胸騒ぎの午後
後編
今日もお騒がせの有閑倶楽部。生徒会長の雄たけびが響き渡った午後のこと。剣菱悠理くんは、校内を駆け抜けておりました。
校門のところで立つ清四郎の姿を見るなり、悠理はきびすを返して駆け出した。 明らかに待ち伏せされていたのだから、当然だ。 「待て、悠理!なんで逃げるんだ」 清四郎も、悠理のあとを追って、走り出した。
「なんでって、ねぇ」 「だれだって、逃げますわよ」 生徒会室の窓から校門をながめていた可憐と野梨子が顔を見あわせる。 清四郎が、学校内に響き渡る大声で『悠理のバカヤロー!』と叫んだのは、つい数時間前なのだ。 清四郎と顔をあわせたくはないと悠理が部室に寄らずに先に帰ろうとするところまで読んだのは当たったが、肝心のところで、頭でっかちの清四郎もボケている。
「でも、どうして清四郎は悠理を追いかけるんですの?昨日の話はさっき聞きましたけど、私だったら、変な誤解をした魅録と可憐を締め上げますわ。悠理ではなく」 「ちょ、ちょっと野梨子。あんたやっぱ怖い子ね」 楚々とした美少女の口から出た言葉に、可憐は慄いた。 レイプなんかに負けちゃだめよ、と同情の涙を浮かべ清四郎の手を握り、彼の顎を外させたのは、誰であろう可憐だったのだ。
「でも、まぁそうね。なんで、清四郎は悠理を追いかけてんのかしら。そりゃ昼休みの時点では、赤面して雄叫んでたけど、もう怒ってるようには見えないし」 清四郎をらしくないほど狼狽させた張本人は、他人事のように首をかしげた。
帰宅する生徒の群れをぬうようにして、悠理が走る走る。 そのあとを追いかける清四郎の姿に、皆、何事かと、ふりかえっている。
「男にキスされてショックなのはわかる。おおいに同情しちゃうよ。けど、悠理の責任じゃないんだろ」 美童と魅録も女たちに加わり、窓から校庭を見下ろした。 「あいつら、悪目立ちしてるよな。お、悠理すげえ。あいつ、ない頭で考えてるよ。花壇飛び越して、窓から校舎に侵入したぞ。あのコースは清四郎にはとりにくいよな」 生ける屍だった魅録も、昨日の一件がたかがキスと知ってからは立ち直り、傍観者の余裕をみせる。 「あら、渡り廊下に回るみたい。だいぶ時間のロスよね。あ、しかも生活指導につかまってるじゃない、清四郎。もう追いつくの無理じゃない?」 「うん・・・」 美童は、教師をやりすごしてふたたび走り出した清四郎の後ろ姿に、首をひねった。 「清四郎・・・あいつさ、なんか朝から変なんだよな」 「そりゃ、いつも通りってわけにはいかないわよ。あの鉄面皮でも」 「いや、おまえらの方がもっと変だったけどさ。可憐や魅録と違って、当事者の清四郎が、自分が強姦されたと誤解するわけないじゃないか」 「そ、それはそうですわね」 野梨子がポッと頬を染める。 美童は、考え込みながら、つぶやいた。 「じゃあ、あいつ、なんの誤解してたんだ・・・?」
![](http://zve00252.g1.xrea.com/novel/munasawagi/tenpu_1127_6.jpg) イラスト えのみち様
「菊正宗、頼むぞ。剣菱を必ず連れてきてくれ」 「はい」 清四郎はよそいきの笑みを教師に向け、ふたたび走り出した。
悠理が休み明けの小テストでつまづいていてくれて、助かった。 補習に連れてゆく、という大義名分を得た清四郎は、『廊下を走るな』の張り紙を無視できる。 すでに窓から校舎に入っていた悠理は、空き教室を突っ切って、また窓から中庭に抜けようとしていた。
「ち、なんだって、あんなコースを・・・」 昨日の追いかけっことは違い、今回は土地勘は公平だ。 かえって悠理のほうが、清四郎が思いもしないところから出入りする分、地の利はあった。 清四郎は舌打ちしながら中庭を走り抜けてゆく悠理を追った。
予測できるコースに、考えをめぐらせる。 悠理を馬鹿だとあなどってはいけない。動物的勘は人十倍。 逃げ道のなくなる上階や、寺でのときのような先回り可能なコースは避けるだろう。 ひたすら逃げ回る持久戦も、清四郎の体力を知っている悠理はとらないに違いない。 頭の中で、学園の地図を確認する。マークすべきは、いくつかある通用門。 グランドのフェンスをよじのぼっての逃亡も、悠理の場合考えられる。 しかし、いま悠理が向かっているのは、学園の中心部だった。 進行方向には、植え込みと低いフェンスで高等部とは隔てられている、中等部。
植え込みをひらりと飛び越え、悠理は中等部の敷地に入った。 肩越しにふりかえると、清四郎の姿はまだ校舎の中なのか見えない。 だけど、清四郎相手に油断は禁物。 だいたい、なんで清四郎が追いかけてくるのか、いまひとつ悠理にはわからなかった。 自分がなぜ清四郎から逃げているのかは、わかっていたが。
中等部校舎の中に、悠理は足を踏み入れた。 「け、剣菱先輩?!」 悠理の姿を見て、数人の女生徒が嬌声をあげた。 「や、どーも」 いつものくせで、悠理は女の子にニッコリ笑顔で応える。 「やだー、ほら剣菱先輩よぉ!」
高等部の悠理ファンの女生徒たちよりも、中等部の少女たちは遠巻きだがかしましい。 留年した悠理と同じ校舎で学んだことのない中学生たちだったが、それゆえにアイドルとしての悠理人気は高等部よりも凄まじいことを、悠理は気づいていなかった。
街の不良にからまれ悠理に助けられた者もいた。 幻滅シーンを目撃する機会が少ないせいもある。 まだ現実の男性には興味のない恋に恋する少女たちにとっては、悠理は美童などより白馬の騎士なのだ。
放課後の教室にまだ残っているものも多かった。部活中のはずの者まで『剣菱先輩』をひとめ見ようと顔をだす。 悠理のまわりに、わらわらと少年少女が集まりはじめた。
「はい、ごめんよっ」 遠巻きの彼らをかきわけるように、悠理は目的地に向かってふたたび走り出した。 こんなところで足留めされれば、清四郎に追いつかれてしまう。
中等部に逃げ込んだのは、とっておきの秘密の場所があるからだ。 清四郎や可憐たちと仲間になる以前の、悠理の隠れ場所。 あそこを、清四郎たちに教えたことはない。気づかれないはずだ。
悠理をなぜか追走していた中学生達のおかげで少々遠回りさせられたものの、全員をスピードにものを言わせてふりきった。 清四郎の姿も見えない。 周囲に人影がないことに安堵して、悠理は生徒指導室のドアノブを回した。
悠理が駆け込んだのは、教官室横の生徒指導室。そしてそこから入れる、準備室。 立地条件の悪さで、大半の生徒達はこの小部屋の存在そのものを知らない。 お坊ちゃん校のプレジデント学園では、そもそも指導室が使用されること自体、少なかった。 教官室と同じ鍵のためかたいてい施錠していない上、人の出入りはない。 その準備室にいたっては、古い制服や資料をつんであるだけのただの物置部屋だった。 呼び出し常連だった悠理だから、知り得た部屋だ。
鍵はやはりかかっていなかった。悠理はなつかしい小部屋のドアを開いた。 薄暗く埃くさい物置部屋で、ほっと吐息をつく。 清四郎たちと仲間になる中三まで、学園内で浮いた存在だった悠理が落ち着けるのは、この小部屋の静寂の中だけだった。 生徒指導室の隣でありながら、悠理が煙草を初めて試したのも、この場所だ。 食べ物がまずくなるので、すぐにやめたが。
悠理は体育館裏に面した準備室の窓を開ける。 遠く、部活動の喧騒が聞こえた。 悠理が高等部に移ってから、開けたものは誰もいないだろう汚れた窓枠に、頬杖をつく。 このままここで、ほとばりが醒めるまで隠れていようと思った。
自分がどうして、清四郎から逃げ出したのかは、わかっていたが。 彼がどうして追いかけてくるのか、なんて知らない。 昨日だって、悠理の行動が不審だったからというだけで、追いかけっこの末にタックルしてきた男だから、理由なんてないかもしれない。
体育館をぼんやりながめていると、バレー部のボールが窓の下に転がってきた。下級生が拾いにやってくる。 悠理の姿に気づき、あ、の形で固まった少女の口。 あわてて悠理は、人差し指を口につけた。 「黙ってて。あたいのこと」 中学生はぼんやり悠理を見あげている。 少女の視線が、悠理の頭の上に移動した。 「・・・?」 不審に思い、悠理も上を見上げた。 上ではなかった。背後に、人の気配。
「やっと気づいたか」 「・・・!!」 勢い良くふりかえった悠理の目の前に、詰襟の胸。 ぶつかりそうなその距離で、顔は見えなかったが、間違えるはずもなかった。
「清四郎!なんで?!」
「なんでって、悠理が中等部に向かったから、逃げ込むのはここだと思って」 「い、いつから・・・」
狼狽する悠理に対し、清四郎はいつも通りの余裕の笑み。 「悠理がここに来たときには、居ましたよ。おまえが気づかなかっただけで」 清四郎は窓辺から身を離し、書類棚の上に腰掛けた。
遠回りをして悠理がたどり着いたときには、清四郎はここにすでに座っていたのだ。
「なんで、ここのこと、知ってんだよ!」 悠理は頬をふくらませた。 どうにもこうにも、おもしろくない。また、清四郎に先回りされてしまった。
「素行不良の剣菱サンが、いつもどこで油を売ってたかなんて、中等部生徒会長としては、つかんでいなければならない情報でしたからね」
長い足を組んで微笑を浮かべ、清四郎は当然のことのように言う。
そういえばこういう奴だった、と悠理は思い出し歯噛みした。 かつて清四郎は、悠理が街でやらかした喧嘩騒ぎもリスト化していたことがある。 「ふぬぬ・・・」 敗北感に、悠理は唸った。
悔しげな悠理の顔を見つめながら、清四郎も思い出していた。 ――――そうだ。 中学のときから、悠理がどこでなにをしているのか、清四郎は気になっていた。 口もろくにきいたことのない、同級生に過ぎなかったのに。
「ねぇ、悠理。なんで、逃げたんです?」 「な、なんでって・・・」 悠理は口ごもった。 「おまえが、追いかけてくるからだろ!」 「悠理が逃げるから、追いかけたんです。昨日だってそうだ」 『昨日』の言葉で、悠理は赤面した。
それは、昨夜さんざん清四郎の脳裏を過ぎり彼の眠りを妨げた、悠理の顔だった。
「…その顔に、だまされたんだ」 清四郎はため息をつく。 「あ?あたいの顔がナンだよ」 「いいえ、こっちの事。ひとりごとです」 寝不足のためか痛む頭に、清四郎は手をやった。 まだ赤面したままの悠理は、追いつめられたようなせっぱつまった顔で、清四郎をにらみつけている。
「だいたい、おまえが悪いんだぞ!あんなとこで、無防備に寝てたから・・・!」 「ああ、ハイハイ」 清四郎にとっては、知らないうちにされたセクハラなど、どうでもよかった。 もちろん気分は良くないが、悲しいかなこの種のことは慣れっこなのだ。
「あたいだって、びっくりして止められなかったんだ!」 「そうでしょうねー・・・」 清四郎は気のない返事をかえす。
セクハラの詳細よりも、真っ赤な顔でまくしたてている目の前のサルによってもたらされた不眠と煩悶のほうが、清四郎にとっては重要事だ。
「そりゃ、あたいだっておまえをカワイイなんて思ったけど・・・」
頬杖をついて悠理の言葉を聞き流していた清四郎は、顔を上げた。
「ハイ?」 「あたいは、キスなんてしようと思っちゃいなかったからな!勘違いすんなよ!」 「・・・・・?」 「あたいは、おまえと寝たかっただけだ!」 真っ赤な顔のまま、悠理は握りこぶしで断言した。
清四郎はあやうく、腰掛けていた棚からずり落ちかけた。 『カワイイ』と『寝たかった』が頭の中でエコーつきで反響している。
――――落ち着け。
清四郎はこめかみをもみながら、自分に言ってきかせた。 悠理の言う『寝たい』は、間違いなく木陰の昼寝のことのはず。
わかっていても、悠理の言動に動揺しまくる自分が、清四郎は情けなかった。 昨日からドギマギ翻弄されっぱなしの、胸が苦しい。 なんだか悔しくなってきた。
常に冷静で感情に左右されないと自負している清四郎の矜持を、あっけなく揺るがす悠理。
菊正宗清四郎ともあろう者が、底抜けお馬鹿で猿で犬な剣菱悠理に振り回されている現状が、許せない。
「・・・・・悠理」 「な、なんだよ」 ずいっと近づくと、悠理は一歩下がって距離をとった。 清四郎はかまわず、コンパスにものを言わせ、距離をつめる。 「窓の外。人の気配がするけれど、知り合いか?」 「え?」 指差すと、悠理は背後を見返った。
窓の外には、青空が広がっている。 「誰も、居な・・・」 清四郎は一瞬の隙をついて、ふりかえった悠理に顔を寄せた。
――――触れた唇は、やわらかだった。
「・・・・!!!!」 大騒ぎするかと思った悠理は、予想に反して、腕で唇を隠し、飛びのいただけだった。 「なななななななっ」 もっとも、驚きのあまり声が出なかっただけであることは、明白だ。 「なにすんだー!!」 悠理が叫んだときには、すでに清四郎は自分の指の耳栓で鼓膜を守っていた。
「なにって、わかりませんか?・・・まぁ、悪い犬にでもかまれたと思って、忘れてください」 昨日の悠理の言葉を引用してやる。してやったり、の笑みを浮かべて。
「こ、この野郎・・・」 悠理は涙目で、制服の袖で唇をぬぐった。
胸騒ぎの原因たる悠理に一矢報いたつもりだったが。
清四郎は悠理の仕草にショックを受けた。
「そんなに、嫌でしたか・・・?」
ショックは、予想の範囲内であるはずの悠理の所作に、思いもかけず傷ついた、自分に対しても。
「だって、あたい、初めてだったんだぞ!それが、それが・・・っ」
悠理はまだ、ゴシゴシ口を拭っている。 「あの、ホモのゴーダツ魔と、間接キッスなんて!!」 悠理は怒り狂って、泣き叫んだ。
ドドーンと暗黒を背負い、清四郎はよろよろ床に座り込んだ。 悠理の涙に、本気で落ち込む。
――――たかが、キス。されど、キス。
ここまで嫌がられるなんて、思いもしなかった。
悠理にキスされたと思ったときの、自分の動揺と高揚とトキメキが、空回りであることを痛感させられる。
彼女にとって清四郎とのキスは、”昨日のホモとの間接キッス”に過ぎないのだ。
埃だらけの床に座り込み、清四郎は顔を伏せた。 床板にのの字を書く。 「・・・でも、僕のファーストキスよりかは、ずっとマシだと思いますけどね・・・」 「え?」 ポツリと呟いた清四郎の隣に、悠理が警戒しつつ近づいてきた。 「もしかして、昨日のアレが・・・?」
実のところ、清四郎はキスはおろか、@@@まで中学時代に済ませている。ファーストキスの相手が誰だったかさえ、思いだせない。
好奇心はあったものの、感情が動くことはなかった。記憶にも残らない、ファーストキス。
八つ当たりのヤケクソで奪ったはずの悠理の唇に対する、胸騒ぎと反対に。
「そ、それは気の毒・・・」
すっかり誤解した悠理は、落ち込んでいる清四郎への同情で、怒りを忘れたらしい。 ちょこんと隣に座り、悠理は清四郎の顔をのぞきこんだ。
清四郎は顔をあげる元気もない。
ひどく胸が痛んだ。情けなさに涙が出そうになる。
「元気出せよ、な?」 悠理の同情あふれる顔を見ても、清四郎のヤサグレ気分が晴れるはずもなく。
「嫌だったのは・・・間接キスだけか?」 「うん」 頷く悠理の無邪気な顔に、胸が締め付けられた。
彼らしくない衝動に襲われ。
チュッ。
小さな音を立てて、清四郎はもう一度、悠理に口づけてしまった。
どうしても、触れたくてたまらなかったのだ。
再びふいをつかれ、悠理はあっけにとられている。
悠理は混乱していた。 怒鳴りつけて殴ってやっても良かったのだが、清四郎がなんだか泣きそうな顔をしているので。 嫌がらせ、意地悪のたぐいには思えない。 「・・・なんで?」 呆然と悠理が問いかけると、清四郎は赤面した。 「おまえが、可愛かったから」 その言葉につられて、悠理も顔に熱が上がる。
昨日から、ドキドキさせられてばかりだ。 悠理が逃げ出したかったのは、この胸をざわざわさせる不可解な自分の感情からだった。
清四郎を見ていると、どうも落ち着かない。
追いかけられ、向かい合うことが、怖くてたまらない。
彼の目と――――自分の感情に。
「ず、ずるいぞ!そんな理由で、キスしていーのかよ!」 「だめですか・・・?」 「あたりまえだ!あたいだって、しなかったろ?」 「は?」
清四郎は意味がわからず眉をひそめる。
頭のいい清四郎が、悠理の言った言葉をわからないなんて、普通じゃない。 彼が悲惨なファーストキスで落ち込んでいる証拠だと、悠理の同情心はますます募った。
「あたいだって、おまえをカワイイって思ったけど、しなかったぞ?」 清四郎に、言ってきかせる。正直な気持ちを。
口をぽかんと開けた清四郎の顔は、なんだかやっぱり無防備で。
常は嫌味なくらいすべてお見通しで、悠理のことをからかってばかりの清四郎。
その彼が見せる思いもかけない表情が、悠理を胸苦しくさせる。
きゅん、と胸の奥が疼いて、どうにもこうにも落ち着かない。
「・・・・・・・・・・・・。」
膝を抱えて座り込んでいた清四郎が、むっくり起き上がった。
無言で前髪をかき上げる彼の表情からは、先ほどまでの憂いの影がなぜかすっきりなくなっている。 いつもの、清四郎だ。
悠理も、ほっとして立ち上がった。
清四郎は優雅な仕草で制服の埃を払った。悠理のスカートからも掃ってくれる。
結構面倒見の良い男なのだ。
時に冷たくて意地悪に見えても、長い付き合いの中で、悠理だってわかっている。
だから、彼のそばでは安心できるのだ。落ち着かない胸騒ぎとは裏腹に。
「悠理、すみませんでしたね」 落ち込みから立ち直ったらしい清四郎が、微笑んだ。 「いいんだ」 悠理も笑みを返した。 いつもは憎たらしいほど冷静沈着な清四郎の、あんな顔を見ることができて、ちょっと得した気分さえする。
落ち込んだり、泣き出しそうだったり。驚いてポカンとしたり。 あんな清四郎の顔を自分しか見てないんだと思うと、悠理の胸がまたドキドキしてきた。 ここには、あのキス強奪魔もいないから、清四郎を奪われることもないのに。
「でも、僕の気がすみません」 「いいって。忘れろ。おまえ普通じゃなかったし」 「じゃあ、こういうのは、どうですか?」
清四郎は悠理に提案する。 「僕が悠理に二回キスしたでしょう。だから、悠理も、いつでも自分がしたいと思ったときに、僕にキスしていいです」 そしてニッコリ。
清四郎の笑みに、悠理はあっけにとられる。
足りない頭なりに、その提案を検討した。
――――それって、なんかちがうくないか?
「んんん?」 首をかしげた悠理に、清四郎はたたみかけた。 「なんだったら、もう一回、サービスしますよ。今一回、しとくとお得です」 「お得?」 確かに、清四郎が二回で悠理が三回なら、お得かも。 「悠理にでもわかる、簡単な算数です」 その言い方は気に食わないが、確かに、その通りのように思えた。 「キスしていいの?」 清四郎は、その悠理の言葉にコクコクうなずき、身をかがめた。 「ハイどうぞ」
ニッコリ、がニンマリ、になっているようで。清四郎の表情は、イマイチ可愛いとは言いがたかった。
が、ご令嬢のくせに悠理は”アタリが出たらもう一本”とか”今だけのタイムサービス”とかに弱いのだ。
悠理は息をすいこんで、清四郎の肩に手をかけた。 ――――なんか、騙されてる気もするけど。 「よし、行くぞ!」 もう、キスはしてしまっているわけだから、躊躇する理由もない。 長身をかがめた清四郎の頬に手を寄せる。 悠理の両手にはさまれ、少しくすぐったそうに、清四郎は微笑んだ。 黒い瞳に、悠理のこわばった顔が映っている。 熱い目。 悠理の胸のドキドキが、両手に次第に移っていった。
今度は、間接キスでも、ふいをついての事故でもなく。
悠理がしたいから、キスをするのだ――――と、思った途端。 清四郎と向き合ったまま、悠理は金縛りにあったように動けなくなった。
そのとき。 はっきりと、人の気配を感じて、悠理はバッとふりかえった。
「・・・いやーん、剣菱先輩っ」
それは、小さな声だったが。 窓辺に駆け寄って、悠理は身を乗り出した。 「誰だ!」 窓の外に、人影はない――――と、思ったら、窓の下にいくつもの顔を発見し、悠理はのけぞった。 さっき見かけたバレー部の少女をはじめとする数人の中学生が、窓の下にしゃがみこんでいた。 悠理に見つけられ、きゃあと悲鳴をあげて、バタバタ走り去っていく。
「うそぉ・・・」 「やれやれ」
清四郎も、逃げて行く少女たちの背中に、ため息をつく。 「お、おまえ気づいてたな!」 悠理はキッと清四郎をにらみあげた。
清四郎は肩をすくめる。 「言ったでしょ。人の気配がするって」 「そ、それでよくあんなことを・・・噂になったら、どーすんだよ!」 「覗いていたのは、さっきの一瞬だけですよ。大丈夫です」 羞恥に顔をゆがめる悠理に、清四郎は平然と告げた。 「それに、僕はかまいません。おまえが可憐や魅録にあたえた誤解より、ずいぶんと穏便だと思いますしね」
で、続きします?と、ふざけたことを言い放つ清四郎に、悠理は渾身の蹴りを繰り出した。 もちろん、それはかわされた。
そして、胸のドキドキの理由は解明されることなく。
いつもの二人にもどってしまった。
そのまま、悠理の単純な頭は忘れ去る。 一時保留となった、キスの約束も、清四郎の熱い瞳も。
――――自分の中に芽生え始めた感情も。
その日から、中等部を発信源に聖プレジデント学園を席巻することになった噂は、学園一の人気者、剣菱悠理くんに関するものでした。 「剣菱先輩が、生徒会長に追いかけられていたのですが、あれは、悠理先輩が菊正宗先輩に無理やり迫り、押し倒したことが原因ですって!」 「悠理先輩が菊正宗先輩に『おまえと寝たい』と言い寄っておられるのを中等部の子達が聞いたそうですわよ」 「それどころか、キスを迫る現場を見たって聞きましたわよ!」 これらの噂は、有閑倶楽部のメンバー達の爆笑を誘ったが、当の悠理くんは、笑えず苦虫をかみつぶしたそうでございます。 清四郎くんも、後日、悠理くんを補習に出席させなかったことで、先生からお小言をたまわったとか。
おしまい
(2004.7.初稿 2006.5.20改稿)
えのみち様から素敵に元気なイラストvを頂戴したので、約二年ぶりに読み返して、ちょっぴり改稿いたしました。 ラブラブ清×悠を書きたかったのに、サイト開設当時はこんなキスシーンを書くのが精一杯だったのね〜〜。(遠い目)
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