こんこん、とドアをノックする音がする。 このビルのセキュリティなんだから、その来訪者の正体はわかっているのだが、 あえて「はい?」と応えてみる。 そして剣菱商事会長副会長室(もとの会長室)のドアが開いた。 会長は楽隠居を決め込むつもりでこの部屋を副会長の好きに使えるようにした。 もともと自分が出社しても応接ソファーに寝そべるだけで、デスクに座ることなど皆無に近かったのだ。 少なくともデスクは副会長が専有すればよい、と手をしっしっと振った。 だから今、この部屋にいるのは副会長一人だった。 次期会長となることが決まっている、会長の愛娘・悠理だ。 悠理はそのドアが開くのを待ち受けながら、顔が綻んで行くのを抑えることが出来なかった。自分でもこんなに素直になれるなんて少し前までは信じられなかった。 そうだ。もう我慢することはない。 「おかえり。」 ドアを開けて入ってきた人物は、しばしその笑顔に見とれて声も出なかった。 くらむ意識を叱咤して、こちらも湧きあがってくる笑みを抑えようともせずに応えた。 「ただいま。」 にっこり。 そんな二人の様子をちらりと垣間見た、副会長秘書の重桝みずえは今日も頬が赤らむのを自覚した。 「副会長がますます綺麗になりましたよね。」 彼女は顔見知りの剣菱おかかえ運転手とそんな風に語り合っていた。 通じ合った恋が、彼女が信奉する剣菱悠理のカリスマを一層輝かせた。 恋に溺れ仕事を放り出しダメになって行く男も女も掃いて捨てるほどいる。重役連中の中にはせっかくここまでになった剣菱の後継者がそうして堕ちるのを懸念する者もいたし、逆に期待する者もいた。 だが、今のところ頼もしいカリスマは健在である。 初めて彼女の秘書に抜擢されたときからその輝きに憧れ、虜になってしまったみずえである。 その姿に我がことのように嬉しくなる気持ちを抑えられなかった。 「副会長がね、『重桝ちゃんもきっと運命の相手が見つかるよ。』ですって。『も』ってことはやっぱり副会長にとって菊正宗さんは『運命の人』なんですよね。」 くすくす、とそう返事をしたときの悠理のうろたえぶりを思い出しながら言った。 「でも秘書さんのお仕事忙しいでしょう。よほど気合入れて頑張らなきゃ見つからないんじゃないですか?」 すでに妻も子もある優しげな運転手はそう言って笑った。 「ま、見つかるときには見つかりますよ。今は仕事が一番楽しいですから。」 にっこり微笑む秘書嬢に、運転手氏は彼女の幸福な未来を祈った。 「清四郎のあんな自信満々なオーラが出てるのって考えてみたら随分久しぶりだった気がするわ。」 可憐は受話器に向かって話していた。 先ほど「清四郎の奴が3日も納品期日を早めさせたのよ!」と開口一番、文句交じりの報告をしたのだ。 「そうだね。あいつったららしくなく『自分には悠理を口説く資格がない』なんて思い込んじゃってたからね。まったく、アホとしか言いようがないよ。」 電話の向こうで苦笑しているのは、8時間の時差のあるパリでランチタイムを過ごす美童だった。二人の想いが通じ合ったのはかの地で衛星中継で見届けた。 「そうよね。なんであんなふうに思い込んじゃったんだか。おかげで悠理が随分荒れちゃったりしたし。」 「あいつらの気持ちに気づいてなかったのなんかあいつら自身くらいだよね。あ、可憐もか。」 呆れたような声から一転して美童の声がからかうような口調になった。 「悪かったわね。みんないつから気づいてたのよ?」 恋愛の達人と言いながら、一番鈍感だったことを披露する形になってしまった可憐は憮然として訊ねた。 「僕は清四郎の留学時代くらいかなあ?野梨子と魅録はもっと早くに気づいてたと思うよ。何しろあいつらの一番近くにいた二人だからね。」 「あたしとしたことが仕事なんかでよく会ってたのに、悠理のコイバナまで聞いたのに気づかなかったのよ。最近恋愛してないせいかしら?」 「そうかもね。」 くすくすと美童は笑った。 「あー、それにしてもなんでこんなに結婚する気満々のあたしが最後まで残らなくちゃならないのよ。」 と、可憐は溜息混じりに言った。 野梨子はさっさと魅録と結婚してしまった。 悠理もこうなったからには清四郎との式の日取りを押さえるばかりだろう。 じゃあ、あたしは? 「可憐は仕事に生きてるもの。自分で気づいてない?」 美童が指摘する。 「なんとなく、自覚はある。」 「いいじゃないの。玉の輿に乗らなくても自分で作れる手腕があるなんて素敵なことだよ。あとは玉の輿に若い男の子を乗せてあげるも、自分が更なる玉の輿に乗るも可憐の自由なんだから。」 本当、いつもこいつは優しいんだから。と可憐はそれを聞きながら微笑んだ。 「あんたこそ、どうなのよ?」 いつまでもふらふらと各国の女性を渡り歩く美童。自由を楽しんでいるようでもあり、誰かを探して彷徨っているようでもあり、可憐に言えることは彼の足元が危なっかしく見えるということだった。 「なに?僕を口説く気?」 途端に甘くなる美童の声に苦笑せざるを得ない。ま、そう聞こえてもしょうがないか。 「バカ。そんなんじゃないわよ。」 甘さの欠片もない声で返した。 今はそんなんじゃない。でもいつか、そんな日があってもいいかもしれない。 根無し草のようにふらふらしている男を、現実に繋ぎとめる役目に立候補してもいいかもしれない。 そう思いながら明日の仕事のスケジュールを思い浮かべる可憐なのだった。 焦らない。まずは美味しいディナーだ。 昔ほどあからさまではなくなったが、やはり悠理の機嫌をとるのに食事は絶大なる効果を持っていた。 仕事で疲れている彼女に飯も食わせず挑みかかって臍を曲げられたのは1回や2回じゃなかった。 だから、今日は焦らない。 とはいえ、久しぶりに会った彼女に吸い寄せられるように触れずにいられない。 すでに仕事を片付けて、会長室で自分を待ってくれていた彼女は両手を広げて迎えてくれた。 ここが自分の『帰るべき場所』なのだと、清四郎はしみじみと幸福をかみ締めて彼女を抱擁した。 「・・・ただいま・・・」 「は?」 腕の中で急に彼女がこの状況で彼女のセリフではないセリフを呟いたものだから、思わず清四郎は聞き返してしまった。 「なんだよ。『ただいま』って言ってるんだぞ。返事は?」 憮然とした命令に清四郎はわけがわからないながら応える。 「・・・おかえり。」 やっぱりどうあがいても彼女のペースに乗せられてしまうらしい。 すると悠理は少し顔を上げてにんまり笑うと、「えへへー」と言いながらまた清四郎の胸に額を擦り付けた。 「この腕の中に、あたし帰ったんだなーって思って、さ。」 悠理も同じだったのだ。 清四郎にとって悠理が彼の『帰るべき場所』だったように、悠理にとっても清四郎が彼女の『帰るべき場所』だった。 この腕が、何より安心できる、安らげる居場所だった。 「なんかそのセリフってちょっと意味深なんですけど。」 ん?と悠理が再び顔を上げると、清四郎の眉間には見事に縦皺が寄っている。 「僕のいない間に一時の浮気相手でも見繕ってましたか?」 じっと彼女の目を見つめて嫉妬の炎をたぎらせる恋人に、悠理はぽかんと口を開けた。 そして少し考えるとこちらも眉を吊り上げて言った。 「そんな暇がどこにあったと思ってるんだ。それにお前、あたしを信用してないのか!?」 荒げた語気に、一触即発の空気が漂う。 抱擁の姿勢はそのままに、二人はしばらく睨みあっていた。 それも数秒ばかりだったろうか。二人は同時にぷ、と吹きだした。 そして清四郎は悠理の頭を再び抱え込むとその髪に顔を埋めた。 「悪い。また自分に自信がなくなってたみたいだ。」 お前は僕を信用してくれてるのに、ね。と苦笑する。 「お前がそんなんだから疑いようがないんだろうが。」 悠理はくすくすと清四郎の胸の中で笑った。 実を言えば、悠理にだって不安になるときはあった。 清四郎がいなかった間に、彼と想いが通じ合う前のことや、その間の彼の女性関係のことなどを考えて胸が締め付けられるような時もあった。 留学から帰ってきてからは見事に彼に女性関係はなかった。仕事がとにかく忙しかったから。可憐をパーティーに連れてきたのがセンセーショナルな噂になったくらいだった。 日本で彼に女の影がなかった一番の原因は、悠理と婚約し続けてると思われてたせいだと兄は笑っていた。 でも留学中はどうだったろう?イギリスでは?そしてそこから足を伸ばしたりしていた他の国々では? この出張でも清四郎を忘れられない昔の女が会いに来てたりしたら? でも、清四郎の顔を見たらそんなこと、忘れた。 今日の悠理の服装はフォーマルドレスだった。きちんとした店に連れて行くから、と帰国前の清四郎からの電話があったのだ。 上品な深い青のマーメイドライン。20代も後半の大人の女性になったんだから、と母に無理やり作らされたドレスだ。 「似合いますよ。」 清四郎が熱の篭った目を細めた。そのまま彼女を見ていたらその熱で彼女を溶かしてしまうのではないかと恐れるように。 「本当はこんなドレス着たくなかったけど、さ。これに合うったらこれかなって・・・」 と悠理は胸元のダイヤのチョーカーに触れた。 誕生日プレゼントとして初めて清四郎が贈ってくれた品。二人の想いが通じ合ったあのテロ事件の折、二人を繋ぐ絆として、彼の代わりに彼女を守った、その輝き。 壊れた金具と焦げたダイヤの修理はすぐに行われた。またもとの輝きを取り戻したチョーカーは、悠理の首を艶やかに飾っていた。 豪華でありながら下品になりすぎず、悠理のカリスマを映し出して無色透明な輝きを放つアクセサリー。 少し顔を赤らめた悠理に、清四郎はほんのりと微笑んだ。 「ええ。見事ですよ。」 ロッカールームで用意されていた黒いスーツに着替えた清四郎は、案内された席に悠理が座るまでエスコートし、自分も向かいの席に座ってワインを注文した。 「悠理、今日はあまり食べてませんね。」 清四郎はデザートのフランボワーズを口に運ぶ悠理に言う。 正式なディナーのコースというものは日本人の粗食になれた胃袋にはたいてい多すぎる。この店の上品なコースにしてもそれは同じだ。 だが悠理はいつもならさらになおかつメインディッシュをおかわりするほどの食欲の持ち主であるというのに、今夜はすべてそれを平らげたとはいえ一切追加はしていなかった。 化け物のようにどんなに食っても腹が出たりしない彼女のことだから、ドレスのラインが崩れるのを気にしてるわけでもあるまいに。 「んー、そうか?」 何気なさを装って応えるが、その目元が少し赤く染まってるのに気づかぬ清四郎ではない。 彼の視線と言わず、全神経は彼女に釘付けなのだ。 「僕は、悠理の顔を見てるだけでお腹一杯だったんですけれどね。」 にこやかにしれっとそれを告げる。彼はコースの料理を八分目までしか食べていない。もちろん仕事が忙しいとはいえ常人よりも鍛錬して消費カロリーの多い彼のことであるから、いつもなら彼女ほどではないが彼もこのくらいのコースはぺろりと平らげてしまう。 悠理はその彼のセリフに一瞬絶句して、そして応えた。 「あたしも・・・胸が一杯で・・・」 それでも残さず食べているあたり悠理らしい、と清四郎は口元を拳で押さえて小さく笑った。 「そういや、さ。成田についてからちょっと時間かかってたよな?部屋に寄ってたの?」 清四郎の部屋に上がったところで悠理のほうからその話題に触れてきた。清四郎はおやおやと眉を上げた。 ニューヨークを昼過ぎに経つ飛行機に乗る。13時間50分の旅を終えて翌日夕刻の成田に到着する。 定刻16時到着の便だったので悠理は空港まで出迎えに行くのは諦めて、仕事を先に済ませて会長室で待つことにした。午後からはずせない会議があったからだ。 そして清四郎が会長室に現れたのは20時。ややディナーに向かうにはゆっくりとした時間であった。 税関で時間がかかっていたとして成田を出るのが17時半。どんなに道が混んでいたとしても剣菱の運転手のやることだ、19時すぎには都心に着けていたはずである(さすがに愛車のガラムは彼のマンションの駐車場だ)。 「いいえ。ちょっと部屋ではないところに寄り道をしてたんです。遅くなって悪かったですね。」 20時というのは成田からメールで清四郎が知らせてきた待ち合わせ時間だった。 悠理は首をかしげながらも、スーツケースを部屋に置きに行くんだろう、と考えていた。でも彼のスーツケースはまだ見当たる場所にはない。 「寄り道?」 「ええ。ちょっとジュエリーAKIに。」 「可憐とこに?」 ますます持って悠理はわけがわからず首をかしげた。スーツケースは宅配にでもしたんだろう。それはいいのだ。 チョーカーは彼が渡米する前に修理が済んで戻ってきていた。だから彼もそれは知っているはず。 今までの行動パターンだったら何か重大事でもなければ彼はまっすぐに悠理のところに帰ってきていたはずだが。 そんな悠理に清四郎は微笑を崩さず、少し頬を上気させた。参ったな。もう少し平静な顔で告げたかったのに、情けない。 己の自律神経の律せなさに少しばかりの失望を覚えながら彼は懐からビロードのケースを取り出した。 ことん、と二人で向かい合って座るテーブルに置いた。 「月並みですけど───『給料3か月分』って奴です。」 悠理はそのいまだ蓋の閉じたままのケースに目が縫いとめられてしまった。 微動だにできない。 「・・・これ?」 清四郎はそれを手に取ると蓋を開けた。出てきたのは、首元を飾るものと同じ、永遠の輝き。 プラチナの台座に君臨する、ラウンド・ブリリアントカットの宝石。カラーEのクラリティIFだった品。 残念ながら過去形になってしまうのは、この石にかすかな焦げのあとがついていたから。 「お前を守ってくれた石を、再加工してもらったんです。」 チョーカーの修理の際に取替えられた焦げた石。悠理自身も、その石を手元に持っていたいと可憐に申し入れてはいた。「そうね。少しカラット(重量)が下がるけど、うまく加工してみるわ。」と彼女は言っていた。 なかなか完成の知らせが来ないから変だとは思った。 「だってお前、こないだチョーカーもらったばっかり・・・合わせたら給料3ヶ月どころじゃないだろ?!」 悠理は口をぽかんと開けて清四郎をまじまじと見る。 「・・・論点はそこですか?」 清四郎はたまらず吹き出しそうになる。 「心配しなくても、両方あわせて僕の全収入の3か月分ですよ。」 と、清四郎はケースからそれを取り出しながら言った。 悠理はぼんやりとそれを見ながら、ああ、そうかと思う。清四郎は高校生時代から株だ投資だと手を出していた。剣菱からの給料以外にもかなりの収入があるのだった。 そして、彼女はその自分の考えがとんでもなく今の状況にそぐわないテーマだったことに気づく。 「・・・ここ?」 その輝きが落ち着いた先を今度は見つめた。 左手の薬指。 給料3か月分の意味がわからない彼女でも、その指の意味は知っている。 「ええ。一番心臓に近いと言われてる、ここですよ。」 清四郎はその石の冷たい輝きに唇を寄せ、そして彼女の手をひっくりかえして掌にも唇を寄せた。 「悠理。また誓わせてください。お前と一緒に未来を見つけることを、僕に誓わせてください。」 熱っぽい瞳だった。 まるで初恋に溺れる少年のように。それでいて不思議に大人の落ち着きも湛えていて。 その黒い瞳に悠理は釘付けになる。 目が回るかと思った。 また体が浮き上がるかと思った。 ふわふわする。 この感覚はあの空に近い場所での浮揚感に似ている。 「初めて会ったときから、お前は僕の人生を動かしてくれた。」 あの日。桜咲くあの遠い日。他の女の子を守るように誇らしげに微笑んでいる彼が気に障った。 だから難癖をつけて蹴り倒した。 「ずっとお前に憧れていた。お前の輝きに。」 彼女もずっと彼を見ていた。 自分と正反対の彼。なぜか目が引き寄せられてやまなかった。 「僕の人生は、すべてお前の傍にいるためにあった。」 逃げるように留学した。覚悟を決めて帰国した。 輝きを増す彼女を見つめていた。 「お前は僕のすべてだった。」 手に入らぬ彼女を誇らしく思っていた。 だけど、他の男に抱かれる彼女の姿を思い浮かべると、どうしようもなくどす黒い感情が湧きあがった。 そして彼女も、彼が必要だと言った。彼を愛していると。 だから。 「もう永遠に離さない。覚悟してください。」 悠理はその瞳をずっと見つめていた。 そらすことなどできようはずもなかった。 圧倒的なその彼からの告白を、一身に受け止めた。 そして、笑んだ。 「バカ。放さなくていい、離れないって、あたしちゃんと言ったよな?」 その微笑みは、何よりも無垢であり。 何よりも純粋なものだった。 彼が贈ったダイヤモンドよりも透明であり。 そして輝いていた。 ダイヤモンドだけを身に纏った彼女と、永遠を誓い合う夜。 すべてを、与え合う。
”愛しきひとよ 抱きしめていて いつものように やさしい時の中で” |