2.窓の外は、いつのまにか暗くなっていた。もう日が暮れている。 カーテンを閉めながら、少年はため息をついた。 「とりあえず、今夜の宿から困りますよね」 清四郎の言葉をうけて、悠理はポケットから現金の代わりに持ち歩いているカードを出した。 「これで、ホテルでも泊まるよ」 剣菱ゴールドVIPカード。悠理のそれには、名字は入っていない。 ”YUURI”とだけ入ったそれは、家族だけの特別カードだ。 少年はカードを確認し、難しい顔をして言った。 「・・・これ、使えませんよ」 いっ、と悠理は顔色を変えた。 「これ身分証明書をかねたカードじゃないですか?本物の”剣菱悠理”以外が持ってたら、 即、通報されちゃいますよ」 「あたいだって、本物だ!」 憤慨して叫んだものの、少年の言いたいことは悠理にもわかった。 この世界での”剣菱悠理”は、他にいるのだ。 悠理は、自分の体を抱きしめた。ものすごく、心細くなってきた。 お金がないというのは、やはり相当に不安になる。 「・・・しかたないや・・・とりあえず、今日はここに泊めてよ」 もともと、勉強合宿予定だったのだから、悠理は菊正宗家に泊まるつもりだった。 「えっ」 しかし、少年のびっくり顔に、ハタと気づく。 「あ、そうか。あたいが泊まっちゃ、マズイ?」 この少年は、まだ友人になる前の清四郎だ。 見ず知らず、というわけではないものの、いきなり高校生の女子が泊まると言えば、家人も不審に思うだろう。 ここに、泊めてもらうわけにはいかない。 清四郎の母親のおいしい手料理を思って、悠理は落胆した。 「うーん・・・さっきのお手伝いさんはもう帰った頃だし・・・大丈夫かな」 しかし、少年は悠理を眺めてそう言った。 「サイズは僕の服でちょうど良さそうですね。その制服さえ着替えれば、大丈夫ですよ」 いかにも清四郎らしい表情で、少年はにっこり微笑んだ。 清四郎は悠理のことを、道場仲間として家族に紹介した。 「うっす」 悠理も、それらしく挨拶したりなんかして。 父親は本日不在。おっとりした清四郎の母親も、今の悠理と同じ年頃の和子姉さんも、 悠理を清四郎の友人の”男の子”として疑っていないようだ。 本当に腹ぺこだったので、あきれられるほどガツガツと夕食をいただいて、 ごちそうさまと告げ、さっさと清四郎の部屋に引き払った。 「だ〜れも、気づかないでやんの」 悠理もお年頃。さすがに、心境は微妙。 男装といっても、清四郎のシャツと膝丈のイージーパンツを借りているだけだ。 「あなたはそうしてると、完璧に男の子に見えますよ。さすがだな、剣菱さん」 清四郎の賛辞も、なんだか微妙。 「その、”アナタ”ってのも、”剣菱サン”も、気持ち悪いんだけど」 背中がもぞもぞするのは、そのせいだろう。 知っているようで知らない清四郎の顔。いつもの友人よりも、素直な物言いが落ち着かない。 「じゃ、”悠理サン”」 「うっわー、さぶイボ!」 「・・・”悠理”」 ちょっと、低めの声。 やっと悠理は落ち着きを取り戻した。 目の前にいるのは、背も低いし幼い顔だが、”清四郎”なんだと、安堵する。 「うん、それでいいや」 ニパと笑うと、清四郎はわずかに頬を染めた。 悠理は勝手知ったるクローゼットをガラリと開けた。 「あ、そうか。あたいの寝間着ないんだ」 いつも悠理がお泊りセットを詰め込んでいる棚には、古い雑誌やアルバムが詰まっている。 「寝間着?」 「うん。いつも、ここにボストンバッグに入れて置いてんだよ。おまえの寝間着だと、大きすぎてさぁ」 首を傾げる清四郎が、悠理は少しこそばゆい。 二人でいると、自分が異邦人というより、清四郎が記憶喪失にでもなったかのような気がしてくる。 「へぇ・・・」 清四郎は悠理の顔をまじまじ見た。 「別にサイズは問題なさそうですけど」 「おまえ、これからニョキニョキ伸びんだよ」 悠理は自分の頭の上に手を伸ばした。 「こんくらい」 「ふぅぅん」 清四郎は、半信半疑の顔だ。 「・・・なんだか」 清四郎は腕を組んで、悠理を見つめた。その目は不審げに細められている。 「なに?」 「あなた・・・じゃなくて、”悠理”は、僕の知ってる”剣菱さん”とだいぶ雰囲気が違うな」 「へ?」 「だって、”剣菱さん”って、男の僕から見ても、凛々しいって言うか・・・もっとこう、近寄りがたい 雰囲気があるから。尖がってるって言ってもいいけど」 悠理は、5年前の自分を思い出そうと天井を仰ぐ。 5年前――――中二。その頃だったか。魅録と知り合ったのは。清四郎や野梨子、可憐、美童と、 友人になるのは、もっとあと。 「見た目は確かに、あの”剣菱さん”より成長してるけど、中身はずっとガキっぽいっていうか・・・」 清四郎が皆まで言う前に、悠理は足を振り上げた。 「バカっぽいって、言いたいんだろ!」 悠理の蹴りは、あわてて避けた清四郎には当たらなかった。 そうだ――――あの頃、悠理には友人らしい友人はいなかった。 学園内でも浮いた存在だった。悠理があの頃から変わったとすれば、仲間たちのせいだろう。 いつでも、一緒に笑い泣き、大騒ぎした仲間たちの。 考えてみれば、こんな異常な事態でも悠理が平常心なのは、彼らと乗り越えてきた様々な冒険のおかげだろう。 悠理の不安はさして深刻ではない。 なんとかなるだろうと、楽観している。 中学生とはいえ、目の前に清四郎がいるのだから。 ”清四郎がなんとかしてくれる” それは経験に刷り込まれた、安心感。 「だれが、ガキっぽい、だよ。おまえ、やっぱ生意気だな。中坊のくせによ!」 清四郎を”生意気”呼ばわりできるのは、そういえば今だけかも。 悠理は今の状態を楽しむ余裕さえ出てきた。 鞄から、教科書とノートを取り出す。 「ほら、ちゃんと高三だろ?」 ここ数日きちんと試験勉強をしていた(やらされていた)ので、ノートもちゃんと埋まっている。 中学生は眉を下げて、数Vの教科書をペラペラめくった。 「・・・さすがに、わからないな」 悠理はニンマリ笑う。 「そうだろ〜。なんだったら、オネーサンが教えてやろっかぁ?」 もちろん、勉強する気はさらさらなかったものの、一度くらい清四郎に向かってそう言ってみたかった。 教科書を繰っていた清四郎の手が止まる。 「これって、僕の字じゃないですか?」 指し示されたページには、清四郎が青いペンで解き方の解説を書きいれていた。 「ま、まぁな」 「ふぅん・・・なるほど」 床に教科書とノートを広げ、清四郎は自分のシャーペンを取り出した。 ノートに計算式を書き始める。 「なに、してんだよ」 「いや、この解説があれば、解けそうだな、と」 悠理はあきれて目が点になる。 「おまえ、マジ勉強好きなわけ〜?」 「別に好きなわけじゃないですよ。でも、解けない問題があるのは悔しいじゃないか」 悠理の知っている顔より、ムキになった子供っぽい表情。 悠理は思わず、笑ってしまった。 意地悪心が刺激され、教科書に手を伸ばし、さっと取り上げる。 「やめとけ、中坊のくせに」 「あ、せめて、この解きかけの問題だけでも」 清四郎は悠理の手の中の教科書を追った。 しかし、悠理は伸ばされた手を、易々かわす。 「?!」 そのとき、双方ある事実に気がついた。 清四郎の顔が、真剣なものに変わる。 悠理は、胸の高鳴りを感じた。 すばやく繰り出された手を、悠理はひらりとかわす。 気合と共に反転した体を避け、上体をそらした。 清四郎の拳も、蹴りも、悠理にかすりもしない。 すでにこの頃、武道の才能を認められていた天才少年にしても、悠理の動きをとらえることは不可能だ。 19歳の清四郎でも、悠理をつかまえることはできないのだ。 高いプライドが傷ついたのだろう。愕然とした表情の清四郎に、悠理は笑みを隠せなかった。 「へへへへ♪上には上がいるってことよ!」 「その身のこなし・・・どこで?」 「どこって、東村寺のじっちゃんに決まってるだろ」 「やっぱり!でも、どうして”剣菱さん”が、雲海和尚に」 「そりゃ、おまえとの婚約騒動の・・・」 調子に乗ってペラペラしゃべっていた悠理は、さすがに我にかえって口を押さえた。 タイムパラドックスとか、そういうことを意識したわけではなかった。 とにかく目の前の中学生に、ふたりが婚約していたことを知らせるわけにはいかないと思った。 理由は――――ただ、恥ずかしかったから。 「こ、コンニャク競争!」 「は?」 悠理は真っ赤な顔で、まくしたてた。 「あたいとおまえとで、コンニャクの大食い競争をしたんだ! そんとき、おまえに勝つために、じっちゃんが協力してくれてな!」 「コンニャクの大食い競争に、ですか?」 思いっきり不信そうな顔。 さすがに悠理も苦しい言い訳とは思った。 「な、なにごとも、基本は体力作りだろ。ニワトリ追いかけ回して修行したんだ」 「ああ・・・あの鶏ね。僕もさせられましたよ」 「だろ?」 「で、どっちが勝ったんです?」 「え?」 「大食い競争」 悠理はちょっと考えてから答えた。 「ええと、もちろん、あたいだ!」 大食い競争ならば、本当に清四郎に勝つ自信があった。 「そうでしょうね。だって、僕はコンニャクなんて見るのも嫌いで、食べられませんから」 「ええっ」 げ、と顔色を変えた悠理に、清四郎は飛びかかった。 「スキあり!」 「わぁっ」 教科書をつかんだまま、悠理は倒れた。 受身を取れなかったが、背後がベッドだったので助かった。 「…おまえ、コンニャク嫌いだったっけ?」 ベッドの上に押し倒されたまま、悠理はポカンと問いかけた。 蛇や幽霊など、悠理の苦手なものは清四郎に知られているが、考えてみれば、清四郎の苦手なものなど知らない。 完全無欠に見える清四郎が、コンニャクごときを見るのも嫌だとは、それはそれで貴重な情報かも、だ。 「嘘ですよ」 しかし、少年はニヤリと笑って否定した。 悠理はむぅぅ、と頬をふくらませた。 清四郎は悠理の上に覆いかぶさったまま、クスクス笑っている。 「やっぱり、清四郎は清四郎だよなっ」 悠理は唇を尖らせ、手に持つ教科書を清四郎の胸に押しつけた。 しかし、清四郎は教科書ではなく、悠理の手首をつかむ。 「悠理は、ものすごく…」 頭上から見下ろしてくる清四郎の顔は、少し戸惑っているようだ。 「なんだよ?」 清四郎の顔が近づいてくる。 え、と思う間もなく、チュ、と口づけられていた。 「ものすごく、可愛い」 そう言って、清四郎ははにかんだ笑みを見せた。 その言葉か、突然のキスのせいか。 悠理の頭は真っ白になった。 |