澄んだ泉でBY こたん様
6 蒸し返る暑さで目を覚ました。 あたいは自室のベッドの上で、着替えもせずに眠ってしまったのだ。 身体中汗でべっとりとしていた。 窓を開け着替えを持つと、ドアを開け放したまま小走りでバスルームに向かう。廊下に出ると朝食のオムレツとパンの焼ける匂い、そして新鮮なコーヒーの匂いが漂っていた。あたいはキッチンの可憐と野梨子に声をかけた。 「おはよ!」 二人の顔を見るのが嫌で、あたいは背中で重なる二つの返事を聞く。 ドレッシングルームに飛び込み、さっと服を脱ぐとバスルームに入って熱いシャワーを浴びた。 顔を洗い、髪の毛を洗い、身体を洗う。 この順番が一つでも乱れると、どれかをぬかしてしまう。 最後に冷たい水を浴びると、ドレッシングルームに戻った。 朝食の後、あたいは一人で砂浜に向かった。 今日は天候も穏やかで、海はあの夢のように乳色がかった青さを示していた。 広大な海と砂地を見渡せる一番良い場所に腰をおろした。 こうしていると少年に会えるような気さえしてくる。 あたいは「澄んだ泉で」の歌を口ずさむ。 「お隣、よろしいですか?」 「せえし、ろ・・・」 清四郎が何時の間にかあたいの傍にいた。 「今日は天候が穏やかで、過ごしやすいですね」 びっくりするあたいの顔を見ると、優しく微笑んだ。この顔を最後に見たのはいつだっただろう。腰をおろした時、ふわりと懐かしい男の匂いがした。 あたい達の間には数十センチの距離があった。 「今日の午後に東京に戻ります」 「ん・・・」 「また忙しい日常に戻るのかと思うと、うんざりしますね」 医大四年生の夏がいかに忙しいかなんて、あたいは知らない。 「大変だな」 「それだけですか?」 「身体に気ィつけて」 「ありがとう。でも僕の健康管理はお前にやって貰いたいものです」 「え?」 清四郎はくすくす笑った。その笑い声は本当に久しぶりだった。 それから沈黙があり、波音が広がった。 あたいと同じように膝頭を抱え、海を見つめながら清四郎は静かに語りだした。 「この海についた夜に、夢を見ました。僕は広大な砂地にいました。まるで砂漠のようでした。太陽の光と熱は、広大な海と砂地と僕を苦しいほど照らしていました」 その口調は柔らかく、心が和んだ。 僕は七歳の少年で、孤独だった。誰にも交わる事ができなかった。僕の存在など誰も気付いていないようだった。でも僕に近づいて来た若い女性は別だった。 彼女は痩せていて、手足が異常に長いのが印象的だった。太陽に照らされた髪の毛は茶色がかった金髪で、顔は人形のように美しかった。 僅かに風が吹き始め、波は少し荒くなった。白い泡が波間に現れた。 澄んだ空が目にしみた。 清四郎は淡々と語り続ける。 僕はすぐに彼女が待つべき人だと悟った。彼女は僕の隣にいつもいたが、僕に触れる事はけっしてなかった。彼女は温かく、隣り合っている事が当然のように思えた。 僕ははじめから彼女を愛していた。 僕は彼女に触れたかった。 僕は彼女に抱かれたかった。 でも僕はほんの七つだし、何よりも彼女がそうさせなかった。 清四郎は自分の両手を眺めた。まるでその女の不在の存在を確かめるように思える。 「不可能な愛」について彼女は語り始めた。 それは欲望を通して体験されるよりもはるかに激しい愛についての話だった。 「僕達の二年間は然るべき事であって、残酷な例外ではありません。 また僕達が幸福だと見ている人達も、逃れがたい運命の支配を受けています。 僕は彼女に夢の中で会い、不安に満ちた憂慮を越えて豊かな愛を楽しめる事を悟りました。 また心配に苛まれ疲れきった少年の僕が、挫けずに光明と喜びを身辺に秘めているのを、愛情のこもった感謝の喜ばしい輝きに満ちた彼女は知っていました。 仮借ない運命もまた最高のもの、究極のものではない事、弱い不安に満ちた、ひしがれた人間の魂がそれに打ち勝ち、それを制する事ができると僕は思うのです。 ちょっと大袈裟ですけどね」 清四郎は恥らうようににこりと笑った。 「今では僕も大切な人を神聖に愛し、愛を受けたいと言う願いを抱いています」 ああそうか、お前の部屋から取って来た本は、その事を言いたかったんだ・・・。 「僕は彼女の言葉を悟ったので、こうしてこの場所に来ました。彼女に会う為に」 いつかあたいの言っている事が理解できるようになったら、 ここに来てみるといい。 あたいも来ているから。 もう一度会えたら 今度は離れ離れにならないように手を繋いでいよう。 「悠理・・・あの人はお前なのでしょう?」 それは余りにも衝撃的であたいは清四郎の顔を見つめ、口元に両手を当てて声を押し殺して泣いた。首を縦に振ると涙がとめどなく流れてきた。 そうだ、あたいも同じ夢を見た。 その内容はあたいには不可解で、深く考えもしなかった 清四郎はその長い指であたいの涙に触れた。 「互いを強く想う余り、同じ夢を見、然るべき二人の愛について悟ったのです」 清四郎は優しい澄んだ黒い瞳を向けた。 「夢の続きは、二人で一緒に見ましょう」 あたいはゆっくり、でも力強くうなずいた。 7 時が秋に向かって経過していた。だが夏の終わりに達したわけではない。 急に寒くなってきた。 終局が始まった。 臨海学校の子供達がその授業を終え、バスに乗り込む時間が来たのだ。 指導員の呼びかけの声が広大な砂地に響いた。 悠理は茂みの後ろに横たわっている。 少年は彼女の中に迷い込んでしまい、消えいろうとすがるように、彼女のすぐ傍へやって来た。 子供には判断がつかない。 彼を見ていると不安になってくる。 彼は彼女に屈み込み、言う。 「このまま一緒にいるよ」 また呼びかけが優しく行われた。 悠理は言う。 「行きなよ。あたいは必ず待っているから」 そこで少年は立ち上がって見つめる。 遠くの方の誰もいないテニスコートや悠理の別荘、力なく声もなく横たわっている彼女を見つめる。 丘の上の臨海学校のバスを認める。 静けさがやって来る。どこも澄みきっている。 少年は二度と戻らない為にはどうすれば良いか、もう分っているに違いない。 一段と長く大きな三回目の呼びかけが海に消えていった。 悠理は小声で叫んだ。 「さぁ行けよ。お願いだからそうして!」 少年は夏の広大な砂地と、この未知なる人物と化した女性をもう一度見つめた。 少年は言った。 「一緒に来て」 彼女は、駄目、それはできないと言った。 必ず必ずまたここへ、お前に会いにやって来るから。 うつぶせたまま、少年を見ずに言った。 そして少年から教わった、「澄んだ泉で」を何回も歌い続ける。 悠理は仰向けになり、眼を閉じてじっとしている。 不遜な幸福感に浸りながら。 少年はすでに焦燥感はなかった。 二人は互いに見つめあい、幸福のひらめきを感じたかのように突然笑い出した。 そして少年は理解したのだ。 もう彼女は絶対に自分を忘れる事はない。再び会える事を。 少年は歩いてゆく。どんどん歩いてゆく。 二度と悠理を振り返ることなく歩いてゆく。 そして臨海学校のバスが待つ丘の方へとその姿を消してゆく。 あたい達は完全に離れてしまっている。 あたいは眼を閉じる。丘の方へ向かって眼を閉じる。 でもちっとも悲しくなんかない。 あたい達は再び会えるのだ。 いつかこの海で、この広大な砂地で。 そして次に目覚めるとき、あたいは清四郎の温かな腕の中でこの眼を開ける事を知っている。 生暖かな風がふき、静かな雨が降り始める。 その雨は海に、砂地に、森に降り注ぎ、悠理を包み込む。 あの出来事はこの物語の全ての発端だったのだ。 澄んだ泉で 澄んだ泉で彼女は休んだ 二度と彼の事は忘れない 彼と絶対別れたりしない どんなことがあろうと絶対に 完
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 ご存知の方もあるかと思いますが、この作品は「マルグリット・デュラス」の作品を有閑倶楽部風にアレンジしたものです。デュラスファンの方で気分を害された方も多いかと思いますが、どうぞお許しください。 この度はフロ様に助けをいただき、この企画に参加させていただきました。 フロ様には心から感謝いたしております。 またこのような機会にめぐり合えた事に感謝いたしております。 ありがとうございました。 |
背景:自然いっぱいの素材集様