Kiss Kiss Kiss

1.悠理






背後から聞こえ出した穏やかな寝息。
「あーあ、いいよなー、古典と地理だけってのは。 あたいは、古典のほかにも数学二つに化学に英語に、 あ、現国も・・・ああっもーヤだ!」
赤点必須科目を指折り数えていた悠理は、握っていたシャーペンを 背後に放り投げた。
「って・・・」
意図しての行動ではなかったが、コツン、とシャーペンはちゃぶ台につっぷしていた金髪に当たる。

有閑倶楽部恒例、試験前の勉強合宿IN菊正宗邸。
嫡男の部屋の広い勉強机は、今日ばかりは悠理専用だ。
一瞬途切れた寝息が、ふたたび聞こえ始める。ふりかえった悠理はため息をついた。
合宿も二日目。
清四郎の課したノルマをこなし、もともと悠理や清四郎の十分の一以下の体力だろう美童は、 矢折れ力尽き、の様相だ。
「みんないつの間にか帰っちゃったのかよ。冷てーなー」
夜も更けもう深夜といっていい時刻だ。
先刻までちゃぶ台を囲んでいた仲間達も、美童一人を残していつの間にやら姿を消している。
毎度徹夜体制の悠理に付き合う(もしくは無理やり徹夜体制を敷く)この部屋の主も、 友人達を見送りに階下に下りたのか、姿がない。
常に仁王立ちで背後から悠理をにらみつけている(とは悠理のイメージ) すだれ頭の友人が居ないことで、悠理は脱力した。
美童を真似て机に懐く。
ここには合宿グッズとして五代が用意した悠理ご愛用羽根枕も常備してあったが、 それを清四郎のクローゼットから取り出す気力もない。
体力集中力ともに常人をかるーく凌駕するとはいえ、悠理にとっては拷問にも等しい試験勉強で 彼女も疲れきっていた。
瞬時に睡魔に襲われた悠理だったが、階段を上ってくる足音と、静かに戸を開ける気配を感じた。
(やばい・・・)
だが、慌てて頭を持ち上げるよりも先に、人よりも鋭敏な嗅覚が嗅ぎなれた芳香に反応した。
煙草の香り。
もう親友の体臭になっている愛用の銘柄。
魅録の部屋はいつもこの香りがする。
それから、いつもこの家のお手伝いさんが悠理のために用意してくれる蜂蜜入りホットミルクティーの ふくいくたる香。
「サンキュー」
悠理は頭を上げないまま、幸せな気分でつぶやいた。
「おつかれ」
少しかすれた低い声とともに、悠理の頭の横にやはり置かれたのはミルクティー。
悠理の真上から降りてきた大きな手からは、少しだけ石鹸の香りがした。
(魅録、風呂入ったのかー。今日も泊まるんだ。魅録は試験ラクショーなのに・・・あたいに比べれば。 あたいや美童につきあってくれんのかな)
やっぱり、魅録は優しい。
「へへへ。愛してるよん」
幸せな気持ちのままマグカップに向かって微笑む。
まだコップをつかんでいた手がピクリと止まった。
「愛してるから、あたいにもタバコちょーだい」
「・・・・・」
「眠気ざましに、ちょっとだけ!」
躊躇する気配に、もう一度甘えると、ほら、と吸いさしの煙草が頭上から降りてきた。
悠理はガバリと起き上がって、煙草を口にくわえた。
「わーい魅録ちゃん、サンキュー!鬼の居ぬ間に命の洗濯だーい!」
「・・・鬼?」
頭上からのはずの声は、なぜか地の底から響いてくるように聞こえた。
突然、プッと、背後で吹き出す音がする。ちゃぶ台あたり。
発生元は、目覚めていたらしい美童。
瞬時に全身に立った鳥肌が、悠理の勘違いを理性よりも早く教える。
霊感体質とは関係がないとは言えまい。 頭上に聳え立つ人物から発される暗黒のオーラを感じられるのは。
「だーれーが、鬼なんですかねー。説明してもらいましょうか」
悠理は冷や汗をかきながら、煙草をくわえたまま仰向けに見上げる。
組まれた腕の上の鋭角なあごのライン、風呂上りで下ろされた前髪。 だけど、常のすだれよりも顔に掛かった斜線は暗い。
ぽろり、と口から煙草が落ちた。
「・・・っアチッッ!」
落ちた火に慌てた悠理の胸元に、清四郎はすばやくミルクティーをぶちまけた。
「んぎゃ!」
「慌てるな、適温だ。火傷するよりマシだろう」
言いながら、消えた煙草を拾い上げ、湿ったそれをもう一度口にくわえる。
「なんでおまえが、魅録の煙草すってんだよー、紛らわしいじゃんかー」
「もう終電もないから魅録は可憐を送って帰りましたよ。煙草ぐらい、僕だって吸います。 サルに芸を仕込むのは、さしもの僕も疲れるんでね」
「な、なにをー!」
気色ばんだ悠理の頭を清四郎はポンと小突き、そのまま手を置く。
ちらりと清四郎の視線が悠理の濡れた胸元に落ちた。
白いTシャツはベットリ濡れて気持ちが悪い。
「ちょうどいい、風呂にはいればいいでしょう。寝ぼけ頭が覚めたら、 できる限り詰め込んでやるから。・・・試験は明日だぞ」
怒ったような声は、だが語尾がかすれていた。
「??」
頭に置かれた大きな手からは、怒っているはずの強さがない。
悠理は首を傾げ、清四郎を見上げた。
消えた煙草を口の端にくわえたままの清四郎は、下りた前髪のせいだけでなく、少し幼く見える。
いつものような完全無欠の優等生には見えない。
怒ったような、困ったような、憮然とした表情には、少なくともいつものクールさはなかった。
悠理の視線を避けるように目を泳がせた清四郎は、髪に触れていた手も離した。
そのまま背を向け、クローゼットから剣菱家の紋入り巨大ボストンを出すと、 顔を背けたまま悠理に押しつけた。
「ほら、風呂」
「あ、うん」
大きなボストンバックには、約一週間分のお泊りセット。
「全部はいらないよ、パジャマとパンツだけあれば」
そう言って、バッグから白いタマフク印の下着をひっぱりだした悠理に、清四郎は焦った声をだした。
「全部持ってけ!」
バッグと一緒に部屋を追われるように出された悠理は、常ならぬ清四郎に様子に首をかしげながら、 勝手知ったる他人の家の風呂場に向かった。
背後で閉められた部屋の中から、なぜか爆笑する美童の声と、 呻るような清四郎の叱責の声が聞こえた。



翌朝、菊正宗邸を出た悠理、美童、清四郎は、隣の日本家屋の住人に声をかけられた。
「おはようございます。どうです? 昨夜の首尾は」
鈴の音のような野梨子の声は、真っ直ぐ悠理と美童に向けられた。
「うん、もう、なるようにしかならないよ。僕も男だ。腹はくくった」
言いながらも、今日の文系不得意二科目が終われば解放される美童の声は明るい。
「だいじょうぶです。ちゃんと、なるようにしてますよ」
「いいよなー、美童は、昨日もたっぷり寝てんだぜっ」
対照的に、徹夜組二人は暗い。
前途に待ちうける試験地獄にどんより沈む悠理の姿はここ数日おなじみとはいえ、 美童の仕上がり具合を請け負う言葉と裏腹に、清四郎までらしくなくすだれ前髪の下の額に 影を下ろしていた。
「ど、どうしたんですの、清四郎」
「は? なにがです」
口はへの字、眉根にたてじわ。
赤点組の勉強合宿ではシゴキになんの血が騒ぐのか徹夜だろうが嬉々としている、 いつもの清四郎の様子ではない。
しかも、本人に自覚はないらしい。
足の鈍りがちな悠理を小突きながら、早足で登校する清四郎の背を、 野梨子はいぶかしげに見つめた。
「なにかあったんですの?」
美童も清四郎の不機嫌は察しているらしく、肩をすくめる。
「野梨子たちが帰ってから、べつにコレといって。いつもの通り、悠理とドツキ漫才してたけど」
ああそういや、と美童は思い出し笑いを浮かべ声をひそめた。
「悠理って、無意識に男心を弄ぶよね」
「はぁ?」
思わず野梨子は裏返った声を上げる。
「愛してるー、って抱きついたり、平気でするじゃない。 ノーブラだろうが服が透けてようがおかまいなしでさ」
ま、お下品な、と顔を赤らめる野梨子に美童は苦笑した。
「悠理のやつ、僕らの前でパンツふりまわすんだよー。 あいつ野梨子よか、清四郎の幼なじみみたいだよな。パジャマに枕まで常備してんだから」
「あら、わたくしは清四郎の家にお泊りなどしたことありませんわ。 だって、家に帰って休めばすむことですもの」
隣家なのだから当然だろう。
「ですが、たしかに。いままで考えてもみませんでしたけど、悠理も年頃なのだし、 世間体がいいとはいえませんわね」

悠理は重い足取りで登校しながら、二人の小声の会話を聞くともなしに聞いていた。
(だれが、いつ、おまえに「愛してる」っつったよ、美童。それに昨日はちゃんとブラしてたじょ)
(それにあたいだって、好き好んでお泊りしてるわけじゃないやい、野梨子! おまえに常識ってゆわれたくないっての)
有閑倶楽部一、大胆で非常識なことをしてのけるのは実のところ当の野梨子だったのだが、 ご多分に洩れず、自覚はまったくないらしい。
心の中で突っ込むが、口に出す元気は試験開始一時間前のいまの悠理にはなかった。
晴れやかな美童がただただ妬ましい。

なにがおかしいのか、美童はくすくす笑っている。
「ま、でも悠理だし」
「・・・そうですわね、悠理ですものね」
悠理には理解できないことに、今の話は、そのひとことで結論に達したらしい。
無邪気なところがいいところ、という悠理に対する仲間たちの評は、 当然本人には通じてなかった。
ふと、視線を感じて顔を上げると、眉根にしわを寄せた清四郎と目があった。
「なんだよ」
清四郎も、野梨子と美童の話を黙って聞いていたらしい。
「・・・いえ、悠理だからな、と」
ふう、とため息をついてみせる清四郎に、かちんとくる。
「なんだよー、おまえに愛してるってったわけじゃないぞ。 頼まれたって抱きつきゃしないわい」
清四郎は、への字口のまま、片眉を上げる。
「幽霊が出なきゃ、ですけどね」
「ぐ・・・」
結局、悠理が口で勝てないのは、これ、自明の論理。
「さ、試験しっかりなさい。補習も追試もいやでしょう」
口調はいつもより、10℃くらいは冷えていた。
悠理だって気づいているのだ。清四郎がなぜだか昨夜からひどく不機嫌なのは。
ほとんど一晩中、背後に無言で立たれた悠理は、恐怖のあまりサクサク課題をこなしてしまった。
おかげで今回は低空飛行ながら、パスしそうだ。 清四郎作の出題予想問題が外れることは、ありえない。
「おまえ、昨日慣れないたばこ吸ったから、気分悪いんじゃないのか」
言外に、自分に当たるな、と非難する悠理に、清四郎は口を歪めて、笑みらしき形を作った。
「んなわけないでしょう。・・・でも、もう悠理のまえで煙草は吸いませんよ」
吐き出すように言い捨てて、清四郎は校門をくぐり、もう悠理の方を一瞥もしなかった。
その不機嫌な横顔は、なんだか悠理を落ち着かなくさせた。
(そういや、昨日あいつはあのタバコ半分も吸っちゃいないよな。あたいが獲っちゃったから)

悠理は無意識で唇に手をやる。
ささやかな、間接キスを意識したわけではなかったが。






2.可憐 に続く
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