「Kiss Kiss Kiss」

4.野梨子






校門を出たところで、野梨子はピタリと立ち止まった。
「野梨子」
前を歩いていた幼なじみが気づいて声をかけるが、野梨子の足は動かなかった。
ふるふると、鞄を持つ手が怒りに震える。
「・・・軽蔑しますわ、清四郎」
茫然自失の数分間の後、やっと自分をとりもどしたのだ。
きたか、というように、覚悟していたらしい清四郎は、肩をすくめる。
「せめて、もう少し先で話しませんか」
野梨子は清四郎の言葉にうなずき、二人はならんで歩き出した。表面上はいつもと同じように。

聖プレジデント学園から繁華街を抜け、閑静な住宅街に入るまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。
「美童のように、可憐とつきあってるのか、とは聞かないんですね」
沈黙をやぶったのは、清四郎からだった。
「そんなこと。清四郎が可憐をなんとも思ってないことなんて、わかってますもの」
「言い訳も、きいてくれないんですか」
苦笑する清四郎を、野梨子はにらみつける。
「どうしてわたくしに、言い訳する必要がありますの。 どうせ、ふざけていただけでしょう。二人とももう子供じゃありませんし、 そういう気分になったとしても不思議じゃありませんわ」
おや、と清四郎は片眉をあげて、初めて見るように野梨子の顔を見た。
「でも・・・わたくしは、そういうのは大嫌い。さっきも言ったように、軽蔑するだけです」
言い切って、野梨子はぷいと顔をそらした。
「やっぱり、怒ってるじゃないですか」
清四郎は苦笑する。
「ひっぱたかれないだけ、マシですかね」
自嘲気味な笑み。
野梨子はそむけていた顔を、幼なじみの男に向けた。
そういえば。
今朝から、清四郎は様子がおかしかったのだ。不機嫌というか、落ち込んでいるというか。
「・・・叩きませんわよ」
少し、語調をゆるめた。
清四郎らしくない行動は、なにか悩みがあるせいかもしれない。
野梨子は情状酌量の余地を与えることにした。
「ただ、わたくしは、ああいう・・・その、行為は・・・軽々しくして欲しくないだけですわ」
「ああ、たしかに。これ以上はないくらい、軽々しくしてしまったかもなあ」
ははは、と笑う清四郎の声に、野梨子は苛立った。
以前、悠理との婚約騒動のときに、嫉妬まじりに清四郎を非難したのはたしかだ。
だけど、あれから、野梨子は淡い恋を経験した。

見つめあうだけで、胸が高鳴り体がふるえるような恋。
抱きしめられて、涙がでそうになった恋。
野梨子に裕也とのくちづけの経験はない。
別れ際に、額にそっと触れられただけが野梨子の初恋の記念になった。
だから、この苛立ちは、以前のような潔癖症からくる怒りではない。

「真面目に聞いてください!なにをヤケクソになっているのか知りませんけど、 あんなひとでも可憐は大事な友人ですのよ。八つ当たりに利用しないで!」
「どちらかというと、こっちがされたんですが・・・」
「いつもの清四郎なら、可憐の八つ当たりなんてとりあいませんでしょう?」

やはり、清四郎は野梨子にとって、特別な存在で。
そして、可憐やほかの仲間たちも、大切な存在で。
一生つきあって行ける、宝石のような友人たちだ。
彼らとの関係を、清四郎にも大切にして欲しかった。
そして、恋を、軽々しくあつかって欲しくなかった。
いつか清四郎も、恋をする日がくるかもしれない。男嫌いだった自分のように。

清四郎は、少し考え込むように、顎に手をやった。
「野梨子・・・」
「なんですの」
「その、僕は・・・」
言いにくそうに、清四郎は上目遣いで頭一つ以上低い位置にいる野梨子を見た。
「僕は、やっぱりなにか、落ち込んでるんでしょうかね?」
頭脳明晰、理路整然、理性が服を着て闊歩しているような幼なじみのこの言葉に、 野梨子はあんぐり口を開けた。
「じ・・・自分のことなのに、わかりませんの?」
清四郎は困ったように首をかしげた。
「こ、心当たりはなにもありませんの?」
清四郎は、ええ、とうなずいた。
「なんだか、どうでもいいような、なんでもない一言がひどく気に障ったり、 それが堂々巡りで頭を去らなかったり。考えると胸がムカムカして、どうも気が晴れないんですよ」
清四郎が途方に暮れた顔で、つぶやく。
ひとに弱みを見せたがらない見栄っ張りの清四郎が、野梨子に漏らした本音。
やはり、清四郎にとっても、野梨子は特別な存在に違いない。
「気になって仕方がないのなら、それは清四郎にとって『どうでもいいこと』じゃないんですわ」
「・・・・・・ほんとうに、日常のなんでもない一言なんですけどね。あいつにとっても・・・」
(あらあら。)
野梨子は、思わず吹き出してしまいそうになるのを、こらえた。
清四郎は胸元を抑え、ため息をついている。
情が薄いと常々思っていた彼のこんな様を、野梨子は好ましく感じた。
この優秀な幼なじみに、コンプレックスを抱かせたのは、どんな一言だろう。
悩んでいることさえ、本人には自覚がなかったらしいが。
(まるで、恋に悩む青年像ですわね)
ついに堪えきれず、野梨子の口元がゆるみ、微笑みが浮かんだ。
自分の想像の適切さを、このとき野梨子は知らなかったが。







 


5.清四郎 に続く
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