5.翌朝。 悠理が目覚めたのは、パシャッという機械的な音が聞こえたためだった。 「ん…?」 のろのろと目を開ける。 自分の部屋とは違う、でも見覚えのある天井。 朝日の差す、シックな色合いの室内。 ああ、清四郎の部屋だ――――そうわかった途端、昨夜の記憶がよみがえった。 ガバリと身を起こすと、またパシャッと音がした。 音のほうへ頭をめぐらすと、清四郎がカメラを構えてベッドの横に立っていた。 「おはよう」 一眼レフを顔から下げた清四郎は、やはり、中学生のまま。 なぜか自分が過去に迷い込み、中学生の清四郎と○×▲な一夜を過ごしてしまったのは夢ではなかったのだと、 悠理はその顔に思い知らされた。 「お、おまえ何してんだよっ」 パジャマのズボンこそ着ていたが、清四郎は上半身裸。そして、悠理にカメラを向けている。 慌てて悠理は布団を肩まで引き上げた。 「大丈夫だよ、パジャマの上はちゃんと着てるから。覚えてないのかい? 僕のパジャマぶんどって上だけ着込んで、寝ちゃったじゃないか」 自分の胸元を見ると、たしかに清四郎のズボンと揃いのパジャマをちゃんと着ている。 布団の中を探れば、下は素肌。 「うひゃぁ…」 悠理は顔を真っ赤に染めた。 また、シャッター音。 「な、なんで写真なんか撮ってんだぁっ」 「証拠写真です」 悠理は清四郎に枕を投げつけた。 ほんとは飛び蹴りしてやりたいが、ベッドから出られない。 下肢には力が入らず、その上、下着なし。 「へ、変態ぃっ!」 罵倒すると、清四郎はむっと口を尖らせた。 「失礼な。証拠写真は冗談です。あんまり悠理が…可愛い顔で寝てるから」 「〜〜〜!」 清四郎は、勉強机の上にカメラを置いた。角度を確かめ、タイマーをセットしている。 「でも、やっぱり証拠写真も欲しいから、一緒に撮りましょう」 清四郎はイスに掛けてあった白いシャツをはおりながら、ベッドに腰掛けた。 「はい、笑って」 ぎゅ、と肩を引き寄せられる。 「おまえ、なー」 もちろん悠理はふくれっつらだ。 そのままシャッター音が鳴った。 「3枚連続ですよ。次はイイ顔してよ」 清四郎は口元を引き上げ、悠理にささやく。 「でないと、キスシーンにしちゃうぞ」 「ひえぇっ」 悠理はカメラに向き直り、ひきつった笑みを浮かべた。 二度目のシャッター音の寸前、しかし、頬に唇の感触がした。 「ああっ、嘘つき!」 悠理の頬にくちづけた後、清四郎は爆笑している。 「こんのぉ!」 両手を振りあげた悠理が殴ろうとすると、その頭を抱え込まれた。 同時に、三度目のシャッター音。 笑いながら悠理を抱きしめる清四郎が、フィルムに収まった。 そのあと、したたかに殴りつけても、少年の笑みは消えなかった。 まだ時間は早かったが、清四郎は制服に着替えた。 悠理は自分の制服を紙袋に詰め込む。 格好は、昨夜と同様のシャツと清四郎のズボン。 昨夜の”男の子”が、女子の制服で出るわけにはいかない。 「落ち着かないでしょう。下着も貸すよ?」 ニヤリと笑った清四郎に、悠理は頬を赤らめた。 腐ってもお嬢様、昨夜のパンツは履きたくないという悠理に、清四郎はトランクスを差し出したが、 悠理はノーパンを選んだ。 コンビニまでの辛抱だ。下着代くらいは、持っている。 清四郎が登校しなければならない以上、悠理もこの部屋に篭っているわけにはいかない。 学校で制服に着替えるつもりだった。 「どうやったら、元にもどれるのかなぁ」 鞄に自分の教科書を詰め込みながら、悠理はため息をついた。 清四郎は眉を寄せる。 「・・・元の世界に帰りたい?」 「あたりまえだろ。あたいは、ここじゃ家にも帰れないんだぜ」 座って鞄の用意をしている悠理の背を、ぬくもりが覆った。 「僕は、帰って欲しくない」 清四郎は、悠理の背をきつく抱きしめる。 「そんな・・・無理だよ」 言いながら、背中から伝わる真っ直ぐな想いに、ぐらぐら気持ちが揺れた。 「どうやって来たかわかんないから、どうやって帰ればいいのかわかんないけど」 悠理の背中から、ぬくもりが離れる。 「…行きましょうか」 少し悲しげに睫毛を伏せ、清四郎は悠理の鞄を持ち上げた。 鞄は、教科書参考書で、極限までふくれている。 その鞄の重さに、中学生は顔をしかめた。 悠理はその鞄のふくらみに、それを用意させた口うるさい友人のクールな顔を思い出していた。 「あのさ、悠理」 ふたりは、早朝の門をそっと開けた。 「やっぱり、剣菱の家に行ってみたら?」 「家に?あそこには、中坊のあたいがいるじゃないか」 「うん、でも悠理、働いたことないんだろ?20歳って嘘をついても、身元保証がなければ、まともなとこでは 仕事も就けないと思うし」 「働くぅ?」 今の悠理は、衣食住を確保することもできない異邦人なのだと、あらためて驚いた。 「こんなに娘そのものの悠理を、剣菱家で粗末にあつかうことはないと思うよ。 そりゃ、あれだけの大富豪だから、隠し子騒動や乗っ取りを疑われるだろうけど、指紋だってDNA鑑定だって、 悠理が悠理であることを証明できるし。正直にぶつかってみればいいと思う」 「う〜ん・・・」 悠理もあの両親に打ち明け、すがることをシュミレーションしてみた。 「父ちゃん母ちゃんは、大丈夫そうだな・・・」 娘に見せる甘い顔ばかりでなく、対外的にはシビアで冷徹な側面が両親にあることも承知だが、なにしろ、 柔軟性と決断力と本能的勘は、人類髄一。兄や五代や、悠理本人は、泡を吹くだろうが。 「対外的には剣菱さんの姉ってことで、剣菱家が考えてくれるんじゃないかな」 「うん。パニックにはなるだろうけど」 両親の驚く顔を想像し、思わず、くふ、と笑ってしまった。 そんな悠理を、清四郎は愛おしげに見つめた。 「それで、あと5年・・・いや、4年待っててくれる?」 「へ?」 「僕、急いで大人になるから」 悠理はポカンと清四郎の顔を見つめた。 4,5年後――――この少年は、悠理の知る、あの清四郎になる。 「悠理と一緒に居られるような、男になるから」 熱い想いを語る、懸命な瞳。 あの、19歳の清四郎に、恋を語られているような、一瞬の錯覚。 目の前がチカチカした。 清四郎は、唇を噛んだ。上目遣いで、悠理を見つめる。 「僕は・・・まだ、14歳だ」 「知ってるよ」 「悔しい」 「うん・・・」 無力さが、もどかしい。 清四郎のふるえる声が、そう言っている。 もしも、ここにいる清四郎が中学生の無力な子供ではなかったら―――― そう考えた瞬間、悠理の思考はストップした。 19歳の清四郎が、こんなふうに悠理を愛してくれるなんて、考えられない。 戸惑い、清四郎の目を見返した。 ぶつかる素直な瞳。 悠理と同じ高さにある、幼い顔。 胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。 玄関の前の公道で。少年は、悠理を抱きしめた。 悠理も抗わなかった。 ふたりは頬を寄せ、しばらく、そのまま佇んでいた。 ”好きだ”とささやく口元。やわらかな頬。 だけど、抱きしめる腕は力強くて。 この年齢だけが醸し出す、アンバランスさ。 瑞々しい稀少な、宝物のような少年は、気まぐれな時空のゆがみが悠理にくれた、一時の夢。 初めて、悠理から清四郎にくちづけていた。 「ん・・・」 応えて、清四郎の腕に力がこもる。 まるで、すがりつくように抱きしめられ、悠理は少し泣きそうになった。 少年も胸のうちで、泣いているような気がした。 手をつないで、無言で歩き出した。 悠理も何度も歩いた、菊正宗家から学校への道。たいていは、隣家の野梨子も一緒だったが。 「あれ、こっちじゃないの?」 だけど、清四郎は一本早く道を曲がろうとした。 「いつも、あっちからだろ」 悠理は道を指差す。 清四郎は首をふって、悠理の手を強く引いた。 「なあ、昨日もあっちからあたい来たぞ?」 「……」 清四郎はグイグイ悠理を引いて歩く。 「こっちからじゃ、病院迂回しなきゃなんないじゃん。だいぶ遠回りだよ」 悠理はわけがわからず、首を傾げる。 清四郎は顔をしかめて、前方をにらみつけ足を速めた。 「おいってば!」 なにも言わない少年に焦れ、悠理は手をふり払って立ち止まった。 「なんなんだよ、恐い顔して。こっちからじゃ、コンビニとかないじゃんか」 清四郎は振りかえって、眉を寄せる。 「下着なら、病院の売店にありますよ」 「こんな時間に開いてるわけないだろ」 悠理は頬を染めた。 「は、早くパンツはきたいんだよっ、ズボンが擦れて痛いんだ!」 妙齢の娘としてはかなりあられもないことを叫んだ悠理に、清四郎は硬直した。 「〜〜〜」 清四郎はドサリと重い鞄を下ろす。そして、そのままその場にしゃがみ込んだ。 「ど、どうしたんだよ」 額に手をやって俯いている清四郎の顔を、悠理はのぞきこむ。 少年はわずかに顔を赤らめ、眉を寄せていた。 「…ごめん、悠理。僕は、昨日と同じ道を悠理に通らせたくなかったんだ」 「な、なんで?」 「悠理を帰したくなかったから。元の世界に」 清四郎は顔を上げた。 頬は染まっていたが、瞳は苦しげに揺れていた。 「僕だって、どうやって悠理がここに現れたのかわからないし、どうやったら帰れるかなんてわからない。 だけど、来た時とまったく同じ状況なら、戻れるかもしれない」 夕刻の帰り道。道の角で、ぶつかった二人。 「少しでも、同じ状況になるのを、避けたかったんだ…ごめん。悠理は帰りたがってるのに」 悠理は唖然としたが、清四郎の気持ちも痛いほどわかった。 「…いいよ。どうせ、同じ状況じゃないし」 悠理は自分の重い鞄を持ち上げた。 その重さに、元の世界の清四郎を思った。 この世界では、悠理は異邦人だ。だから、帰りたい。それが、当然だ。 この世界にも、悠理の大事な人たちは皆、存在するけれど。 だけど、それは悠理とこの5年間の思い出を共有していない人々だ。 悠理は自分の5年間を、愛していた。 立ち上がった清四郎は、じっと悠理を見つめている。 戻っても、あの清四郎は、こんな気持ちで悠理を見つめてはくれないけれど。 だけど、5年間をともに過ごしたあの意地悪な男にも、会いたいと思った。 「あたいこそ、ごめん…な」 思わず、悠理は少年につぶやいていた。 少年は悠理の言葉に、一度目を見開き――――そして、苦笑した。 その苦い笑みは、年齢よりも、彼を大人びて見せた。 「さ、行きましょうか。とにかく、学校に着いてから善後策を考えよう。夕方まではまだ時間があるし」 ニッコリ微笑んだ清四郎は、見慣れた落ち着いた表情。 その顔に、悠理は安堵した。 「う、うん」 「コンビニは、駅のほうにあったと思いますよ」 「助かったぁ」 ホッとした悠理の顔に、清四郎は目を細めた。 悠理の男の子のような服装をジロジロ見る。 「そうしてると、少年みたいなのに…」 「なっなんだよ!」 「いや、意外に」 口元に手をあててクスクス笑いだした清四郎の、その目つきに、悠理は赤面した。 「な、なに思い出してる、スケベ!」 「擦れて痛いなんて、すみませんねぇ」 「〜〜〜っ!」 悠理は脳味噌が沸騰、噴火する。 羞恥と怒りにかられ、不埒な少年に向けて、鞄を振りあげた。 「バッカやろー!」 「うわぁ、その鞄は、凶器…」 「くらえっ!」 ブン、と鞄を振り回した瞬間。 目の前に、星が散った。 まるで、脳天を隕石直撃されたかのような衝撃。 悠理自身には、なにもぶつかっていないはずなのに。 それは、たしかに、憶えのある感覚だった。 前日の、あの夕方の街角で。 |