名前のない空を見上げて





あたしは、てっぺんに立っていた。
山か塔だかわからないけど、すごく高い、てっぺんに。
下を見下ろしても、あまりに遠くて、見えやしない。
高い所は大好きだけど、足が震えた。
だって、あたしはひとりぼっちだったのだ。
心細くて、あたりを見回す。

『悠理』
声が聞こえた。
『悠理、おまえならやれるよ』
『悠理ならだいじょうぶ』
あたしは安心する。その声は、あたしに勇気をくれる。
あたしが強いと、知っている声。
あたしを無条件に、信じている声。
それは、父ちゃんのような、母ちゃんのような、あの悪友たちのような声。
あたしは、はじめて顔をあげた。
頭上には、真っ青な空。
果てがない、ひろいひろい大空。
『飛べ、悠理!』
あたしは、声に背を押され、地を蹴った。



落下。
世界は反転する。
血の気が引いた。 



落下しながら、それまで見えなかった、みんなの顔が見えた。
父ちゃんが叫んでいる。
美童と可憐は泣きそうだ。魅録が手を伸ばすが、届かない。 

死ぬ。今度こそ、あたしは死んでしまう。 

『大丈夫だ
絶対おまえは死なないから。
飛行機で落ちようが、ビルから落ちようが
絶対死なない
保証してやるよ 』 

清四郎のうそつき。
あんなにはっきり言ったくせに。 

清四郎は、あたしに向かって身を乗りだす野梨子を、抱き止めていた。

そうだ。
野梨子はあたしと違ってウンチなんだから、おまえの手が必要だ。 


そういえば。
清四郎はあたしには、守ってやる、と言ったことはない。
いつだって。
一度だって。 

伸ばしたあたしの手は、むなしく空をつかんだ。
空の青さが目に痛い。 


落下しながら、あたしは泣き叫んでいた。 

あの手が欲しい。他にはなにもいらない。 

駄々っ子のように、泣きわめいた。
落ちていく恐怖を、ひとりぼっちの不安を、
ふりはらってくれる、あの手が欲しい。 

あたしだけの、あいつが欲しい。 

夢の中でさえ、それがないものねだりだと、
かなわぬ望みだと、
わかっていたのに。 
 



「清四郎のうそつき!」
叫んだ瞬間、泣きながら目が覚めた。 
 



*****





「どんな夢見てたんですか、悠理。なんで僕が嘘つきなんだ?」
いやな夢に、全身が汗だくだった。
「まさか、また予知夢ってんじゃないよね、悠理」
美童がおっかなびっくりあたしの顔をのぞき込んでいた。
涙をぬぐい、身をおこす。
見慣れたド派手な内装は、あたしの部屋だ。
「・・・昔の夢。コーコーんときの。予知夢じゃない」
ふるふる首をふる。
夢で見たのとは違い、短い髪の美童が安堵のため息をついた。
あたしの予知夢があたり、ひどい目にあったことのある美童としては当然だろう。
「で、なんで僕が嘘つきなんですか?」 

高校を出てからずいぶんたつのに、清四郎は夢の中の姿とほとんど変わっていない。
今日、空港で一年ぶりに再会したとき、あまりの変わらなさに拍子抜けしたぐらいだった。
昔から老けてたっていや、それまでだけど。 

「清四郎が悠理をだますのなんて、高校のときの夢なら、あたりまえだろぉ」
美童がケラケラ笑った。
大学を出て母国に帰り髪を切った美童は、見かけこそ大人っぽくなっていたが、中身はあいかわらずヒラヒラヒヨヒヨ。
すでに結構な酒が入っているせいもあるだろうが。

心外ですね、と清四郎は苦笑した。
少し頬が染まって見えるのは、ザルのこいつにしては珍しい。
一足早く帰国していた美童とちがい、時差ぼけもあるんだろう。
それとも、野梨子との再会は、さしもの清四郎をもナーバスにしているんだろうか。 

野梨子は、清四郎に会うためだけに、家に来た。
多忙中にもかかわらず、一人だけで。
明日だと、もう清四郎と二人きりで会う機会はないから。 

 清四郎の日本滞在は、今日と明日だけだ。実家による暇もない。
寄っても、清四郎の部屋は和子姉ちゃんの私物に占領されているため、客間泊まりになるという。
だから、家に誘った。
おじさんの赴任先が替わり日本に家のない美童も、数日前から剣菱邸に荷物を置いている。
本人のほうは、夜毎ガールフレンド宅をハシゴしているのか、姿がなかったが。 
 


 野梨子は、うちのだだっ広くかつ悪趣味な客間に、ちんまり座って待っていた。
本当は空港まで迎えに行きたかったと電話で言っていたが、やはり無理だったのだ。
あたしが、わざわざ成田に車を回したのは、彼女の名代。
清四郎と野梨子を、再会させたかった。二人の親友として。 

子供の頃からのトレードマークだった髪を伸ばしアップに結い上げた野梨子を、清四郎はまぶしげに見つめていた。
大学を出てすぐ次期家元として母親を手伝いはじめた関係上、あの金太郎頭はまずいのだろう。
幼児体型や少女じみた容貌はそのままなのに、落ち着いた和服を着こなす野梨子はずいぶん大人っぽくなった。
あたしや可憐や魅録にとってはもう見慣れた野梨子の姿だったが、海外組には珍しかろう。
それも、それまで身近であればあるほど。 

清四郎の留学で離れ離れになるまで、二十年以上、二人はお互いにもっとも近いところに居た。
清四郎のあの手は、いつでも野梨子を守るためにあった。 

再会した幼なじみ同士を二人っきりにさせてあげようと、あたしと美童は席を外した。
それでも、あんな夢を見てしまったのは、去り際に聞いた野梨子の言葉のせいだろうか。
「・・・・ありがとう、清四郎」
 野梨子は清四郎の手をとり、告げていた。
声がふるえているのは、涙ぐんでいたからだ。
うれしくて、幸せで。
あの気の強い野梨子が、泣いていた。
「いままで、ほんとうに私はあなたに守られてきましたのね・・・」
清四郎が野梨子を抱きよせる。
あたしは静かに扉を閉めた。 
 




野梨子ほど強い女を、あたしは知らない。
可憐もたくましいけれど。
うちの母ちゃんや、千秋さんや、和子姉ちゃんや、強い女は身の回りにはたくさんいるけど。
それでもあたしは、凛とした野梨子の芯の強さを、ほんの子供の頃から痛感していた。
さみしさも、不安も、野梨子を揺るがせやしない。
だって野梨子は、子供の頃から持っていたから。
あたしが、欲しくてたまらない、たったひとつのものを。 
 



明日から、新しいときが始まる。
野梨子と清四郎は、幼なじみに決別したのだろう。
そのために、清四郎は帰ってきた。 
 


あたしも、決別しなければならない。
ほんとうは、弱いあたし自身に。 

『おまえは大丈夫だ』 

 かつて清四郎があたしに言った言葉。
自分の胸のうちで、おまじないのようにくりかえす。 

いつだって、ほんとうは助けられてきた。
あたしが最初に頼るのも、最後にすがるのも、あの憎たらしい男だった。
だけど清四郎は、あたしのことを守る、とは言わない。 

『悠理はあちらへ ――― 
――――僕はこっちだ』 

いつだって、清四郎はあたしの強さを疑わなかった。
自分と同じように戦うものとして、別の方向を指差した。
トラブルメーカーのあたしを、なんどもなんども助けてくれたけど。
『おまえは大丈夫だ。僕が、保証してやるよ』
清四郎は、勇気をくれた。信じてくれた。 

 だから、あたしもそれを真実にしなければならない。
ひとりぼっちでも、生きてゆく強さが欲しい。 
 


*****





「野梨子も大変だよなぁ。家元代理で多忙なんだろ」
仲間たちの中でまだ学生なのは、ケンブリッジに留学した清四郎とスウェーデンで院に進んだ美童だけだった。
犯罪歴には枚挙暇ない魅録は、ばっくれて警察官なぞをやっている。
野梨子と可憐は家業手伝い。そして、あたしも。
「悠理は、お披露目いつだっけ?」
またそのときは帰って来なくちゃ、と言う美童に、あたしは言葉をにごした。
「うーん、まだ父ちゃんも決めてないんじゃないかな。数年先になるかも、だし」
「ええ、なんで?もう悠理はおじさんや豊作さんと一緒にやってるんだろ」
「いくらなんでも、まだ無理ですよ、美童」
クスクスと、清四郎は笑った。
こいつ、いろいろ知ってやがるな。
父ちゃんが、後継者は悠理だがや、と役員会で宣言かましたときの大混乱だとか。
アメリカ支社でヘマしたときの騒動だとか。 

聖プレジデント大学在学中から、清四郎は請われて剣菱の経営に関与していた。
父ちゃんも兄ちゃんも、あの婚約騒動以来、清四郎に頼る悪癖がついている。
おかげでいまだに、我が家には清四郎専用の部屋が(使うもののないまま)あるし、コンピュータは世界どこに居ようとフリーパスだ。
あたしが日本に帰って来ない清四郎と一年前顔を合わせたのだって、欧州での合弁事業グループ会議の席だった。
忙しい清四郎が、そうそう剣菱にかかわってもいられないだろうに。

そう、あのヨーロッパで。
一緒に行くはずの父ちゃんは、またぞろ機嫌を損ねた母ちゃん追っかけて、ハワイへ逃亡。
兄ちゃんは、激しく頼りにならない。
あたしはあちらの経営陣とは初顔合わせで、ものすごくびびっていた。内緒だけど。
清四郎は気づいてたかも。けど、知らないふりを、してくれていた。
『おまえは大丈夫だ、悠理』
あたしは、心のうちで、おまじないを繰りかえしていた。
手をのばせば届きそうなところにある、すがりたくなる手を、見ないようにしながら。 
 


*****





やせ我慢をくりかえすうち、嘘もいつかほんとうになる。
清四郎がついた嘘を、あたしが真実にする。 
 


もうすぐ、あたしはてっぺんに立つ。
たった一人で。
ほんとは、心細くてたまらないけど。
泣きじゃくっているあたしをの頭を撫でてくれる、あの温かな手は、もう頼らない。 
  


*****





向こうでハマったらしいスコッチウイスキーに、清四郎は静かに口をつけている。
「悠理、もう飲まないんですか」
子供のころから父ちゃんと飲んでいたワインでは、あたしは酔えない。
「飲むぞ、もちろん!」
言いながら、新しいワインボトルを開ける。
「えええっ、まだ開けるの! 明日がつらくなるよぉ。明日だって、可憐らと飲むんだしさぁ」
「なに言ってんだよ、このくらいで。明日も飲む!今日も飲む!ひさしぶりに有閑倶楽部がそろうんだぜ。今夜は前祝いだ。なっ、清四郎」
清四郎は微笑して、あたしに同意のグラスを掲げた。
「おまえらバケモンにつきあえないよー!」
美童の泣き言をBGMに、あたしたちは杯を重ねる。 

きっと、酒はあたしのほうが清四郎よりも強い。
だから、酔いにまかせて、よけいなことを言わないですむ。
言わないつもりの言葉を。
居眠りはさっきしたから、夜通しだって大丈夫。
明日の朝は、晴れやかな笑顔を見せてやろう。 

明日は、あたしたちには、特別な日。 

仲間たちがそろう。かけがえのない、一生の友達。
だけど、あたしたちの関係がすでに以前と同じでないことを、だれもがもうわかっていた。
いつまでも、子供ではいられない。
もうそれぞれの道を、見つけている。
だれかと寄り添って、生きてゆくのを選んだものもいる。
だけど、あたしは――――  

美童は賢明にもウーロン茶をすすりだした。
「明日の夜はどうするんだ、清四郎。帰りの便とってあるって言ってたっけ」
「ああ。でもやっぱり、一度家に帰ります。うちの親はともかく、野梨子のご両親にちゃんと挨拶して欲しいって言われてしまいましたからね」
「そりゃ、そうだろぉ。あっちは清四郎のこと家族同然に思ってんだからさ」
だからこそいまさらだとは思うんですが、と、清四郎は苦笑する。
「帰るの一日遅らせなよ。あぶれ者の僕らはどうせここで徹夜で飲んでるだろうから。合流してもいいし。ね、悠理」
「うん」
「でも今日は驚いた。野梨子、綺麗になったなー。そりゃ昔からピカピカの美少女だったけど、ものすごく綺麗になっちゃったよね」
「・・・うん」
恋は、野梨子をどこまで美しくするんだろう。
清四郎は同意も否定もせず、静かにグラスの氷を見つめている。
グラス越しに見えた目は、優しく細められていた。
気持ちが染みでてしまっている。遠くのだれかを想う優しい笑み。
こら、清四郎。いつもの鉄化面が外れてるぞ、おまえ。 

「それで清四郎・・・いつちゃんと帰ってくるのさ」
美童の質問は、ほんとうはずっとあたしが聞きたかった問いだった。
だけど、心のどこかで、ずっとその答えは聞きたくないと思っていた。
「・・・そろそろ、考えてますよ。潮時ですからね。もう、あまり待たせるわけにもいかないし」
清四郎はゆっくりと、言葉を選んで答えた。 

どくん、と心臓が跳ねた。
『あたしは、大丈夫だ』
おまじないをくりかえす。 

いつかは、帰ってくるとは思っていた。
でも、あたしはそれを望み、そして恐れていた。 

 もうしばらく猶予が欲しい。
もっと、あたしが強くなるまで。
目の前にあるのに、あたしのものにならないあの手に、すがりついてしまわないくらい。 
 


からからの喉を、ワインで潤した。
「それで、帰ってきたら、医者になんの?」
あたしの質問に、清四郎は目を見開いた。
「はぁ?」
清四郎は、あたしの頭をコツコツ拳でノックする。
なにすんだよ。気安くさわんな。
「モシモーシ」
そのふざけた仕草で、顔にはあまり出ないものの、清四郎もかなり酔っているのだとわかった。
冗談でも、いまはおまえに触られたくはない。
あたしはグラスをしっかり抱えて、清四郎から距離をとった。
「バカだ、バカだと思ってたけど」
清四郎は大袈裟に嘆息してみせる。
「おまえは僕の学科も知らないのか。医者になるつもりで、ケンブリッジ留学してMBA取るほど僕が閑人だとでも?」
よく言うよ、いつだって清四郎は閑人の親玉じゃないか。
そういわれてみれば、日本では経済学部だったような。
英国での学部なんて、聞いたけれどわかるわけないだろ。
だいたい、おまえ、MBAってなんだ。暗号か。 

「あのね、悠理・・・」
「説明したってわかりませんよ、このアホには」
美童を片手で制し、清四郎はあたしを真正面からにらみつけた。
「ここ数年あまり会ってなかったせいもあって、悠理も剣菱の後継者としての貫禄がついたと、実のところ感心してたんだが」
なんだよ。目がすわって、こわいぞおまえ。こら、それ以上顔を近づけるなってば。
背中に、壁の感触。追いつめられた。
「おまえの馬鹿が治ったと、油断してた僕が悪かった」
バカバカと、いまさらのようにくりかえす清四郎。まさか、喧嘩を売っているとか。
これ以上あたしが逃げないように、清四郎は頭の両側に手をつき、視線をあわそうとする。
あたしは必死で目をそらし、唇をかみしめた。
 人の気も知らないで。
ここは怒るところだぞ、と自分に突っ込む。
だけど、怒るよりも、泣きだしてしまいそうだった。
あの夢のように、駄々をこねて、泣き叫びたい。 

――― おまえが、必要だと。
ずっと、そばに、いて欲しいと。 

それは、あたしが封印しつづけてきた言葉。
かなうはずのない、あたしの願い。
一生、口に出せない。出さないことが、あたしのプライド。 
 


胸をつきあげる衝動を、あたしはこらえた。
『あたしは、大丈夫』
おまえが居なくても、生きてゆける。
清四郎があたしにくれた、たったひとつの呪文だけを心の中で抱きしめて。 

そうして、顔をあげた。
至近距離の清四郎の顔を、真っ直ぐ見つめる。
酔いに火照った清四郎の顔が、わずかにゆがんだ。 

なんだか、泣きだしそうな顔に見える。
泣きたかったのは、あたしなのに。 

「カリスマ性と、野生の勘か・・・たしかに、おまえはあのおじさんの子だな。だけど、それだけじゃだめだ」
清四郎の声は、真剣だった。
あたしは、ただ清四郎の強いまなざしを受けとめる。
清四郎のそれが、長年の友人としての真摯な言葉だと、すぐにわかった。
だから、あたしも応えなければならない。 

「ビジネスは食うか食われるかだ、悠理。隙を見せるな」
「・・・サバイバルは、望むところだ」 

負けて、たまるか。
それは虚勢だったけど。
いまのあたしには、精一杯だった。 

やっとしぼりだしたあたしの言葉を、清四郎も気に入ったようだ。
手が壁から離れた。近かった顔が遠のく。
「上に立つ人間に必要なのは、知性よりも、意志の力だ。たしかに、おまえは、あのおばさんの子だよ」
張り詰めていた空気がゆるんだ。
あたしたちの間にあった緊張感に、息をつめていたらしい美童が吐息をつく。
清四郎は、いつもの表情にもどっていた。
ニヤリと微笑し、あたしの額を指ではじいた。
「おまえは、大丈夫だ ――― 僕が、保証してやるよ」 

あたしは誇りに思う。
その言葉を聞いて、泣きださなかった自分を。 
 


清四郎が知らずについた嘘を、あたしは全力で本当にする。
心の奥に封じこめた言葉は、一生言わない。
そうして。
いつか、てっぺんで、笑ってみせる。
あの青い空を見上げて。
あたしらしい、全開の笑顔で。




 


悠理くん編です。なんかしら、煮詰まってます。
お馬鹿な彼女も可愛いけれど、剣菱継げるくらいの甲斐性欲しいなー。
かっこいい女に成長してくんないかなー。無理か、やっぱ。(笑)
清四郎くん編に続きます。

 

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