英国で見あげた空には、知らない星が輝いていた。
天文学に興味がないわけではないが、かの地では忙しすぎて、その本を繰る余裕がなかった。
グリニッジ標準時と明石標準時では、時差はあるが、同じ北半球。
かつて、野梨子相手に講釈した夜空の星と、かわるはずもないのに。
ひときわ輝いて見える星に、勝手な名をつけた。
ほんとうは一等星以上の星の名は、みな憶えているのだけど。
一番有名なその星の名を、間違うはずもないのだけど。
半球の指針となるその星の名は、僕にとって、もっともふさわしい名をつけたかったのだ。
心の中だけの、他愛のないイタズラ。
その名を口にするつもりは、ない。
*****
野梨子が結婚する。
さすがに、少々複雑な想いを味わった。
離れていた時間よりも、一緒にいた時間のほうがずっと永い幼なじみなのだ。
久しぶりの日本。
まさか、剣菱邸の門構えを懐かしく感じるときがこようとは思わなかった。
再会した野梨子は、見違えるほど綺麗になっていた。
あいつとの恋が、野梨子を変えた。
「明日は花嫁になる人間が、こんなところでなにしてるんです」
再会が照れくさくて、思わず憎まれ口をきいていた。
「ありがとう、清四郎」
「野梨子の人生の門出に、僕が駆けつけないわけはないだろう」
野梨子は綺麗な涙を流した。
喜びの涙。
「いままで、ほんとうにずっとあなたに守られてきましたわ」
野梨子は小さな手を僕の手に重ねる。
「ずっと、幸せでした。あなたに守られて、みんなに出会って」
小さな手。
だけど、僕も知っている。このかよわい白い手が、
ときに僕を支えてくれたことを。
「・・・私、一度も疑ったことさえなかったんですのよ。あなたが、どんなときも助けてくれるって」
これからは、僕のかわりにあいつが野梨子を守るんだろう。
少し、悔しくなって、反対のことを言ってみた。
「これからも、絶対助けます。地球の裏側にいてもね」
まかせなさい、と笑うと、野梨子も微笑んだ。
「あいつが僕の大事な幼なじみを泣かせたりしたら、覚悟したほうがいいですね。きっちり半殺しにしてあげますよ」
「あら、大丈夫ですわ。自分でできますから」
野梨子はコロコロと声を立てて笑った。
重ねていた手が、そっと離れる。
ほんとうは、もっと以前に、この手は離れていたのだ。
手をつなぎ、同じ道を歩いていた幼なじみは、恋をして大人になってしまったから。
「清四郎、忘れないで。私がいることを。いつだって、あなたの幸せを祈ってるんですから」
「・・・・野梨子も。幸せにならないと、許しませんよ」
明日、他人のものになる野梨子を、思わず抱きよせた。
ずっと、あまりに長い間、僕にとって一番大切だった少女。
ほんとうは、彼女がだれよりも強い人間だということは、わかっていた。
そして、だれよりも、幸せになれるだろうことも。
かの地で見上げた空に、野梨子の星もある。
小さな、だけど冴え冴えとした輝きを放つ星だ。
「君を、誇りに思います」
最初で最後の抱擁。
明日の花婿を、心のなかで蹴りあげる。
気分はすっかり花嫁の父。いや、兄か。
*****
悠理の部屋で、美童と飲んだ。
今夜の酒は、まわりが早い。
ザルを通り越してワクの悠理が、先に寝てくれて助かった。
「悠理をベッドに寝かせて、僕の部屋で飲み直そうか?」
「いや、まだ九時ですよ。悠理は夕食を食べ過ぎて眠たくなっただけで、
じきに目をさますでしょう」
「だよねー。つぶれるほどは、飲んでないもんな。
起きたらうるさいから、このまましとこうか」
重くない? と問われて首をふった。
壁を背にして座ったまま、悠理は僕の肩にもたれ、ぐっすり眠っている。
やわらかな猫毛の感触が、頬にこそばゆい。
こうして寝顔を見ていると、昔のままの悠理に見える。
この前会ったときは、ずいぶん変わったと、驚いたのに。
目にかかる前髪をすいてやろうとして、手を止めた。
じゃれあっていたあの日々は、もう遠くなってしまったから。
悠理はサナギが蝶になるように、見るたびに変わる。
ボサボサの髪、中性的な容貌、奇抜なファッション。
剣菱の後継者として会長と行動をともにするようになっても、
そんな外側が変わったわけではない。
変わったのは、内側からあふれでる、抑え切れないほどの輝きだ。
殻をぬぎすて、生まれ変わるかのように、悠理は綺麗になってゆく。
・・・だけど、女王陛下臨席のパーティで、ホルスタイン柄のパンツスーツはよしてくれ。
「なに笑ってんの」
「いや、この前イギリスに来たときの悠理の格好、思い出して」
「あー。あのモーモー柄! そろいのツノつき帽子が凶悪だったよねー」
あのパーティには、美童も顔を出していた。
そういえば、髪を切った美童にも驚かされた。
以前のような甘い雰囲気が薄れ、大人の男の風格を身につけつつある。
この分では、可憐や魅録にも驚かされるのだろう。
きっと、あの頃から変わっていないのは、僕ひとりだ。
友人たちは、みな確実に大人への階段を昇っている。
僕を置き去りにして。
なにも選べず、なにも成さず。
長いモラトリアムの期間を過ごしてしまった。
大人になることを拒否し、僕は逃げつづけていたのだ。
自分のほんとうに求めているものを、知ったときから。
「・・・ん」
悠理がわずかに、身じろぎをした。
どんな夢を見ているのか。
悠理がうらやましい。
いつでも、自分の感情に忠実に、まっすぐ掴みとろうとする素直さが。
欲しいものを欲しいと、言える強さが。
自分の欲望を知ったときから、僕はそれから目をそらし続けた。
求めてはいけない。
愛しては、いけない。
そう自分に言いきかせ、かの地に逃げ出した。
遠い空を見上げる日々のなかで、彼女の面影が消えることはない。
それでも、やけつくような渇望は、穏やかな憧憬に。
僕の傲慢な手で摘みとってはいけない花は、
ほんとうに手の届かない高嶺の花に。
離れた年月が、変えてくれる。
僕はそれを立ち止まったまま、待ち続けている。
*****
「おまえが触れても、悠理は壊れやしないよ」
「え・・・」
美童にそういわれるまで、僕は自分がなにをしているのか、意識していなかった。
「その手。さっきから、すごく不審」
悠理の髪に触れようとして触れられなかった手。所在なげに、さまよっていたらしい。
少々焦って、グラスを持ち替え固定させる。
「野梨子は抱きしめるのに、悠理はダメなんだ」
美童は目を細めて含み笑いをもらした。
「人聞き悪いですね」
「だってそうじゃない。悠理なんて、オモチャ扱いで平気で小突いていた男がさ。
とろけそうな顔して、壊れ物みたいにあつかってるんだもん。おかしくって」
あまりの言い草に、顔に血が上るのが自分でもわかった。
反論しようとしたが、喉がつまって声がでない。なかばヤケクソ気味に、
一気にグラスをあおった。
「で、結婚するの?」
「ぶはっ」
スコッチが器官に入り、思いきりむせた。
悠理を起こしてしまわないかと、ますます焦る。
「び、美童、悠理が聞いてたら、おまえドロップキックものだぞ」
「え? ちがうの」
「瞬殺してやろうか」
僕の脅し文句は、根性ナシのはずの美童に少しも利かなかった。
「赤面して言われてもなー」
僕のほうが、まるで子供のようにあしらわれている。
やはり今日は、酒の回りが早すぎたようだ。
「まじめな話さ。いずれは剣菱に入るんだろ」
「正直に言うと、たしかにそんな話はでていますよ。
だけど、それと悠理は関係ありません」
突っ張るだけ無駄な気がして、肩の力を抜いた。
「そうなの?」
「いまさら悠理と僕になにもあるわけはないだろう。不用意に悠理に言うなよ。
ほんとうに飛び蹴りされても知らないぞ」
話しているうちに、落ち着きをとりもどす。真実なのだから、説得力はあるだろう。
「第一、悠理と会ったのだって、一年ぶりぐらいなんですよ」
「ええっマジ?!それって、あのモーモールックのパーティ以来ってこと?」
「あのパーティの翌日、会議で顔を合わせたのが最後です」
「万作おじさんたちとは、しょっちゅう会ってるんだろう?」
「そうでもないですよ。豊作さんとは割によく会いますがね」
メールだなんだで、助言や報告は週一ペースだ。
剣菱のプロジェクトで、僕が積極的にかかわっているものもすでにあるのだから仕方がない。
へええーと、美童はおおげさに驚いてみせた。
この美童くんとしたことが、観察眼も狂ったかな、と舌をだす。
「そーだよねー。悠理とそーゆー関係なら、ちょっとおかしいとは思ってたんだ。
手も握らない中坊の初恋じゃないんだから」
「・・・・・・・・・カンベンしてください」
悪かったな。初恋、だよ。
*****
悠理を見つめていたい。彼女に必要とされる人間になりたい。
そんな自分の気持ちに気づいたのは、いつの頃だったか。
たぶん、幼稚舎で出会ってからずっと、彼女は僕にとって特別な存在だったのだ。
高等部にあがる頃には、もう僕は彼女に惹かれていたのだと思う。
仲間となり、毎日をともにしたプレジデント学園での日々。
あのまま、気づかずにいられれば、と今でも思う。
僕の遅すぎる初恋は、自覚したとたん絶望的な失恋に至った。
なにしろ、元婚約者だ。
あまりにもおろかで傲慢だった僕は、悠理を縛りつけ、傷つけ、頑なにさせた。
婚約破棄は、必然だった。
悠理にとって、害になっても益にはならない。
僕のこの身の程知らずな想いは。
悠理は守られているような女じゃない。
僕の思い通りになるような、そんなやつじゃない。
告白し、きっぱり振られて悠理を忘れる。
そんな選択肢もあったのに、僕が選んだのは、逃げることだった。
せめて友人でいるための、苦肉の策だった。
――――いや。
安いプライドが、耐えられなかっただけだ。
ふたたびの拒絶に。悠理に必要とされていない、現実に。
「美童はあいかわらずですね」
こんなに一瞬で、気持ちを見抜かれるようでは、僕もまだまだだ。
「悠理はたしかに眩しくなったよね。以前は女どころか人間じゃないと思ってたのになぁ。
たしかに、昔みたいに扱えないや」
「正直とまどってますよ。悠理に…野梨子にもね」
「女達は偉大だよ」
苦笑する僕に、美童は片目をつぶって見せた。
こと、こういう方面での美童の慧眼は、昔からあなどれない。
うまくごまかせたわけではないだろうが、僕は内心安堵する。
悠理にだけは、僕の想いを知られたくはなかった。
遠い空の下で、僕はこの恋と距離をとるすべをおぼえていった。
熱病はいつか醒める。
ゆっくりと、僕は片恋と失恋に慣れていった。
会わない日々と、星を数えながら。
*****
膝に、水滴が落ちた。
ズボンに染みが広がる。
「悠理?」
悠理の頬を、涙がつたって落ちたのだ。
まだ眠ったまま、悠理は声も立てずに泣いていた。
子供のように声をあげて泣きじゃくる悠理しか、僕は知らない。
いつのまに、こんな泣き方をするようになったのか。
「清四郎のうそつき・・・!」
つぶやかれた言葉に、心臓が止まるかと思った。
悠理が知っているはずはない。僕がついたたくさんの嘘を。
悠理は大きく目を見開いた。
驚いた表情で、美童と僕を見つめている。
子供じみた仕草で涙をぬぐい、悠理は身を起こした。
いつもの表情にもどる。
少年のような横顔はそのままなのに、高校生でも十代でもない、
二十代も半ばになった悠理の、意志の強い貌。
離れていた時間は、僕にではなく、悠理に劇的な変化をもたらした。
剣菱の後継者として輝きはじめた悠理を、かつてとはちがう憧憬で見つめる。
それは、僕にもうひとつの選択肢をもたらした。
――――ずっと、悠理のそばに在りたい。
彼女にとって、不可欠な存在になりたい――――。
そのための機会は与えられている。能力もあると自負している。
足りないのは、自信だけだ。
悠理のそばで、一生、この想いを隠しとおす自信。
まだ、全然だめだ。
悠理の涙は、くすぶったままの僕の胸をやいた。
とったはずの距離を、離れていた年月を、涙ひとつが軽々と崩す。
両手でグラスを握りしめ、衝動を抑えた。
「それで清四郎、いつちゃんと帰ってくるのさ」
美童の言葉は、痛いところをついていた。
まだだめだと、思う心と裏腹に、言葉は口をついて出た。
「潮時だと、思っていますよ」
離れていた距離と時間がこんなふうに意味がないなら、いつまでも逃げていてもしかたがない。
そろそろ僕も、大人にならなければならない。
これ以上、悠理においていかれないためにも。
ワインをくいくい飲んでいた悠理が、無邪気な顔を僕に向けた。
「そいで、帰ってきたら、医者になんの?」
一瞬、頭が空白になった。
だれのせいで、こんなに悩んでいるんだと思うんだ?
いや、悠理に罪はない。・・・・罪はない、が。
頭がくらくらするのは、飲みすぎたせいだ。
どれほど悠理が僕に関心がなかったか、その言葉は嫌というほど思い知らせてくれた。
剣菱の仕事にたずさわるようになってからの僕の留学費用は、剣菱から出ているのだ。
「バカだバカだと思ってたけど」
昔のように、悠理の頭を拳で小突く。
美童、おまえは正しい。悠理は僕が触れたぐらいでは壊れやしない。
「ケンカ売ってんのかよー」
頬をふくらませる悠理は、あの頃のままで。
喧嘩が趣味のくせに、らしくなくおよび腰の悠理を、壁際まで追いつめた。
僕の視線をさけた悠理の目が泳ぐ。
試験前や騒動を起こしたときに、なんとか僕をやりすごそうとする悠理の表情だ。
見慣れた姿に、心のタガが外れかけた。
迷子の子供のような悠理。
これから悠理が生きてゆくフィールドは、悠理をどう変えてしまうのか。
ほんとうに、自分の選択は正しかったのか。
僕が剣菱に入れば、さらなる戦場へ悠理を追いやることになる。
悠理を守るためでなく、ともに生きたいがための、僕のわがままな選択だ。
悠理 悠理 悠理
いまだけでいいから、僕を見てくれ。
おまえが好きだ。おまえだけが好きだ。
おまえに、僕はいらなくても――――
――――ほんとうは僕が、おまえを必要なんだ。
息がつまる。胸が苦しい。
言えない言葉が、抑え切れない想いが、僕を動けなくした。
下を向いて僕から目をそらしていた悠理が、ふいに顔をあげた。
それは、あざやかな変貌だった。
強い、意志の力。非凡なカリスマ。
もう悠理は、あの輝きを取り戻していた。
人の上に立つ人間として、必要なものをたしかに悠理はもっている。
おっちょこちょいで、お調子のりで、トラブルメーカーで、あぶなっかしい悠理。
いつだって目の離せない悠理にふりまわされてきた。
だけど、ほんとうは、僕にもわかっていたのだ。
運を味方につけ、人を味方につけ。
悠理は、決して挫けることはない。
悠理に必要なのは、保護し縛ろうとする、自分勝手な愛じゃない。
酔いに崩れそうな理性を、僕は必死でかき集めた。
抱きしめてしまいそうになるこの腕は、悠理にはいらないものだから。
「・・・・悠理、隙を見せるな。ビジネスは食うか食われるかだ」
そんな心配さえ、傲慢なのかもしれない。
「サバイバルは、望むところだ」
そう答えた悠理の真っ直ぐに僕を射た瞳は、不思議なほど澄んでいた。
悠理は、侵しがたいほど、美しかった。
ちっぽけなプライドも、届かない想いも、すべてを忘れられるほど。
悠理は決して望まないだろうが、僕はこのとき覚悟を決めた。
いつか、おまえも恋をするかもしれない。
きっと、それは僕ではないだれかだ。
それでも、僕はおまえから離れない。
古い友人として。ビジネスでの戦友として。
一生、この想いを胸に秘めたまま、僕は生きてゆこう。
出会ったときから、僕の人生は悠理とともにあった。
これからも、ずっとそばにいる。
近すぎず、遠すぎず、きみの輝きからの距離をはかりながら。
悠理を中心に、世界を回そう。
僕がきみの名をつけた、夜空に輝く星のように。