6.真っ白になっていた意識は、急激に覚醒した。 一度開けた目を、もう一度閉じる。 眩しすぎる直射日光。 「悠理、大丈夫ですか」 その声に、悠理は体を起こした。 目を開ければ、真正面に大きな夕陽と、逆光になった人影。 「清四郎?」 声で、誰かはすぐにわかった。 だけど、悠理はまだ混乱していた。なんで、夕陽? さっきまで、早朝のやわらかい日差しだったはず。 「なぁ、清四郎…なんで夕方?」 よろりと起き上がると、清四郎が悠理の背中の汚れを払ってくれた。 「そんなに勢いよくぶつかってませんよ。なにボケてんです」 そのクールな口調に、悠理は清四郎を見上げた。 そう、同じ位置にあったはずの顔は、今は見上げなければならない。 がっしりと広い肩幅、整えられた、オールバック。 そしてなにより、甘さのない視線。 「せ、清四郎・・・!」 19歳の清四郎が、悠然と悠理を見下ろしていた。 戻ってきたのだ、悠理の居るべき時間に―――― そう頭は理解しても、心が衝撃について行けなかった。 悠理は愕然と、立ちすくむ。 「どうしたんですか、悠理」 清四郎は悠理の鞄を拾い上げた。軽々と持ち上げる。 「僕はコンビニに行くところだったんですが、悠理は先に家に行ってますか」 「こ、コンビニっ?」 悠理はギクンと飛び上がった。 「ぱ、パンツっ?」 思わず言ってしまってから、自分の口を押さえた。 「は?なに言ってんです。家にある茶菓子だと人並みはずれたおまえの消費量には足りないから、 買出しに行くんですよ。付き合いますか」 清四郎は肩をすくめて、歩き出した。 悠理は呆然と立ちすくんだまま、動けない。 口を押さえたまま、広い背中を見つめた。 ここにいるのは、あの辛辣で意地悪な悪友。 頭がくらくらした。悠理はまだ混乱している。 清四郎は、清四郎で。 悠理に恋した、悠理の恋した、あの14歳の少年と、同じ人間のはずで。 真っ直ぐ悠理の胸を貫いたあの少年が、消えてしまったことを理解できない。 「悠理?」 立ち止まったまま動かない悠理を、清四郎は振り返った。 怪訝そうに片眉をあげた表情は、見慣れたいつもの清四郎。 しかし、悠理はショックで青ざめた。 黒い瞳は同じなのに、そこにあの情熱的な色が見えなかったから。 ”夢かもしれない” そう言った悠理を抱きしめた、強い腕。 ”僕は、帰って欲しくない” 哀しげに伏せられた長い睫毛を、思い出す。 悠理はやっと、あのとき彼が感じた気持ちを実感することができた。 そんなもの、感じたくなかったのに。 「ひどい顔色ですよ」 清四郎が怪訝そうに顔をしかめた。 大きな手を、悠理の額にあてる。 「・・・・・・!」 少し乾いた手のあたたかな感触に、悠理の体が傾いだ。 胸がひきつれるように痛む。 声も、手も、同じなのに――――心だけが、違うから。 それなのに、悠理の胸をふさいだのは、喪失感だけではなかった。 「熱でもあるのか?」 清四郎の触れた額が、燃えるように熱い。 すぐに手は離れていったけれど、悠理はそのなんの深意もない手に、全身が粟立った。 悠理は真っ赤に顔を染めていた。 気づいてしまったから。 ”好きだ”と告げられたから、好きになったわけじゃない。 14歳の彼も、悠理にとっては、”清四郎”だった。 清四郎だから、悠理は恋に落ちたのだ。 悠理の手から、いつのまにか紙袋が落ちていた。 制服の入ったそれを、清四郎は拾い上げる。 「着替えてきたのに、下着を忘れたんですか?」 パンツ、と口走った悠理の真っ赤に染まった顔を、清四郎はにらむ。 顎に手を当てて目を眇めている清四郎の顔を見てられなくて、悠理は下を向いた。 涙が零れそうだった。 どうしようもなく、清四郎が好きなのだと、やっと気づいたのに。 悠理が恋した清四郎は、確かに目の前にいるのに。 悠理を好きだと言った、あの少年だけが、もういない。 「・・・ぅひぃぃっく・・・」 悠理はしゃくりあげた。 清四郎の訝しげな視線を、痛いほど感じる。 「打ち所でも、悪かったのか?」 少し心配そうな、友人の声。 苦しくて、悠理は顔を上げることができなかった。 清四郎の顔を見ることができない。 そこに、あの情熱の欠片を探してしまうから。 伏せた視線の先で、清四郎がポケットを探り、なにか取り出すのが見えた。 「ほら、悠理」 差し出された白いハンカチ。 突然泣き出した悠理を、清四郎はさぞ不審に思っているだろう。 肩をすくめる様が、見なくてもわかる。 だけど、悠理をいつも子ども扱いする男にとっては、いまさらかも知れない。 「・・・あんがと」 悠理はハンカチを受け取り、思いっきり鼻をかんだ。 涙をぬぐったとき、あるはずのない位置で清四郎と目が合い、悠理は息をのんだ。 清四郎は身をかがめ、悠理の顔をのぞきこんでいた。 困惑した目。寄せられた眉。 「ほら、これも」 ぶっきらぼうな口調で、清四郎はティッシュを差し出した。 やはり、ハンカチで鼻をかんだのはまずかったらしい。 悠理はふたたび赤面しながら、白い紙を受け取った。 「・・・え?」 だけど、それはちり紙ではなかった。 一葉の写真。 その写真には、頬を染めた悠理自身が、びっくり顔で見返していた。 悠理は口をあんぐり開ける。 写真と同じ顔になっているに違いない。 「悠理、見覚えは?」 清四郎は真剣な表情で悠理を見つめている。 悠理は首をふるふる振った。 見覚えは、ない。ないけれど――――。 清四郎は黒皮の財布から、もう一枚写真を取り出す。 「これは?」 その写真には、わずかに覚えがあった。 「あ、ある・・・」 清四郎は落胆もあらわに、ため息をついた。 「で、しょうね」 それは、悠理が布団に懐いている寝顔の写真だった。 『なんだよ、こんなのいつ撮ったんだ?寝てるとこ撮るなんて、趣味悪ぃよなー。 ま、もらっとくよ!サンキュ』 そう言った自分の言葉を、かすかに思い出す。 清四郎は写真をしまうと、地面に置いていた悠理の鞄を手にとった。 「とにかく、家にいったん行きましょう」 背を向けた清四郎の肩は、わずかに下がっている。 「ちょ、ちょっと、待ったぁ!」 悠理は思わず、清四郎のシャツをつかんでいた。 背中を引っ張られ、清四郎はよろめく。 「なにするんですか」 不機嫌そうな声で、清四郎は振り向く。 逆光のせいばかりでなく、表情は暗い。 「そ、その写真!」 「悠理にもあげたでしょう。一年ほど前に」 「う、うん、そうかもしれないけど」 清四郎はプイと顔をそらした。 「だったら、いいじゃないですか。僕がおまえの写真を持ってたら、気分が悪いとでも?」 その拗ねたような口調は、らしくなく子供っぽい。 「そ、そうじゃなくて、そうじゃなくて」 悠理は清四郎のシャツをふるえながら握りしめた。 幻のように消えてしまったと思った、あの少年が、胸の中に蘇る。 「他にも、まだ持ってるはずだろ?」 「え?」 清四郎は、もう一度振り返った。 「それだけじゃ、ないよな?一緒に撮ったもん…証拠写真」 すがるようにそれだけ言うのが、悠理には精一杯だった。 悠理を見下ろしている黒い瞳が、見開かれる。 手から鞄が滑り落ちた。 清四郎の表情が、ゆっくりと変わる。 見覚えのある、少年の顔へと。 「悠理・・・憶えて、いるんですか?」 清四郎の声は、かすれて震えていた。 呆然とした表情。慇懃無礼な仮面が外れた、生の顔。 だけど双眸は、まだ疑わしげに、悠理を見つめていた。 悠理の言葉の意味を測りかねて、揺れ動く心をそのまま黒い瞳は映している。 悠理は手の甲で涙をぬぐった。 胸にこみあげてくる、愛しさ。 「いくらあたいがバカでも、憶えてるよ」 悠理は、恋した少年に、笑いかけた。 「写真撮ったの、ついさっきだもん。忘れるわけな・・・」 言い終わらないうちに、悠理は清四郎に抱きすくめられていた。 少年ではありえない、強い力。広い胸。 身長差があるから、清四郎の顔は見れない。肩口に顔を押しつけられ、息が止まる。 「僕には・・・5年前です」 清四郎の鼓動が、時間を溯るかのような勢いで打つのが感じられた。 14歳の清四郎と抱き合った、同じ街角で。 同い年の清四郎に、悠理は抱きしめられていた。 早朝と違い、夕刻の街中は人通りもある。 それでも、清四郎は悠理を放してはくれなかった。 悠理も、清四郎の背に腕を回す。 華奢だった少年とはあまりに違う広い胸に、戸惑いながらも。 「夢かな・・・」 いつかと同じように、清四郎はつぶやいた。 「夢じゃ、ないよ」 悠理はあのときとは違う答えを返す。 抱きしめた胸も、鼓動も、確かな現実感。 悠理の中で、あの少年と清四郎がひとつのものとなる。 そして、清四郎に問い返した。 「夢じゃ、なかったよね?」 抱き合ったまま顔を見上げると、清四郎があの熱い瞳で、悠理を見つめていた。 胸を締め付ける愛おしさに、眩みそうになる。 「もう、あきらめかけていたんだ。あれは、夢だったのかも知れないと」 清四郎が熱に浮かされたようにつぶやいた。 「でも、あきらめきれなかった。もしかして、いつか、僕の悠理が戻ってくるかもしれないと」 まるで、ひとりごとのような告白。 ”僕の悠理”――――この5年間、友人として過ごしてきた男の、告白。 「清四郎・・・」 清四郎は、ずっとあの日の記憶を持ちつづけていたのだ。 先ほど、悠理が襲われた言いようのない哀しみを、清四郎はずっと感じていたのか。 「言ってくれれば、良かったのに」 「何度か、言いかけました」 清四郎は、熱をはらみ潤んだ瞳で、悠理を見つめる。 吸い込まれそうな引力。 「おまえが目の前で消えて、すぐに、耐えられなくなって・・・憶えてませんか?中3で同じクラスになる前、 勇気を出して、話し掛けたんですよ」 「・・・憶えてない」 『タイムスリップって、信じる?』 そう言って14歳の悠理に、二人で撮った写真を見せたとたん、合成写真だろ、と破かれたらしい。 「ひぇぇ・・・ゴメン」 そういえば親しくなる前から、優等生面した清四郎を、”なんとなくアブナイ奴”と認識していたような気がする。 その一件は憶えていないものの。 「それ以来、待つことにしたんです。あのとき悠理は、僕とはただの友達だって言ってましたからね。 下手なことをして、あれがなかったことになるような事態は避けたかった。僕には・・・大切な記憶ですから」 悠理にとっては、まだ過去にはなっていない、一夜。 体と心のそこかしこに、感触すら残っている気がする。 抱きしめられた腕の中で、悠理の全身が火照った。 清四郎は、悠理の背に回していた手を持ち上げ、頬にふれた。 「ほんとうは、ずっとこうして触れたかった・・・5年は、長かった」 ゆっくりと顔が近づき、唇が触れる。 悠理は瞳を閉じた。 最初は、やわらかく。だんだんと深く。 ゆるやかに開いた唇から清四郎が侵入し、歯列をなぞり、舌を絡めとられる。 息を吸い上げられ、唾液が交ざる。 頭の芯がくらくらするほどの、激しいくちづけ。 少年の清四郎とは、何度もキスをした。 それは、十分に悠理を酔わせたけれど。 こんなに、やさしく暴力的に、甘く激しく、心を侵食されるようなキスは、はじめてだった。 触れた唇から、全身に痺れが走る。 体に回された腕は、動いてはいないのに、全身を愛撫されているようだった。 まだ体に残る痕跡が、甘く疼く。 悠理の足から、力が抜けた。清四郎の支えがなければ、立っていられない。 唇が離れても、眩んだ意識は戻ってこなかった。 足の爪先が、力なく地面をこする。悠理は清四郎に抱きかかえられていた。 「悠理、ちゃんと立ってください」 「ン、無理…」 腰を抱えられ、悠理は夢見心地で答える。 顎を乗せた肩に頬をすりつけて懐いた。 「ダメですよ。家に帰りましょう。こんなところで犯されるのは、嫌でしょう?」 下肢を密着させたままのこの台詞。 悠理はさすがに我に返った。 「たしか悠理は下着を着けていないんじゃないですか。僕としては都合がいいですが」 背に回っていた手に、下肢となだらかな膨らみを撫で上げられ、悠理はあわてて身を放した。 清四郎は口の端を上げ、微笑している。 それは、見慣れた悪友のものと、微妙に違う意地悪な笑み。 「お、おまえ、その顔、すっごいスケベっぽいぞっ」 そう言うと、清四郎はますます目を細めた。 「悠理も”触れなば落ちん”風情ですね。あまり誘わないでください」 悠理は赤面した。 「おまえなっ」 「嘘です。もっと誘ってください」 そう言って、清四郎はもう一度片手で悠理の腰を抱き寄せた。 そのまま、肩を寄せあって歩き始める。 清四郎は悠理の耳元で囁いた。 「こんなに重い鞄を持ってきたのに、今日は勉強どころじゃなくなりそうだな」 悠理はその囁きにさえ、足が震える。 「おまえ…豹変すんなよ」 悠理は赤面したまま、さっきまでうるさい家庭教師だった男を睨みつけた。 「どうしてあのとき、悠理が今の僕のことを”ひねくれ者”と言っていたのか、ようやくわかりました」 「?」 「思春期にとんでもない女に捕まって、初体験してしまったせいです」 「な、なんだよ、それってあたいのことかよ!」 「決まってるでしょう。一晩だけで消えてしまった恋人なんて、最悪です。その上、うりふたつの―――― 本人が目の前にいるのに、手出しひとつできないで。性格ぐらい、少々ヒネます」 素直だった少年の片鱗が、その目を揺らした。 「おまけに、まさか僕らが高3を二回もするとは思いもしませんでしたからね。悠理が夏服だったから、てっきり去年の夏の終わりだと思っていたんです。 それで、衣替えのときにあの写真を見せたんですよ。それをおまえは、”いつ撮ったんだ?サンキュ!”でしょう」 苦笑する清四郎の頬に、悠理は手をやった。 やわらかさがなくなった鋭角な輪郭。冷笑を浮かべる皮肉な口元。 だけど、瞳は同じ想いを浮かべ、悠理を見つめている。 そういえば、一度も悠理は自分の気持ちを告げていないことに気がついた。 「好きだよ、清四郎」 歩いていた清四郎の足が、止まった。 「清四郎は?」 わかっていても、聞きたかった。少年の清四郎が何度も告げてくれた言葉を、19歳の清四郎の口から、もう一度。 清四郎は悠理を凝視している。 強張ったその顔に、悠理は首を傾げた。 「どした?」 突然、清四郎の顔が、すごい勢いで赤く染まった。 肩が触れた清四郎の胸が、バクバク音を立てている。 清四郎は悠理から顔をそらし、片手で自分の顔を覆った。 「…カンベンしてください」 「おまえ、まさか照れてんの?」 恥ずかしげもなく迫りまくられた記憶は、まだ悠理には昨日のことだ。 清四郎にとっては、5年間押し殺してきた言葉であっても。 今の清四郎には、素直に気持ちを口に出すことが、困難なことらしい。 「…ほんとうに、ここでヤッてしまいそうになる。殺し文句は、あとに取っておきますよ」 まだ赤らんだ顔でそう囁かれ、悠理も頬を染める。 「今夜ゆっくり、5年間の修行の成果をおまえの体に教えてやるから」 だけど、続く言葉には、目を吊り上げた。 「なんの修行だよっ」 探究心旺盛で修行に励んだ勤勉な少年は、まだ彼の中に生きているらしい。 しかし、悠理が身をもってそのことを教えられたのは、その夜のことではなかった。 『お宅の坊ちゃん、男の子と抱き合ってましたわよ』 お節介な隣人からそう教えられ、困惑していた菊正宗夫人は、帰宅した息子と友人の令嬢の様子に、大方のことを見て取った。 そして、それまでは、泊り込もうがなにをしようが放任していた方針を、転換することにした。 いきなり居間での公開勉強合宿を命じられ、夫人と和子に交互に見張られることになった二人が、思いを遂げるのは、だから少し後のこと。 5年+α、焦らされまくった清四郎の性格に、また一回転ひねりが加わったことは、想像にかたくない。 それもこれも、イタズラ好きの運命の女神の思し召し。 女神はふたりへ、幸多かれと、L・O・V・E 投げキッス♪ |
え、女神って?わ・た・し、に決まってるでしょう!(←バカ)
ここらへんで終わっときます。あやうく、筆が滑って切ない話に方向転換しそうになりました。
「おまえを愛したのは、5年前の僕だ。今は、友達としか思えない」歳月は、少年をクールな大人の男に変えていた…。
な〜んちゃって。
しかし、この二人も間違いなくところかまわずイチャイチャするバカップルになりそうですな。
別室の人達って、そんなんばっか・・・。