほんとう?」
野梨子は、嗚咽しながら、
「わたしが、鞠を池に落としてしまって、彼が取ってくれて…ありがとうって言ったのに、祐也さんは、いまみたいに振り返ってもくれなくて…」
「…恥ずかしがり屋だったんだろ、彼…」
「ええ…清四郎が、そう言っていた気がしますわ…」
野梨子は、美童の顔を見上げ、
「もう少し、早く思い出したかった…残酷ですわね…」
「ああ…」
美童は、野梨子を抱く手に力を込めた。

因果小僧こと祐也は、お調べに淡々と答えた。
悪徳金貸しに騙され、母が自害した後、その金貸しを刺し逃げたのが転落の始まりだった。
当時、十六歳であった。
無一文で、行き倒れ寸前の祐也を助けたのが、政五朗であった。
政五朗から盗みを仕込まれ、自暴自棄も手伝って、悪に身を落とした。
さすがに人殺しは避けていたが、弾みとはいえ、盗みに入った家の娘と、番頭を殺害している。
いまさら悔いても遅いことは、祐也が一番知っていた。
「病で残り少ないいのちでございます。せめて、最後くらい、潔くお裁きを受け、お仕置きと相成って、果てとうございます」
吟味方与力に、祐也は深々と頭を下げた。

あれから…
野梨子の側を、可憐と悠理が片時も離れなかった。
美童も、魅録も、清四郎も、時間が許す限り、野梨子を訪ねた。
美童から大まかな経緯は聞いていた悠理と可憐だが、野梨子には一言もそれを尋ねなかった。
また、野梨子も、祐也のことは口にしなかった。
そして、一月ほど後、江戸に雪が舞うある日、剣菱屋の寮に六人が久しぶりに揃った。
「美しいですわね」
舞っては消える雪を見上げて、野梨子が呟いた。
「美童、わたくし、またお稽古をお願いしたいのですが…」
「踊る気になったの」
「ええ」
野梨子は微笑んだが、美童は眉をひそめると、
「駄目。まだ、野梨子には踊れないよ」
と、きっぱりと言った。
野梨子の顔色が変わった。
「なんだよ、美童。そんな言い方はないだろ」
悠理が、美童に食ってかかる。
美童は、口の端に冷笑を浮かべ、
「いまの野梨子には、踊れない」
と、言い切った。
「魅録、祐也さんのお裁き、昨日出たんだろ」
美童の言葉に、みなぎょっとした。
「本当ですの、魅録」
青ざめた顔で野梨子が問う。
「ああ…出たよ」
「それで…お裁きは」
魅録は逡巡したが、意を決したように、
「死罪だ」
と答えた。
「どうして!祐也さんは、お上のお役に立ったのでしょう。罪一等を減じられてもいいはずよ」
「そうだよ。どうして死罪なんだ」
可憐と悠理が堪らず叫んだ。
魅録と清四郎は、苦しげに顔を歪めている。
悠理は、懐から懐剣を出すと、
「あたい、じいちゃんに頼んでくる。せめて、死罪を免じてくれるよう、頼んでくる」
「悠理!」
野梨子の叫びに、悠理は体を震わせ振り向いた。
「余計なことはしないでくださいな」
「余計なことって…あたいは、野梨子の気持ちを考えて…」
「わたくしの気持ちを思うなら、何もしないでくださいな」
「野梨子…」
野梨子は唇を噛みしめ、握った手をわなわなと震わせながら、
「死罪は、あの人の望みなのです。あの人は病でもう長くないのです」
野梨子の言葉に、悠理と可憐は驚きの表情を浮かべた。
「あの人は、最後くらい…自分の手で殺めた方々への罪滅ぼしにもと、潔くお仕置きを受け、世間様に己が罪を明らかにして…せめて、最後くらい…人間らしく…と」
野梨子の目から、涙がこぼれ落ちる。
「来世には、せめて真っ当な人間に生まれ変われるようにと…あの人は願っているのです…だから、どうか、あの人の好きにさせてくださいな…」
「野梨子…」
「わたくしは、大丈夫…強く生きると、約束したのですから…」
野梨子は、そう言って笑った。
涙を流しながら。
「野梨子、ごめん」
悠理が野梨子に抱きつき、嗚咽を漏らした。
そんな二人を優しく包むように、可憐が腕を伸ばす。
女三人の嗚咽は、積もりゆく雪に吸い込まれるように消えた。








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