6.魅録
「悠理と可憐は違いますよ、カンベンしてください」
清四郎の声はクールを装っていたが、苦笑してみせる表情は、ぎこちなかった。
魅録は意外な思いで、親友の整った顔を見つめる。
恋に生き愛に死す、を日々実践している美童と違い、清四郎は魅録と同じく、
恋愛には興味のない男だったはずだ。
だから、今日は本当に驚かされた。
なにがと言えば、もちろん可憐とのキスシーンだ。
美童の怒りも、少しではあるが理解できた。
興味のない様子をして、その分野でもきっちり押さえるところは押さえていたのかと、
男としてのコンプレックスを刺激される。
まあ、それが清四郎という男なのだが。
魅録がそういう分野にことさら興味がないのは、下着一枚で息子のベッドにもぐりこんでくる、
あの母親のせいかもしれない。
ほとんど、トラウマ。いわば、家庭の特殊事情。
ゲイでもない清四郎が、いっぱしの経験を積んでいてもおかしくはない。
倶楽部内恋愛だって、いままでなかったほうがおかしかったのかもしれないのだ。
昨夜、失恋して怒り悲しむ可憐をまえに、魅録はなにひとつできなかった。
それが、清四郎はあのキスひとつで、すっかり可憐を立ち直らせてしまった。
しかも、可憐の清四郎への態度は、まったく変化がない。
こういうところが、いつもかなわないと思う。
美童の怒りも、悠理の涙も、六人のバランスが崩れることを畏れてのものだったが、
清四郎なら、そつなくさばいてしまいそうだ。自分の恋愛感情も。
――――と、思っていたのだ、さっきまでは。
「どーせ、あたいは女らしくないよ!おまえにとっちゃ、女どころか、人間以下のドーブツだよな」
悠理が頬をふくらませて、清四郎からそっぽを向いた。
さっきの涙といい、悠理らしからぬ感傷的な態度だ。
らしからぬ、といえば、朝から悠理はどうでもいいようなことを気にしていた。
そう、清四郎のことで。
魅録は今朝の悠理との会話を思い出していた。
「うぃーっす」
同じクラスの悠理とあいさつをかわしたのは、教室で。
試験前の悠理は、いつもの煮詰まった顔で、ひどく不機嫌だ。
顔を見るなり、悠理は魅録の服をひっぱって、顔を埋めた。
「くんくん」
「って、なにしてんだよ、悠理!」
「やっぱ魅録って、タバコの匂いする」
「おまえは犬かよ」
慣れている魅録にしても、悠理の奇行に呆れ顔は隠せなかった。
「この匂いにだまされたんだよな・・・」
悠理が憂い顔でつぶやいたので、きいてみた。
「なんだよ?だまされたって」
「うん・・・昨日、清四郎がタバコ吸ってたんだよ。だから、あたいてっきりおまえだと思ってさ」
「ああ、そういや煙草あいつにやったっけ」
「まさか、清四郎がタバコ吸うなんて知らなかったからさ。匂いでおまえだと思って・・・」
「匂いで判別すんなよー、やっぱ犬!で、間違えてどうしたんだ?」
悠理は言いにくそうにモジモジしている。
なにかとんでもないことをしでかしたのかと、期待半分の魅録に、悠理は気まずそうに口をひらいた。
「ん・・・そのタバコちょーだい、ってねだっちゃったんだ」
「うん、で?叱られたのか」
「ううん。吸いかけの、くれた」
まぁ、自分も吸っていては、悠理を叱れないだろう。
「で?」
「・・・で、って。清四郎の吸ってたの、あたい吸っちゃったんだよ!」
「?」
「てっきり魅録だと思ってたからさ。後ろ向きだったし。あいつ、めずらしく優しい声だったし!」
「?」
魅録は悠理がなにを言いたいのか、さっぱりわからなかった。
「で、なにが問題なんだ?」
「だ、だって・・・いっつもあたいのこと、バカとかアホとか、あいつヒドイだろー?!」
「うん?」
まったく話が読めない。
「清四郎のくわえてた煙草を、おまえがもらったんだよな?で、清四郎は優しかったんだろ?」
もう一度話を整理しようと繰り返すと、悠理の顔色がパパパッと変わった。
真っ赤に。
「や、優しくなんかなかった!一晩中コワイ顔で、勉強させられたんだぜ!」
悠理は赤面したまま、プイッとそっぽを向いた。
(だから、それは悠理のためじゃん。そりゃ、清四郎も悠理をいじめて楽しんでるきらいはあるけどな。)
教師が教室に入ってきたため、話はそこで終わってしまった。
魅録は赤く染まった友人の顔に、わけがわからず首をひねった。
そして、そのわけのわからぬ一幕が、そのまま今再現されているかのようだ。
ふくれっつらの悠理の、赤い顔。
とまどったような、清四郎。
「・・・じゃあ、悠理は僕とキスできるっていうんですか?嫌でしょうが」
ふう、と清四郎はため息をつく。
「・・・うっ」
悠理は言い負かされ、口ごもる。
「人間以下なんて思ってません。今日の試験、がんばったんだろ」
清四郎は顔をそらせたままの悠理の肩に手を置いた。そのまま、机に向かわせようとする。
「さ、明日もまだ・・・」
「よ、よーし、してやろうじゃんか、キス!」
悠理はいきおいよく清四郎に顔を向け、言葉をさえぎった。
「は?!」
鳩が豆鉄砲くらったような、清四郎の顔。
悠理の肩に両手をかけたまま、硬直している。
「なんだよ、やっぱ可憐にはできて、あたいにはできないっていうのかよ」
「・・・・・・・・」
頬を染めたまま喧嘩腰の悠理に、清四郎は固まったままだ。
伝染したように、清四郎の顔が赤らんでゆく。
もちろん、悠理の発言に、あっけにとられたのは清四郎だけではなかった。
(マ、マジかよ・・・)
魅録はよろり、とちゃぶ台の前に腰を落とす。
「ぷ・・・くくく」
ちゃぶ台に肘をついたまま、美童は楽しそうに笑った。
「ほら、清四郎。ここでやらなきゃ、男がすたるだろぉ」
唖然としていた可憐と野梨子も、美童の声でわれにかえったようだ。
「そうよね、あたしには平然とあんなキスやったんだから。悠理にできないなんて、差別だわ」
自分が悠理をそそのかしたにもかかわらず、なにやら可憐は不服そうだ。
あいつ、態度違いすぎない?と、小さな声でぶつぶつつぶやいている。
「さ、差別はいけませんけど・・・あまり軽々しく、そ、そういうことはしないで欲しいですわ」
複雑な表情の野梨子の言葉を、可憐は鼻で笑った。
「アレのどこが、軽々しいってのよ」
ちゃぶ台にすがりついている魅録は、可憐の言葉にうながされ、立ったままの悠理と清四郎を見上げた。
(み、耳まで真っ赤・・・)
悠理が、ではなく、清四郎が。
悠理の肩に置かれた手が、小刻みにふるえている。
(う、うわぁ・・・)
魅録はいたたまれずに、自分まで赤面してしまった。
常の余裕も落ち着きも、みごとに清四郎の表情から消え去っている。
悠理を見つめる双眸が、とまどいと逡巡に揺れていた。
意外なほど幼く、感情丸出しの清四郎の顔は、可愛くさえ見える。
清四郎の右手がゆっくりとあがり、悠理の頬にふれた。
愛おしむようなその動きに、悠理がびくりと身をすくませる。
その反応に、驚いたように清四郎は手を離した。
無意識の動作だったようだ。
唇をひきむすび、にらみつけるように清四郎を見上げる悠理を、かなしげにさえ見える目で見つめている。
触れれば壊れてしまう、大切な大切なものを見るように。
魅録は赤面したまま、しばし二人から目をそらすことができなかった。
(・・・お、俺だけか、俺だけなのか?!見てるほうが照れるぞ!)
そう思い、やっとのことで仲間たちに視線を移すと、隣の美童は知ったかぶりのニヤニヤ笑い。
さすがに頬を染めている野梨子を、可憐が肘でつついていた。
「あんな清四郎、初めて見ましたわ・・・」
「いいのぉ、野梨子」
「可憐こそ」
外野の声など、まったく耳に入っていないらしい二人は、まだ見つめあったままだ。
動いたのは、悠理が先だった。
「・・・いいよ、もう。あたいなんかとキスすんのは嫌なんだろ。もうわかったよ!」
悠理は伸ばされた清四郎の手を振り払い、体ごと清四郎から顔をそむけた。
(って、嫌がってる顔かよ、ソレが!悠理のアホウ!男心のわからんやつ)
思わず、魅録は心のなかで罵った。
清四郎から身を放した悠理のうつむいた目元に、涙が見えたような気がした。
清四郎の男心はわかっても、女心は魅録にはわからない。
清四郎の煙草を吸っちゃったと、清四郎が優しいと、魅録には理解不能な理由でとまどっていた悠理。
魅録なら吸い差しだろうが、食い差しだろうが、まったくかまわないらしいのに。
悠理の涙に、女心を察したのか、野梨子がガタンと立ち上がった。
しかし、野梨子がなにか言うよりも早く、清四郎が動いた。
「悠理・・・」
ささやくような声はかすれていたが。
清四郎は悠理の背後から、身をかがめて悠理に顔を近づけた。
悠理の髪がふわりと揺れる。
そっと、清四郎が唇でふれたのは、悠理の頬だった。
(・・・って、ほっぺにチューかよ!)
魅録だって、男友達としてなら悠理が好きだ。大好きだと言ってもいい。
だけど、『女に見えない』相手に、頬にキスさえ、絶対できない。
くちづけじゃないキスは、男の純情だ。
妹や敬愛する相手など、恋愛対象以外にする、敬意としてのキス。
それから、手出しできないほど、大切な相手にする、万感のキス。
裕也が野梨子にしたように。魅録がチチにしたような。
(うああああ、ディープキス見せられるよか、恥ずいぞ、清四郎!)
清四郎のそれが、どちらのものなのか、鈍い魅録にさえわかったから。
しかし、悠理にはわからなかったようだ。
清四郎が身を放しても、頬に手をやりふくれっつらだ。
「・・・やっぱ、ガキあつかいだよな」
すねた口調の悠理。清四郎はまだ赤い顔のまま、悠理の頭をポンポン叩いた。
「意地張ってんじゃない。売り言葉に買い言葉は、このくらいにしよう」
「ちぇっ」
悠理は、安堵したような、残念そうな、複雑な顔をする。
「これ以上は、おまえが後悔するぞ。僕は、魅録のように愛されてませんからね」
清四郎はちらりと魅録に視線を投げた。
(なんでそこで俺に振る〜?!)
清四郎だって、悠理の『魅録ちゃん愛してる〜』には、深い意味なぞ
これっぽっちもないことをわかっているはずだ。
「魅録があたいに、キスなんかするかよ」
悠理は、イーッと清四郎に歯をむいた。
(わ、わかってるじゃねぇか、悠理!さすが親友!)
魅録が胸をなでおろしていると、美童がついにそっくり返って笑い出した。
「あーもう、たまんないなぁ、おもしろいもん、見せてもらっちゃったよ!」
あっはっはっは、と大口開けて笑う美童に、清四郎はコホンと咳払い。
「・・・さ、勉強にもどりましょうか。美童、しっっっかり、教えてあげますからね」
美童がゲッとうめき声をあげた。
「魅録!魅録に教えてもらうから!」
美童にしがみつかれ、魅録はバランスを崩す。
床に転がった魅録の頭上には清四郎。
見下ろしてくる清四郎の顔に、魅録の顔面から血の気がひいた。
(こ、こいつの前で、悠理の勉強、俺が教えられるかよ!)
「せ、清四郎、美童の数学は俺が受け持つ!悠理は明日、数学だけじゃないし!」
魅録の決死の言葉に、清四郎は肩をすくめた。
「それもそうですな」
結局、おさまるところにおさまるのだ。
いつものように、勉強机でうなる悠理。その後ろで、頭を小突いている清四郎。
ちゃぶ台で、安堵のため息をつきつつ、魅録は見慣れた二人の姿を感慨を持って見つめた。
まったくいつも通りの光景が、違って見える。
「嫉ける?」
かけられた言葉に、ぎょっとしてふりかえった魅録だったが、それは魅録に対してのものではなかった。
魅録と同じように清四郎と悠理を見ていたらしい野梨子を、可憐がえんぴつの先で突ついていた。
「・・・いいえ。ちょっと驚いていただけです。
私、清四郎の気持ちを、わかっていたような気がしますのに」
「あら、そうなの?あたしはまったく、わかんなかったわぁ」
可憐の気楽な物言いに、魅録は苦笑した。
恋愛の達人を自称しながら、可憐はひどくウブで鈍感なところがある。
「意外っちゃ意外よね。あんなに悠理のことを女に見えないって言ってた清四郎がさ」
女達の会話は小さくひそめられていたが、同じ机をかこむ美童と魅録は、顔を見合わせた。
「だから、清四郎のアレは嘘だって。自覚はしてなかったみたいだけど、
清四郎はずっと悠理を女として意識してたよ」
美童の確信に満ちた言葉。
「そういや、おまえさっきも言ってたよな。なんでんなことわかったんだ?」
美童は小さく笑った。
「バカだなぁ。ちょっと考えればわかることだろ。だって、清四郎は悠理と婚約してたんだよ」
「けど、あれは」
あの婚約騒動が、恋愛感情のためにおこったのではないと、皆知っている。
「ああ、婚約した動機のことじゃないよ。だけど、清四郎はゲイに好かれるけど、
その気はまったくないよね」
「らしいな。以前からかったら、その手の冗談には暴力で応えますって凄まれたし」
「魅録だって、男ならわかるだろ。男にとって、女性は二種類だよ。抱ける女か、頼まれても抱けない女か」
「ま!それは美童だけでしょう」
野梨子は眉をひそめる。
「まぁ女性陣にはわからないかもしれないけどさ。ぶっちゃけ、男の本音なの」
な、と美童に振られ、魅録は同意してよいものか目を白黒させる。
「結婚、となれば、財産目当てであろうとなんであろうと、
相手の女と寝ることを一度も想像してみない男なんていないよ。
好きな相手じゃなくても抱けるかどうかくらいは、考えるよ」
「まぁ・・・それはそうね」
玉の輿願望の可憐は、難しい顔でうなずく。
「剣菱目当てだっていっても、清四郎が、じゃあ意に沿わない相手と結婚しようとするか?
男だと思ってる相手と?」
たしかにどんな大金持の男に言い寄られても、清四郎が身をまかすはずはない。
美童はニヤリと笑った。
「清四郎だって、きっとあのころ、何度も悠理を抱いたに決まってるよ。想像の中だけにしろ」
「・・・・!!」
美童の説得力あふれる言葉に、野梨子と可憐は顔をひきつらせた。
そして。
悠理の横に座っていた清四郎が、いきなりガタンと立ちあがった。
「清四郎?」
悠理が怪訝な顔で呼びかけるが、清四郎は大股に戸口に向かう。
「・・・眠気覚ましにコーヒーでも作ってきます!」
乱暴にドアを開けると、ふりかえりもしないまま飛び出していく。
「なんだぁ、あわてて。シッコかな」
悠理は首をかしげてつぶやいた。
ちゃぶ台の一同は、あまりにわかりやすい清四郎の態度に、突っ伏して笑いをこらえていた。
小声での彼らの会話を、清四郎は聞いていたに違いない。
なにしろ、逃げるように去っていった清四郎の顔は、またもや耳まで赤かったから。
「眠気ざましって・・・だれか、眠いひといるぅ?」
ついに吹き出した可憐につられ、一同ひっくり返って爆笑した。
「ほぇ?」
ひとり、悠理がポカンとしている。
彼らの笑い声は、しばらくの間響き渡った。
深夜に近い時刻。安眠しているご近所様には、大迷惑。
もちろん、階下で苦虫をかみつぶしているであろう、赤面した清四郎にも。
Kiss Kiss Kiss おしまい (2004.8.7)