名前のない夢を見つけて

 



1.


夢でも、見たことはない――――こんな彼女の姿を。



階段上に彼女が姿を現したとき、彼は息をのんだ。
黒のストラップドレス。光沢のあるシルクの生地が体の動きにそって煌く。
切れ上がった裾をさばき階段を降りてくる悠理は、いつもより高いヒールにもかかわらず、あぶなげはなかった。
真っ直ぐ顎を上げ髪をふわりと揺らして、舞い下りる蝶のように、ホールに降り立つ。

「悠理、そんなにめかし込むことねぇだ。兼六のところはやめて、オラたちと行くべ」
剣菱邸のホールでは、羽織袴の万作が、不機嫌そうに愛娘の艶姿を見つめていた。
60階建ての兼六の新社屋披露パーティに娘とともに招待されていた万作は、大人げなくも 急遽剣菱開発の新プロジェクト発表会を繰り上げ、当日ぶつけることにしてのけた。

そして、新プロジェクトの実質的責任者である清四郎も、本日は悠理とは共に行けない。
「あら、珍しい。悠理のそんなまともなフォーマル、初めて見たわ」
言葉の出ない彼の隣で、こちらもドレスを着た可憐が、嬉しそうな声を上げた。
「あれ?可憐」
悠理は意外そうに、可憐に目をやった。
「今日も、おまえが清四郎のパートナーなのか?」
悠理はフォーマルスーツ姿の清四郎と可憐に目をやった。
「あんたとこのパーティには出させてもらうけど、いつも無礼講でエスコートなんていらないじゃない。 今日は、あたしは清四郎に頼まれた品を持って来たのよ」
可憐は隣に立つ清四郎に、「お買い上げ、ありがとうございます。ほほほほ」と愛想笑い。

清四郎は悠理に目に奪われていた自分に気づき、頭を振った。
「清四郎、可憐とこで、なんか買ったのか?」
「ああ、ええ・・・おまえに」
清四郎の言葉に、悠理は目を見開く。
清四郎にうながされ、可憐は黒皮の専用ケースを悠理の目の前で開いた。
ケースの中には、ダイヤモンドをちりばめたチョーカー。
「今日のドレスにはピッタリだわよ、悠理」
「な、なんで?」
悠理はチョーカーと清四郎の顔を交互に見る。
「・・・誕生日プレゼントですよ」
清四郎は悠理に笑顔を向けた。
思いがけない清四郎の笑みに、悠理は虚をつかれ――――そして、頬を染めた。

長い付き合いだが、お互いに誕生日プレゼントを贈ったり贈られたりする習慣はない。
仲間たちの誕生日を祝うパーティでは、いつも大騒ぎして過ごすのが通例だ。
だが、今年の悠理の誕生パーティに、清四郎は欠席した。
誕生日に日付が変わった夜、悠理へ一番に”おめでとう”と言ったのは、清四郎だったのだが。
その際、差し出された花束は、清四郎からではなかったものの。

可憐は清四郎に肘鉄を入れる。小さく、この悪党、と呟きながら。
「ほら、清四郎。あんたが悠理に着けてやりなさいよ」
「え?」
清四郎に可憐はチョーカーを手渡す。
特注のそれを、清四郎は苦笑しながら受け取った。
「悠理」
清四郎は悠理の背後にまわる。
首にかかる髪を指でかき上げ、細い首に触れた。
白い肌が、ほんのりと色づく。まるで、清四郎の指先が触れた場所から広がるように。

悠理は、見違えるほど綺麗になった。
少女の殻を脱ぎ捨て、この数年輝きを増しつづけるその美しさ。
そして、ここ何日かで、また悠理はどこか変わった。
以前なら決して着ることはなかったドレスを着て見せたことで、それは知れる。
その美しい容貌にもかかわらず、悠理は女性らしい服装をすることを、拒みつづけていたのだ。
肩肘を張り顎を上げ大股に歩く悠理は堂々と輝いていた。
しかし今、目の前の黒いドレスの女には、そんな気負いは見られなかった。
軽やかにしなやかに、悠理はまたひとつ殻を脱ぎ捨てた。

肌に触れた指先が、震えそうになる。
彼女が変わってゆくのに比例して、彼は心を押し隠すことが困難になる。
もう何年も続けているポーカーフェイスを維持することが。

小さなダイアモンドが光を反射した。
清四郎は悠理の首の横で金具を止める。密かな願いを込めながら。
この日のための特注品。猫の首に鈴。
悠理には内緒にしているが、このチョーカーには発信機を仕込んであった。

先日、取引先のパーティで兼六聖吾と邂逅してから、今日のために清四郎は可憐の店にこの品を造らせた。
悠理を一人で敵地にも近い場所へやることが不安でならなかった。
いつまでも過去の確執で、日本有数の企業同士がいがみあうのは他の企業に漁夫の利を得させるだけだと、 強引に兼六との和解を役員会で提案したことを、今は悔いていた。

「悠理」
名を呼ばれ、悠理は振り返って清四郎を見上げた。
可憐の見立ては確かだ。ダイヤモンドの硬質な輝きは悠理の細い首を際立たせて眩しい。
「よく似合う」
「あ・・・ありがと、清四郎」
悠理はわずかに睫毛を伏せた。
頬がまだ染まっている。
「そのドレスは、黒竜氏の?」
「うん」
悠理の忠実な崇拝者である取引先の男の名を挙げる。
「さぞ、悔しがるでしょうね。初めて悠理が自分の贈ったドレスを着たのに、見ることができないなんて」
「今日は、ウチの方に出るんだ?」
悠理は残酷な笑みを浮かべる。
「当然だがや。こっちに来なければ、今後取引停止だべ!」
万作が口をはさんだ。
悠理が兼六のパーティに出ると表明してから、万作はずっと機嫌が悪い。
清四郎も唇の端を引き上げた。
顎に手をあて、悠理をじっと見つめる。
「・・・どうも心配だな。僕も一緒に行きたかったですよ」
「えっ」
らしくない清四郎の直接的な言葉に、悠理は戸惑った顔をする。
「DNAに負けて兼六で大暴れしないか、心配です」
悠理は唇を尖らせた。
「するかよ!」
「しませんね?殴りつけたり飛び蹴りは、今日ばかりは御法度ですよ」
万作は、やっと相好を崩した。
「そりゃいいだ、あのハゲをやっちまえ。悪を成敗するのは、この父ちゃんが許すだ!」
握り拳の万作に悠理は肩をすくめて見せた。
余裕にあふれた表情は、彼女の自負と意志を感じさせる。
清四郎の進言のみならず、兼六との関係修復は、彼女が自分の代で成し遂げようと、初めて父親とは違う 選択をした行為なのだ。

悠理は時計を確認し、ショールを手に取った。
「じゃ、お先。剣菱悠理、出陣します!」
やはり、悠理にとってドレスは戦闘服らしい。
清四郎と可憐に片目をつぶってみせ、悠理は玄関へと踵を返した。

颯爽と風を切る後ろ姿を、清四郎は見送る。
さっきまでの笑みはその顔から消えていた。
寄せた眉と気遣わしげな瞳が、言葉以上の不安を彼が感じていることを告げている。

「ねぇ、清四郎」
可憐が長年の友人に、声をかけた。
「あんた、ひょっとして悠理のことを・・・」
からかい口調で話し掛けようとした可憐は、振り返った清四郎の眼光に、言葉を飲み込んだ。
「可憐、すぐにモニターが確認できるように準備したい。頼みます」
清四郎の胸をざわめかせるのは、抑え込んでいる恋慕の情だけではなかった。
大企業である兼六が、賓客である悠理を危険な目に合わせるはずもない。
そうはわかっていても、不安でならないのは、ただの勘か。 それとも、記憶の中の兼六聖吾の剣呑な視線のせいか。

悠理の元婚約者として有名な清四郎が、彼女をエスコートして公的な場に出ることは、いらぬ憶測を生む。 だから、これまで極力避けてきた。
しかし今日ばかりは、清四郎は悠理の隣に立ちあの男と向かい合いたいと心から思った。
悠理の戦友の座だけは、誰にも譲るわけにはいかない。
それだけが、清四郎が自分に許す、彼女の隣に在る資格だったのだから。



 

*****

 





剣菱記念会館に集まっているのは、取引先など仕事関係者ばかりではない。
兼六に対抗して万作が呼びつけた大勢の賓客。
急な開催のため、剣菱側のトップは会長である万作と清四郎しかいないものの、客の顔ぶれは豪華を極めた。
その中には、着物姿の野梨子や本日も営業に励む可憐の姿も見られた。

剣菱会長の威勢のよい挨拶がまだ終わらぬ内に、清四郎の携帯が振動した。
緊急用の個人番号を知っている者は少ない。
清四郎はそっと会場の外に出た。
「美童、どうしたんです?」
ロビーで電話に出た清四郎の耳に飛び込んできたのは、長年の友人の不安そうな声だった。
美童は今フランスに居るはずだ。時差を考えると、よほど緊急の用だろう。
『悠理が兼六のパーティに呼ばれてるのって、今日だったよね?』
その切り出しに、清四郎の顔は青ざめた。
朝からの不吉な予感が的中しないことを、胸中で祈る。

「そうですが、なにかあったんですか」
『兼六聖吾って、こっちでの留学時代に外人部隊に入ってたって、清四郎言ってたよね。僕もちょっと気になったから、調べてみたんだ』
先日の兼六聖吾との出会いの際、美童も彼の剣呑さは察知していた。
フランス外務省や軍関係にも顔のきく彼のこと、あちらこちらで聞き込んだ情報は相当なものだった。

兼六聖吾は、軍事訓練を受けただけではない。思想的にも問題があり、一度ならず当局にマークされていた。
素性を隠し怪しげなテロ組織にもかかわっていたらしい。それも皮肉なことに、反ブルジョアの組織である。日本有数の財閥の妾腹とはいえ末息子でありながら。
組織内での彼の地位などはあきらかになっていない。ただ、内紛があり、聖吾が去ったあとにはいくつかの死体が残っていたと噂されている。
その彼が帰国し、兼六一族として公の場に姿を現しはじめたのは、ここ数ヶ月。
インターポールにまでマークされる当人のキナ臭さとは別に、聖吾自身が、テロの標的にもなりうるのだ。
そして、国内最大級の高層新社屋ビル披露パーティは、彼が兼六経営陣に加わってから、初の大きなイベントだった。

美童からの情報は、予想していたよりも、兼六聖吾が危険な人物であると裏づけた。

”剣菱悠理、出陣します!”

悠理の後姿が、不安とともに胸をよぎる。
清四郎はチョーカーに付けた発信機が正常に作動していることを確認しようと、ブリーフケースを開けた。
悠理の安否があれでわかるわけではない。
兼六ビルに近づかない限りは、現在位置の確認すら意味がない。
可憐には、なんだったら盗聴器も付ける?とからかわれたが、いっそそうすれば良かったと、清四郎は舌打ちした。

悠理も緊急連絡用の携帯は持っている。
清四郎は自分の携帯を見つめた。
悠理はマナーとして電源を切っているか、清四郎が”不安”を理由に電話したとしても、出はしないだろう。
携帯を握りしめたまま、清四郎は逡巡する。

発信機は正常に動いている。モニター画面上の星のような悠理の輝きを確認した。
その星が、清四郎を呼んでいるような、気がする。
”不安”だけが理由でも、十分だ。
清四郎は悠理の短縮ナンバーを押そうと携帯を開いた。

そのとき。

携帯は、清四郎が掛けるよりも早く、再び振動した。
着信者を確認する暇こそ惜しく、清四郎は通話ボタンを押す。
「悠理か?!」

『…清四郎!』

叫ぶような悠理の声。
しかしそれは、背後から聞こえた銃声と悲鳴交じりの喧騒に、かき消された。








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『名前のない空』シリーズのたぶん最終話です。これで、幸せになんなかったらもう無理ですね、くっつくの。
もともと”永遠の片思い”のつもりだったんです。でも、オスカルとアンドレも一度は結ばれたことだし。(すぐに死んだけど)
「革命か、喀血でもしない限り、このふたりはくっつかないよぉ」と、泣き言を入れたら、「じゃあ、事件起こせば」と もっぷさんがふってくれたおかげで、事件モノになってしまいました。(笑) ゆっくり書いて、ゆっくりアップ予定です。


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