懐かしい日本の景色の中を歩いてみたくて、今日は利根川の川べりに足を伸ばしていた。
通りがかる人たちが振り返って行く。
いくらこの国で金髪の人間や外国人が増えたとは言っても、
やっぱりこんなところを一人で歩いてる白人は珍しいのだろう。
以前のような長い髪はばっさり切り落としてしまったからあの頃ほど目立つとも思えないんだけど。
明日には清四郎が一時帰国する。
明後日にはあの黒髪のお姫様がお嫁さんになる。
野梨子は初めて会ったときのあの日本人形のような幼さが抜け、今では立派な大人の女性に変貌していた。
彼女の夫となる男が羨ましい。
心からそう思う。
清四郎も絶対驚くぞ。嫁にやるのが惜しくなるかもしれないな。
あいつ、ほとんど野梨子の兄貴気分だからな。
可憐も変わってたよな。立派に家業の宝石屋を継ぐのにふさわしい大人の女性になっていた。
外見は高校時代と大きくは変わってはないけど、ね。
夢見がちな少女が、殻を脱いでいた。彼女が見ているのはお店と、自分の足元だった。
まあ、こうなるだろうことは予測範囲内だった。
予測不可能だったという点では悠理が一番だ。
明日、あいつを変えた男が帰ってくる。
ふっと目の端を影がよぎったので、僕は空を見上げた。鳥か?と思ったが違った。
川辺の野原で、子供が凧を揚げているのだった。ちょっと時期はずれだけど。
凧は高く、とても高く、空を泳いでいた。
ああ、悠理と清四郎みたいだ、と思った。
清四郎という風が、悠理という凧を押し上げる。
昔のように糸は切れない。悠理自身が剣菱という家に自ら繋がれたから。
女王陛下臨席のパーティー。綺羅に飾った紳士淑女が笑いさざめいている。
僕は黒いタキシードに身を包んで美しいレディ方の姿を見ていた。
パーティーは好きだ。女性は皆美しくなる。
そして虚構の仮面を被って笑いさざめく。一時の偽りの時間。
腹を探り合う、パートナーを探る、その視線がますます彼女たちを美しくする。
そして僕は彼女たちの夢の時間に彩を添えてやるのだ。
その時、僕の目の端に白黒の模様が見えた。
「え?牛?」
もちろんそれが何かわかった瞬間に僕の目は大きく見開かれていたさ。
僕の顔に見とれているご夫人がいたとしたらその僕の顔に度肝を抜かれただろうってほどに。
ホルスタイン模様のパンツスーツだってえ!?と叫びそうになった。
すんでのところで口を押さえたので声は漏れなかったけれど。
それは剣菱を継ぐことになった、悠理だった。
ご丁寧にお尻にはしっぽ。おそろいの帽子には角までついている。
眩暈がしそうだ。
非公式な席とはいっても女王陛下ご臨席だぞ!そんな模様でおまけにドレスですらないなんて!
男性は黒のタキシード、女性は肩のあいたイブニングドレス。それが常識だろうが!
彼女の服の趣味は昔からよく知っている。ドレスなんか意地でも着ない人間だとも知っている。
あまりのことに笑いがこみ上げてきた。
彼女に声をかけに、僕は近づこうとした。そして気づいた。
悠理が、あれだけ大食漢の悠理が、料理の方を見ていないのだ。
ただ、シャンパンのグラスを握り締め、時折口元に運んでいるだけだった。
そのシャンパンだって、大して減っていない。
そして彼女へと挨拶する海千山千のヨーロッパ財界の大物たちに笑顔を振りまいている。
さすが彼女も剣菱の後継者としての貫禄がついたのか、と思った。
食事よりも、仕事を優先するのだと。
だけど、それは僕の知ってる彼女の顔じゃなかった。
あんな作り笑いにも似た表情をする彼女なんか知らなかった。
そうだ、あの表情はあの頃、僕らをリーダー然とした顔で仕切っていたあの男の生徒会長としての
外面に似ているのだ。
彼女に「お前ならできる」と剣菱を継ぐように勧めたあの男の。慇懃無礼のあのツラに。
「そんなお前は、知らないぞ、悠理。」
僕の足は止まっていた。
刹那、彼女の目が何かを捕らえたようだった。
挨拶を交わしていた賓客の後ろ。遠くを見つめていた。
それは鮮やかな変貌だった。
悠理の顔が挑むような顔になった。
ヤクザを相手に喧嘩をするときのように、楽しげにも見える顔に。
それは自信に溢れた顔だった。
さっきまでは普通に話していた彼女の前にいた客は、その圧倒的な空気に呑まれたようだった。
腰が引けてるよ、おっさん。
にっこり笑って、
「じゃ、これからも剣菱をよろしくお願いします。」
と流暢な英語で言う悠理に、
「Yes, Ms.!」
と噛み付くように応えることしか出来なかった。
彼があとで悠理から離れてこっそり汗を拭っていたのを僕は知ってる。
「お見事ですね。しかしその姿はなんですか。」
呆れたような声で言いながら現れたのは、彼女にハッパをかけた男、清四郎だった。
さっきの客が離れたところでくるり、とテーブルのほうを向いて食べ物をあさりだした彼女である。
スペアリブの骨を素手で摘まんで口へと運びながらそちらへ振り向いた。
やはりその顔は挑戦的である。
「いいだろ。あたしらしくて。」
スペアリブにかぶりつく姿は確かにあの頃の野生児悠理そのままだった。
でも二本の指で優雅にそれを摘まんでいる姿ははっとするほど美しく、
そこから発されるオーラはその彼女の姿こそ正しい作法だと言わんばかりの迫力を備えていた。
「それにしてもドレスくらいおばさんがちゃんと用意してたでしょうに。」
確かに、こういう席に悠理が出席すると聞いたらあのおばさんは喜んでド派手なドレスを
用意したことだろう。贅の限りを尽くした豪奢な総レースのドレスを。
「はん。誰があんなん着るかっての。」
「言葉遣いもどうにかしたらどうですか。今日日、日本語ができるヨーロッパ人は多いんですよ。」
「英語はちゃんとできてたろ?お前の手先の家庭教師にみっちり仕込まれてな。」
その顔はちゃんと僕が知ってる顔だった。僕が知ってる、悠理の太陽のような笑顔だった。
確かに圧倒的なまでのカリスマは昔より増しているのだけれど。
僕は安心するとともに、くすくすと笑い出してしまった。
「美童も来てたんですか?」
と笑い声に気づいたのか、清四郎がこちらを見た。
最初っからここにいましたよ。お前らお互いしか目に入ってなかっただろ。
でも僕はそれを口に出さずに片手を上げて挨拶した。
「久しぶり。悠理があんまり綺麗になってたんでびっくりさせてもらったよ。」
悠理がぶっとカクテルを吹き出しそうになる。
「そうですね。貫禄はさすがですよ。でもこの服装だけはどうにもなりませんかね?」
「あっはっは。確かにね。」
そしたら悠理がにやっと笑って言った。
「あたしらしくしてろって言ったのは清四郎だろ?」
剣菱を継ぐためには悠理が悠理らしくあればいい。そのカリスマを隠さずに輝かせていればいい。
確かにそう言ったのは清四郎だった。その言葉で悠理はここまで来た。
そうだ。悠理ならやれる。今の僕はそう思う。
最初に聞いたときは清四郎の正気を疑ったものだ。
だが、悠理はここまで来た。
清四郎に背中を押され、ここまで来た。
そして清四郎は悠理をなおも高みに押し上げるために剣菱に入るはずだ。
いまはMBAを取るために留学中だ。その資金も剣菱持ち。
いずれは剣菱の中枢で、悠理を支え続けるのだろう。
高みに上る悠理の背中を追い続けるのだろう。
高みにある悠理がバランスを崩さぬように、その足元を固め続けるのだろう。
悠理を高みに押し上げるのは清四郎。
清四郎にその背中を追わせるのは悠理。
僕はわかってしまった。
最初に見た、彼女の外面の笑顔は仮面だった。
彼女の不安そうな顔や怯えた顔を知っている僕ですらだまされるほどに、それらを隠した仮面だった。
それは恐らく彼女の記憶の中にある清四郎の顔を無意識のうちに借りてきたものだったのだろう。
だが、その仮面も必要ないくらいに彼女は突如光り輝いた。
彼女に自信を取り戻させたのは清四郎だった。
清四郎が傍にいれば、彼女はどこまでも上っていける。
清四郎がいれば彼女はどれだけでも光り輝ける。
「確かに、悠理は悠理らしいのが一番だよ。」
そしてそのためには清四郎がいなくちゃいけないんだよ。
僕はグラスを掲げ、二人の友人にエールを贈った。
ちょっと笑った。今日、清四郎が一時帰国した。
悠理と三人で飲んでたら、清四郎が悠理に触れられずにいることに気づいた。
まるで中学生同士の手も握れない初恋のように。
大事な大事な壊れ物を扱うように。
昔はあれだけ粗雑な扱いだったのが嘘みたいだ。
清四郎も可愛いところがあるじゃないか。
こいつらはまだ婚約解消してないと、いずれはこいつが悠理の夫の座に納まると、
そう噂している連中が見たらびっくり仰天するだろう。
ここ何日か滞在している剣菱邸で、悠理は毎日忙しそうに勉強していた。
あの勉強嫌いが大した進歩だ。
帝王学は初めからほとんど教える必要がなかったらしい。
彼女の家庭教師とちょっと話してみた。ちなみにその英語の家庭教師はかなりの美女だった。
子供の頃から万作おじさんと一緒に世界中の遊び場に連れて行かれたり、
百合子おばさんと一緒にあちこちのパーティーに連れて行かれたりしていたのだ。
自然とそういうものが身についていたのだろう。
言語やマナーを学びなおす彼女は、しかし光り輝いていた。
押し付けられたものではない。彼女自身がそれを選んだのだということをうかがわせた。
いつかのパーティーで見かけた彼女の姿そのものだ。
そして、彼女の陰に見え隠れするのは清四郎。
あの黒い髪、黒い瞳で、影として傍に寄り添う。
あの河原で僕はじっと凧を見ていた。
まだ清四郎が乗る飛行機が見えるはずなんか全くありえなかったんだけど。
風が凧を押し上げるさまを、じっと見ていた。
悠理。
お前を押し上げる風が、お前を包む風が、帰ってくるぞ。
そう思いながら。
そしてまた一歩、二人は高みに上るのだろう。
いつか頂上で微笑みあう二人の姿を、僕は見た気がした。
清四郎。悩みすぎるな。
悠理を押し上げることができるのはお前だけなんだから。
それを追うことが出来るのもお前だけなんだから。
悠理。悩みすぎるな。
清四郎はお前しか見えちゃいないんだから。
お前をお前らしかたどり着けない高みまで押し上げることしか考えていないんだから。
あいつはいつだってお前を押し上げ、包み込み、守る風なんだから。
「サバイバルは、望むところだ。」
そう言って微笑んだ悠理は息を呑むほどに美しかった。
そして彼女を見る清四郎の目も、挑戦的だった。
気づけよ。早く気づけよ。
そんなにもお互いがお互いを必要としてるって事に早く気づけよ。
自分の気持ちだけじゃなくって、相手の気持ちにも気づいてやれよ。
「おまえは、大丈夫だ ――― 僕が、保証してやるよ」
清四郎。そのためにはお前が必要なんだよ。
そして僕は一つ、ため息をついた。
(2004.9.4)
うきゃきゃきゃ〜!もっぷさん、ありがとうございます〜〜!感謝感激〜〜!(狂乱中)
筆がおよばず、私が思いきりはしょりまくった、カリスマ悠理。こんなに素敵に書いていただけるなんて・・・。(感涙)
悠理くんの、清四郎を想う気持ちが自然に滲み出ていて、切ないです。ジュテーッムな清四郎も健在。(笑)
ほんとうに、このシリーズ書いて良かったです。続き、書かねばなるまいなぁ。
最強のプレッシャーのかけかたですね、もっぷさん!
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