もっぷ作

空蝉 (うつせみ)

12.

 

すぅすぅという寝息だけが部屋の中に響いている。
時折本のページをめくる音が不規則に混じる。
「あれ?悠理、また寝ちゃったの?」
部屋に入ってきた美童が小さな声で言うと、絨毯の上に寝転がる悠理の体温を感じるほど近くに座っていた野梨子が苦笑して頷いて見せた。
「いつものように消耗しきったようですよ」
少し離れたソファに座って小説本に目を通していた清四郎が、視線はそのままに答えた。
「なんか僕もすごく疲れたよ」
美童が野梨子のすぐ傍まで近づいてきて、悠理の寝顔を覗き込む。
野梨子はその視線をたどるようにつられて悠理の顔を覗き込むと、その前髪をそっと撫でてやる。
「美童も今回は頑張りましたものね。頼もしかったですわ」
「あれ、珍しく野梨子に褒められちゃった」
と、美童は心から嬉しそうに忍び笑いを漏らした。
清四郎はそんな二人の様子に「おや」と片眉を上げた。
「魅録と可憐はまだ戻りませんのね」
「もうそろそろだと思うよ」
二人は別荘に置いてあった車を借りて、近くの街まで買い物に出ていた。バーベキューの炭が足りなさそうだったのだ。

「また雨にあわなければよろしいけれど」
と、野梨子は冷房を効かせるために閉めきった窓の外を見上げた。
「当分あんな悪夢はごめんだね」
ふう、と美童も眉根を寄せた。
存外田舎の蝉の声は東京のビル街に響く蝉の声ほどうるさくはない。窓の向こう、遠くでかすかに聞こえるのみだ。
「本当に、夢のような出来事でしたわね」
ほお、と野梨子がため息をついた。

まさしく一炊の夢のような出来事。
ひととき70年もの昔に迷い込み、男の妄念によって殺されかけた。
なにがどうなったのかはわからぬままに、皆は現代へと帰ってこれたけれども。

70年前の人骨が出てきた、ということで小さな田舎の村は騒然となった。
地元の老人いわく70年前の当時、今は更地になっている祠の裏に住まう夫婦があったという。
まもなく月遅れの盆(関東ではまだ7月がお盆の地域が多かったが、この地域はこの頃すでに8月をお盆としていた)という夏の夜、妻のほうが忽然と失踪した。幼馴染の男と駆け落ちしたのだろう、と思われた。
しかし村の皆がお義理に捜索活動をしているさなか、8月13日の盆の入りに妻に逃げられた亭主が迎え火を焚いているのを近所の人間が目撃したという。

村ではひそやかに囁かれた。
「もしや妻とその恋人は、夫に殺されたのではないか」

そして、男は盆明けに失踪した。
近所の人が家の中がもぬけの殻になっていることに気づいたときには、庭先で送り火と思われる火が小さくくすぶり続けていた。
そこにある木の数に見合わぬほどの無数の蝉の抜け殻が庭に落ちていたのが印象的だったという。

「よく帰ってこれたよね」
やっぱり悠理のおかげだね、と美童はしみじみと思う。
「まあ、彼女の説明ではよくわかりませんでしたけれどね」

───なんかね、別の女とあたい一緒になってたみたいなんだ。で、なんか抱きつかれたーと思ったらぶわーってなんか入ってきて、それが手にもくわーっときたから振り回してみたんだ。

「『えらいだろー』って胸まではってたよね」
くすくすと美童が笑う。
「恐らく縁切りの神の力が悠理にやどったというところでしょうね」
突如として清四郎が話にはいってきた。いつのまにか読んでいた本は膝の上に伏せている。

あのとき少女から清四郎へと受け渡された“力”が、悠理を茂夫から引き剥がしたときに彼女のほうへと移動したのだろう。
そしてその悠理の中の力が彼女の手へと集約され、空を切り裂く力となったのだろう。
 

「結局、“うつろ”との縁を切られたのは誰でしたのかしら?」
「茂夫さんであり、有里さんであり、清治さんであり・・・僕たちだったのでしょう」
望まぬ結婚をさせられて有里はうつろにとらわれていた。
ようやく清治と二人でそれを埋めようとしたところで茂夫に殺され、再びうつろにとらわれた。
茂夫のほうでも有里の心が自分にないという事実に、うつろの心にとらわれてしまった。
二人を殺したところでそのうつろが埋まることはなく、あの祠の屋根裏に自ら上り、命を絶ったのだろう。

「縁切りって男女の縁を切るだけじゃないんだ?」
美童が首をかしげた。
「ええ、縁切りというのは男女の縁に限らず、悪癖ですとか長患いですとかあらゆるものとの悪縁を断ち切るものです」
板橋にある縁切榎は酒好きのものが酒嫌いになるというご利益もあるといわれている。
「朽ちてしまった本尊というのも、どんなものだったのかしら?」
光源氏との縁を断ち切るために女人が脱ぎ捨てていった空蝉になぞらえた蝉の抜け殻だったのだろうか?
それとも祠が空であることそのものが、空蝉を表していたのか。
「今となっては、わかりませんね」

白昼夢のような出来事。
“悠理”とともに迷い込んだ真新しかった祠の中には、何が祀られていたものか。
清治さんと有里さんに似た名前の清四郎と悠理がたまたま過去の出来事に巻き込まれてしまったのか。
それともあの3人それぞれの“うつろ”との縁を断ち切るために縁切りの神に呼ばれてしまったものか。
“うつろ”との縁を切ってやりたいのに、自らがうつろであるために果たせぬ神の嘆きに呼ばれたのかもしれないな。

清四郎がつらつらとあの時のことを思い出していると、小さく「ううん」と声を立ててから悠理が目を覚ました。
体を起こしてすぐ傍にいるのが野梨子と美童であることをみとめると、「おはよ」と言った。
「ようやくお目覚めですか」
そう言われて悠理は清四郎もいることに気づくと、そそくさと野梨子と美童の陰に隠れた。
「おいおい、どうしちゃったのさ。この別荘に着いてから清四郎を避けっぱなしじゃん」
と、美童が目をまん丸にして悠理に問うた。
昨日、あの夢のような出来事のあとでこの別荘に着いてから悠理はとにかく眠りがちだった。
幽霊関係の事件に遭遇するたびにそうだったので皆は気に留めていなかったが(彼女がそうして安らかに眠り続けるということは危険が去った証でもある)、たまに目が覚めると清四郎に対して警戒感丸出しなのである。
皆がその理由を尋ねてもそれを答える前に食べるものだけ食べて眠り込んでしまうので、いまだ理由が不明だったのだ。
「だって・・・清四郎、スケベだもん」
悠理が頬を赤らめながら野梨子の肩にかじりつくようにして言った。

その言葉に美童は「何を今更」と噴出し、野梨子は「なにをなさいましたの!」と目をむいて清四郎を睨みつけ、清四郎は一気に赤面した。
「あ、あの時、やっぱり悠理だったんですか?!」
と声まで裏返らせて清四郎が問う。
そのあまりの焦り具合に美童は「これは面白くなったぞ」と思った。
「あたいじゃないもん。有里って女だったもん」
「じゃあなんで悠理がそれを知ってるんですか?あなたはずっと皆と一緒にいたんでしょ?」
清四郎がまくしたてる。
つまり清四郎が皆の傍から離れたときの話だろうか?と野梨子は首をかしげる。
確かに悠理はその場にいたが、意識はなかった。もしかしたら・・・。
「悠理?幽体離脱してましたの?」
「わかんないけど、あたい有里って女になってた・・・かも」
「ぼ、僕だって清治さんに同化してたんですよ!あれは僕たちじゃなくて、清治さんと有里さんの記憶です!」
と、清四郎がなおも言い募るのを無視して、美童はにやにやといやらしい笑みを浮かべながら悠理に尋ねた。
「で?清四郎になにされたの?」
すると清四郎と悠理の顔が同時に沸騰するように赤さを増した。
「言われてみれば、ただうなされてるだけにしては悠理の悶えかたが妙に色っぽかったよねー」
と、なおも美童が続けると、悠理がぽかりと彼を殴った。
 

「・・・いったい何を盛り上がってるわけ?」
と、ちょうどその場面で戻ってきてドアを開けた可憐が首をかしげた。
「それがねー、聞いてよ聞いてよ」
と、美童が悠理に殴られたダメージから瞬時によみがえり楽しそうに言おうとする。
「言うな!」
悠理と口をそろえて叫ぶ清四郎をやや白い目で見ながらも、でも野梨子はどこか楽しんでいた。

「へー、そういえばうわごとで悠理、『清四郎』って呼んでたわね」
「こっちで清四郎の名前出したら目まで覚ましたんだろ?」
車を止めてきた魅録まで混ざって皆はひとしきり二人をからかって遊ぶことにしたらしい。
まさか二人は祠でなにがあったかはっきり言うことはできず、ずっと否定に回っている。
「さっき清四郎が『やっぱり悠理だった』って言ってたってことは、しっかり清四郎も相手が悠理と思ってスケベな行為をしたみたいだし?」
「あたいはだから!自分じゃなかったってば!」
そうじゃなきゃあんな行為に耐えられるもんか!
「まあその割りに途中から清治さんじゃなくて僕の名前を呼んでましたけどね」
ぼそっと清四郎が悠理にだけ聞こえるくらいの声で呟くと、悠理は目をむいてその額に裏拳を叩き込んだ。




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その頃、東京の剣菱邸では。
「悠理たちは8月の終わりには戻ってきますわよね」
と、百合子夫人がカレンダーを思い浮かべながら夫に確認する。
「んだんだ。恐竜展を楽しみにしてただよ」
この夏、剣菱の関連会社が子供向けの恐竜の化石展を主催し、悠理はそれを見に行くのを楽しみにしていた。
「今回の展示品入れ替えで目玉も無事に展示されただ」
「ああ、ロシアから空輸してきたアレですわね?」
と、剣菱会長夫妻は愛娘が子供たちに混ざって目をキラキラさせながらその展示品を見る姿を想像した。

その世界でも珍しい『蝉の抜け殻を丸ごと閉じ込めた巨大な琥珀』を目にして愛娘が気絶することになるなどとはつゆにも思わず───。

 

 

完(2007.7〜8)

 

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